第2話 金魚の泳ぐ空間

 一週間ほど前、チハルちゃんと大喧嘩した。

 原因はやはり、チハルちゃんが私の彼氏と寝たから。

 今回の彼はなかなかチハルちゃんになびかなくて、私はとうとう真面目で私だけを愛してくれる人が現れたと感激していたのだ。するとチハルちゃんはズルい手に出た。彼にいっぱいお酒を飲ませて、正常な判断を奪って、そして寝たのだ。

 私は、彼に裏切られたという気持ち以上に、そこまでして私の彼を略奪したいのか、とチハルちゃんに対する怒りが膨れ上がり、何年かぶりの絶交を言い渡した。

 チハルちゃんからは言い訳のメッセージが入ったが私は無視をした。

 そして、彼氏とチハルちゃん同時に失った私は、仕事をがむしゃらにして気を紛らわすことにした。


 だからその日、私は休日出勤アンド連日の残業で死にかけていた。

 帰りの電車で乗り過ごして、ずいぶんと遠くまで来てしまったのは仕方がないことだったと思う。

「ネカフェじゃくても、マックとか、24時間営業のとこ……」

 一応次の日は休みなので、とりあえず始発まで凌げる場所を探して、私は駅前をフラフラとあるき出した。

 寂れた駅で、すでにほとんどの店が閉まっていた。

「どうしよ。タクシー勿体ないしな。駅で過ごすしかない?」

 そう思いながら歩いていたときだった。

 明かりがついている個人経営の喫茶店のようなところを見つけた。まだ営業中のようだ。

 とりあえず何時まで空いているか聞いてみよう、あわよくばギリギリまでいさせてもらおうと、私はその古いドアを開けた。


 中は、古き良き純喫茶の雰囲気だった。しかしコーヒーの匂いはしない。よく見ると、カウンターの後ろにはたくさんのリキュールの瓶がならんでいる。ここは、喫茶店ではなくバーのようだ。

 そして、少し風変わりなことに、いくつもの水槽が席の横に並んでいた。綺麗な青い光の中に漂うように泳いでいるのは、全て真っ赤な金魚のようだ。

 お客は誰もいない。金魚だけがこの空間で息をしていた。


「いらっしゃい」

 カウンターのところをから、背の高くて細い、ショートカットの女性が愛想のない表情で顔をのぞかせた。とても美人だ、と私はひと目で思った。

「お好きな席どうぞ」

 言われて私は、カウンターに座る。

「ここ、何時までですか」

「一応、12時まで」

 あと30分くらいしか無い。それでも、疲れていた私は、この店から出る気力はもう無かった。

「なんかソフトドリンクをお願いします」

 私はそう注文すると、女性は首を傾げた。

「お酒飲めないの?」

「いえ、連日の仕事で疲れ切っちゃってて、アルコール入れたらすぐ寝ちゃいそうで」

「なら、こんなとこいないで帰ったら?」

 店員とは思えない事を言ってくる。まあ正論だが。

「電車乗り過ごしてここまで来ちゃったんですよ。タクシー使うのもダルいし……この辺に24時間営業のなんか時間潰せるとこありませんか」

「無いよ。この街はみんな早寝早起き」

 女性が言い切ったので、私はガックリと肩を落とした。

「そうですか。じゃあ駅で始発まで大人しくしてるか」

「若い女子がそんなの危険。うちの仮眠室使ってもいいよ」

「えっ?」

 女性の思いがけない誘いに、私は目を丸くした。

「いいんですか?」

「その代わり、飲めないんじゃないなら、何杯かお酒注文してよ。今日全然客来なくて」

「注文します!じゃあ」

 私は意気揚々とメニューを手に取った。

 こんなに簡単に問題が解決するとは思わなかった。私がジントニックを注文すると、女性は綺麗な手付きで流れるように作り上げた。

「私も頂いて良い?」

「ええどうぞ」

 私が頷くと、女性は赤い何かが入った瓶を取り出してコップに入れた。

「それは?」

「唐辛子」

「唐辛子?」

 私が首を傾げているスキに、唐辛子と、何やら葉っぱの入った一杯を作り上げた。

「これね、金魚っていう飲み方なの。唐辛子と大葉を入れた焼酎」

 女性はそう言って、私にその一杯を見せた。

 私はそのグラスを覗いた。赤い唐辛子が確かに金魚のように浮かんでいる。

 グラスの向こうからは、本物の金魚も泳いでいるのが見えた。とても幻想的な風景に思えた。

「おねえさん、金魚、好きなんですか?」

「私ね、ウオって名前なの。魚って書いてウオ」

「可愛い」

私は思わず言った。

「いいな。私普通の名前だから羨ましい」

「何ていうの?」

「ユカ」

「ユカも可愛いじゃない」

ウオさんは笑った。

「名前に魚が入ってるから、とりあえず魚でも店に飾ろうかなと適当に考えて、で、とりあえず近くの爺さんから和金を譲ってもらって飾ったの。

そのうち、近所の子供達が、祭りで取ってきた金魚を家で飼えないからって次々うちに持ってきて……今やこの有様」

そう言って、ウオさんは店中を見渡してみせた。確かに、大小様々な水槽にはたくさんの金魚がいるが、ほとんどが祭りの金魚すくいで見るようなものばかりである。それなのにここで見ると妙に美しい。

「ま、おかげで名物になったし、私も金魚に敬意を込めて、こうして飲むことにしてるの」

そう言って、ウオは金魚を口に含んだ。疲れているせいか、それが妙にセクシーに見えた。

「私も次ソレ飲みたい」

「くせがあるよ。私のちょっと味見してみて、悪くなかったら注文して」

そう言って、ウオさんは私に金魚を差し出した。

ウオさんの口紅がうっすらとついたそのグラスを見ていると、なんだか私はドキドキした。そっと口をづけようとすると、キツイ焼酎の香りに、私は思わずむせた。

「あはは。ごめんいい忘れてた。これロックなんだ。水割りとかにする?」

「いらない」

バカにされたような気がした私は、ウオさんのグラスを思いっきり飲み干した。唐辛子が入っているせいなのか、ロックだからなのか、とても体が暑くなる。

「あら、全部飲まれちゃった」

楽しそうに文句を言うウオさんに、私は言った。

「同じの、下さい」


その後、何杯か飲んで、私は記憶を失った。さすがに仕事の疲れに加えて、慣れない強い焼酎は体に堪えたらしい。


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