博望坡の戦い-6

 徐庶は、関羽を救援しようと李典部隊の突破を試みるが、兵士の数が違いすぎた。なにしろこの博望には伏兵を隠すに適した地形――森や山がない。

 次々と白耳隊の騎兵が討ち取られ、曹操の正規軍を相手に奮戦していた義勇兵たちも体力の限界を超えてばたばたと倒れていく中――。


「よく持ちこたえてくれた、みんな! 孔明が出盧してくれたぞ! 反撃開始だ!」


 的盧に乗ったミズキと、奇妙な「四輪車」に座って羽毛扇をそよがせている孔明が、博望を望む丘陵に現れていた。四輪車を動かしている動力源は、数匹の彭侯たちだった。


「さすがは彭侯ね。人間の召使いよりもよく働くわ。あとでご褒美をあげる」


「ひいひい。精霊使いの荒い孔明です」


「ですが、われらは太陽の光を浴びれば元気百倍!」


 彭侯たちは戦闘力は皆無だ。二人ぽっちじゃ前線には出られないぞ孔明、とミズキが釘を刺すが、孔明は、


「あら、案ずる必要はないわ。私は煩わしい前線などには出ないわ。前線で切った張ったの戦いをするのは、あくまでも武官たちと戦場軍師・徐庶の仕事よ」


 と、どこ吹く風で笑っている。せめて馬くらい乗れよとミズキは思うのだが、基本的に引きこもりで運動が嫌いな孔明は、馬に乗ることで消耗する体力すら惜しむらしい。


「もしかしてミズキ。この私をただのぐうたら娘だと疑っているの? 情けないご主君もいたものね。この四輪車には、戦に用いる荷物を積み込めるのよ。しかも、安定した四輪のおかげで、彭侯たちの力でも楽々と運べるのよ。さあ。私が隆中から持ってきた『銅鑼』を掲げて、思いきり鳴らしなさい。私を押し倒したあの時の迫力を思いだして、全力で叩くのよ」


「銅鑼を?」


「そう。銅鑼を。ジャーンジャーンと。義勇兵軍の総大将はあなたなのよ。いくら急造の新野義勇兵軍とはいえ、銅鑼の合図くらいは決めてあるでしょう? まずは問答無用の『退却』の合図を出しなさい」


「退却!? せっかく踏ん張ってきた義勇兵たちが、潰走してしまうじゃないか!? どういうことなんだ、孔明」


「続いて矢継ぎ早に『火計』の合図を。関羽雲長が少人数の兵ともに踏ん張っている、わが軍の本陣を焼き払わせなさい。そうでもしないと関羽は愚直に本陣を守り続けかねない。輜重ごと本陣を燃やしてしまえば、もはや本陣を守る意味はなくなり、関羽も、そして敵中深くまで踏み込んでいる張飛と趙雲も撤退する他はなくなるわ」


 ちょ。自軍の本陣を火計で炎上させようっていうのか!? 諸葛亮孔明の初仕事が「全面撤退・潰走」と「自軍の焼き討ち」だなんて、そんな馬鹿なああああ! 俺たちが新野で稼いできた銭は、ほとんど輜重に……兵糧に突っ込んでるんだぜ。それを残らず燃やすのか? とミズキは悲鳴に近い叫び声をあげたが、孔明は相手にしない。「あなたってほんとうに愚か者ね、しかも徐庶と同じく守銭奴の性質の持ち主かしら」と鼻で嗤っている。


「ミズキ。今、あなたに説明している暇はないわ。さっさと叩きなさい。本陣から炎があがり、全軍が潰走を開始したら、私たちも一目散に逃走して南の森へと隠れましょう」


「しかも、俺と孔明も逃げるのかよっ! もしかして、ただの全軍撤退っ!? 新野に籠もったら包囲されて詰み、じゃなかったのか!? 劉表からの援軍はないんだぞ!?」


「私を信じなさい、ミズキ。私が、あなたを信じているように。私ほどの才女が、あなたと『水魚の交わり』を交わし、生涯あなたに犬馬の労を尽くしてやると言っているのよ? いいこと? あなたの生涯においてこのような幸運は二度とないわよ。何万回この世界に召喚され直されたとしてもね」


「……そうか、そうだな! おおし! わかった! 訳がわからないが、孔明を信じてとことんやってやろうじゃないか! 劉備さんならば、迷わずにそうした! 行くぞ孔明! 銅鑼をぶっ叩いて、全軍を崩壊させる!」


 ジャーン、ジャーン。


 博望の戦場に、ミズキが鳴らす銅鑼の音が響き渡った。

 理解しがたい「命令」が、降った。

 戦場からの全面撤退。輜重も武具も捨てての敗走。しかも、自軍の本陣への火計を命じてきたのだ。輜重をことごとく焼いてしまえ、ということである。


「な、な、な、なにを言いだすのです、ミズキは!? 錯乱したのですか? あの、ミズキの隣で妙な四輪車に乗っている諸葛亮孔明が、このような破滅的な策を!? 非常識にも程があります! はっ、まさか張飛が隆中を焼こうとしたことへの意趣返しでは? 私は絶対に撤退などしませんっ! 最後の最後まで本陣を死守します!」


 関羽は顔を真っ赤にして怒ったが、李典の部隊をようやく回避して本陣へと駆け込んできた徐庶が、


「小僧がついにやりやがった、孔明を出盧させたぜえええええーっ! これは孔明の策だ! 今はなにも考えるな、関関ちゃん! 正軍師の命令に従え! 片っ端から燃やせ! 兵糧も武具も、なにも残すな! 燃やすだけ燃やせ! 逃げろ逃げろ! 戦は俺さまたちの完敗だ、新野まで逃げるしかねえええ!」


 と白耳隊の面々を率いていっせいに本陣へと火を放ったため、関羽は「あああああ!? なにをするのですか徐庶どの! やめてください!」と涙目になって黒髪を振り乱した。だが、徐庶が丁寧に油まで撒いて回るので、もう本陣を鎮火することはできない。しかも、いい感じに東南の風が吹いて一気に本陣を炎が包んでいく――。


「うわあああ! なぜ今ここで東南の風が? やはり意趣返し……! 私が持ち場を決して離れないと読んで、本陣ごと私を焼き殺そうと? ぐ、ぐぬぬ。おのれ孔明……!」


「オイオイオイオイ関関ちゃん! あんたが焼け死んでどーする! 孔明は、屋敷を焼かれかけたことなんて根に持っちゃいねえって! 見ろ、本陣に火の手があがったのを見た義勇兵たちが精神崩壊した! 大敗走がはじまった! 俺さまたちも、逃げるぜええええ!」


 徐庶は、ぐずる関羽が乗っている赤兎の尻を無理矢理に押して、大炎上する本陣から関羽を撤退させた。


「こうなったら、潰走する義勇兵たちを一人でも多く守り抜くしかありませんね――それが将軍としての務めです! 張飛と趙雲はどこにいるのです、徐庶どの?」


「夏侯惇と于禁を追ってずいぶん離れちまっていたが、この炎を見ていっせいに兵を反転させている。あの二人の武をもってすれば、戦場からの離脱はたやすい! すぐに追いついてくる!」


「……張飛も、残念ながら逃げ癖がついていますからね。夏侯惇と于禁を目の前にして、よく退却に転じられましたね」


「張張だけだったらヤバかったが、趙趙ちゃんがついているからな! あの娘は激情家揃いの劉備一家の中では珍しく冷静沈着だ! 彼女たちが率いている義勇兵も、最小限の被害で済むはずだ!」



「どうして孔明があたしたちの本陣を焼き払わせているんだっ? ミズキまでノリノリで銅鑼を叩いて……訳がわからないよ! あとちょっとで于禁を討ち取れたのにっ! 悔しいなあ、もう!」


「ふふ。私も冷静な智将ぶっているけれど、実はさっぱりわからないんだ……でも、ミズキくんが正軍師として三顧の礼を尽くして抜擢した孔明を、信じようよ。ミズキくんは、私たちの未来を知っている人なのだから」


「そうだな! 本陣を燃やしたのは正解かもな! ああでもしないと、関羽の姉貴はてこでも動かなかっただろうからな!」


 張飛と趙雲は、立ちはだかる曹操軍の騎馬兵たちを片っ端から蛇矛と涯角槍で突いて馬から落とし、血路を切り開いていた。


「つ、強い! 関羽飯店で舞を舞っていたあの愛らしい姫さまたちとは思えないほどに強い!」


「張飛さまはどこまでも荒々しくまっすぐな突きを繰り出し、趙雲さまはまるで予測がつかない槍の軌道内に敵を捕らえて手品のように馬上から突き飛ばす!」


「張飛さまと趙雲さまに従って走れば!」


「生きて新野へ戻れる!」



 趙雲と張飛、そして関羽が、「崩れたぞ!」「今だ!」「ニセ劉備が丘陵に現れた!」「このまま全軍で追撃し、ニセ劉備を討ち取れ!」と追撃してくる曹操軍を防ぎ止める「盾」となって義勇兵たちを逃がす。三人の超絶の武がなければ、全滅は必至だったろう。それほどの、文字通りの大敗走である。


 曹操と袁紹の決戦「官渡の戦い」の折りにお留守番役を命じられて長らくうずうずしていた夏侯惇は、


「フハハハハ! ニセ劉備め! どんな策を持ってきたのかと思ったら、撤退のための銅鑼を運んできただけだったとはな! 劉備一家を滅ぼす絶好の機会が、キター! これで孟徳に褒められる! 曹操軍一の猛将がこの夏侯惇さまだと言うことを証明してあげる!」


 と狂喜して、「全軍突撃いいいい! 新野まで駆けに駆けよ! ニセ劉備を新野に入城させるなあああ!」と自ら先頭に立ち、追撃を開始していた。


「元祖劉備は逃げ足だけは超一流だったけれど、二代目はどうかしら? まあ、戦場での初仕事が『全面潰走』という時点で、期待できないわね。息の根を止めて曹操さまの覇業を完成させましょう。反曹操派の象徴だった劉備一家が消滅すれば、もはや単独で曹操さまに勝てる群雄はいない。曹操さまの天下統一は成ったわ」


 于禁もまた、「炎に包まれている劉備軍の輜重が惜しいけれども、足止めに用いているつもりね。その手には乗らないわ、捨ておきましょう。追撃あるのみよ」と夏侯惇の背中を押した。


「官渡の戦いでは、孟徳は圧倒的な大軍を率いる袁紹に手こずったが、烏巣に袁紹が集めていた輜重を自ら奇襲して焼き払って勝ったのだったな。ニセ劉備め。自分から自軍の輜重を焼き払うとは、焼きが回ったな! 曹操さまはニセ劉備を登用したがっていたが、銭稼ぎがうまいだけで野戦将軍としての能力は袁紹以下だ。生かしておく値打ちもない! フハハハ!」


 夏侯惇も于禁も、ただ前へ進むしか能がない猪武者ではない。曹操のもとで戦を繰り返してきた経験豊富な名将である。夏侯惇を猪武者と罵れる者は、この大陸には諸葛亮孔明しかいないだろう。もしもこの潰走が「芝居」だったなら、二人はこれが孔明の罠だと即座に見抜いたはずだった。が、義勇兵たちは本気で「負けた!」「無念だああ!」「に、逃げろおおお!」と潰走している。どこにも「芝居」の気配はない。そもそも、新野で急遽集められてきたばかりの義勇兵たちがそんな高度な作戦行動を取れるはずがないのだ。

 ただ一人、慎重な李典だけが、


「徐庶が、二代目劉備が『諸葛亮孔明』という天才軍師を連れてきた、と言っていました~! なんだか悪い予感がします! 博望は見晴らしのいい地形で伏兵の心配はありませんが、奴らの逃げる先を見てください。新野へ向かう途中に、鬱蒼とした森が……!」


 と夏侯惇に忠告した。しかし、李典もまたこの時、すでに孔明の知略の網に絡め取られている――孔明は隆中に引きこもっていながら、曹操軍の人材たちを事細かに分析していた。虚を実に、実を虚に。孔明の詐術めいた兵法の要は、「人間の性質」を見極めて策に組み込むことにある――。


「うるさい李典! ニセ劉備はどこからも兵など連れてこられない! 新野の若い男たちはみな博望に義勇兵としてはせ参じている! だから、伏兵などいない! 襄陽の劉表と新野とは、国交断絶状態なんだぞ! われらはすでに劉表から『唐辛子を大量栽培している危険地帯の新野は差し上げますのでお好きにしてください。その代わり、襄陽には兵を進めないよう、約束してくだされ』と内諾を取っている! なにが諸葛亮孔明だ。誰だそいつは。聞いたこともない。ニセ劉備一流のハッタリだ!」


「諸葛亮孔明とやらも、二代目劉備が演じている影武者なのかもしれないわ。李典。あなたは慎重すぎるのよ。徐庶にたばかられているのよ。凄い天才軍師を二代目劉備が召喚したとあなたに吹き込んで、夏侯惇に追撃中止を具申させるつもりなのよ」


 そ、そうかもしれませんが、でも……と李典が惑ううちに、夏侯惇と于禁はついに潰走する義勇兵たちに追いついた。が、そこはすでに森の中である。ここに千ほどの伏兵がいれば突出したわれらはひとたまりもないです、と李典は震えた。


「いない、いない! 新野の義勇兵たちはみな、必死の形相で逃げている! ニセ劉備よ、李典に虚報の策を用いてわれらを撤退させようとは、なかなかやるじゃないか。だが、この歴戦の勇者夏侯惇さまはお前の詐術など恐れない! ハッタリだけは元祖劉備並みだと褒めてやろう! フハハハ!」



 夏侯惇、于禁、李典が激走している暗い森の中――この時、茂みの奥に潜んでいたミズキは、その矢の射程範囲内に夏侯惇を捕らえようとしていた。


「ほんとうに夏侯惇が先頭を切って追撃してきた。孔明、どうして総大将の夏侯惇が自ら追撃してくるとわかったんだ?」


「ふふっ。夏侯惇には関羽に匹敵する知力もあり兵法の常識も身につけているけれど、いざ激戦となると血の気が昂ぶって突進する癖があるのよ。その癖のために、呂布との戦いで片目を射られたの。だが、私は弓矢など重くて引けないお嬢さまだから。ミズキ、あなたに任せるわ。兜でも鎧でも、夏侯惇の身体に一矢当てればそれでいいのよ。もっとも、眼帯をしていないほうの片目だけは許してあげなさい。あれでもお年頃の乙女なのだから」


 あなたが夏侯惇に一矢を当てれば、口の軽いお調子者の徐庶から「諸葛亮孔明がやってきた」と吹き込まれているはずの李典が、「やはり伏兵がいました!」と夏侯惇を撤退させるはずよ。そこに、敗走する義勇兵たちを引き連れた関羽、張飛たちが追いつき、両者は鉢合わせする。森に伏兵が潜んでいると思い込み、見えない伏兵の恐怖に捕らわれた曹操軍のほうが「森の伏兵と関羽たちとに挟撃された」と幻想の敗戦を脳裏に思い浮かべて、戦わずして潰走することになる――孔明は、初陣だというのにまるで動揺も興奮もしていなかった。徐州で曹操の命令を聞かなくなった青州兵が大暴走したあの惨劇に比べれば、この戦は児戯にも等しい。敵軍を殲滅せずとも、虚と実を操って敵将に「負けた」と信じさせれば、勝てる。勝利と敗北というものは、大自然のように疑いもなく実としてそこに存在するものではなく、人間の脳が生みだした幻想にすぎない。相対的なものにすぎない。「負けた」と思えば負けであり、「勝った」と思えば勝ちなのである。絶対的な勝利が必要とされる戦は、天下人を決定する「最後の決戦」だけであり、その「最後の決戦」に至る過程で積み上げるべき幾多の勝利は「幻想」でよいのだ。そのほうが、人が死なないで済む。兵の命を無駄に失わずに済む。なによりも、天下人の「徳」が失われない。武力だけでは、天下は定められない。百戦百勝した項羽は、各地での虐殺や蛮行によって民心を失い、常敗将軍・劉邦に最後の一戦で敗れ去った。民なくして国などない。天下人が守らねばならぬもの、勝ち取らねばならぬものは民心なのだ。


 それが、孔明の兵法。

 しかし。

 ひとつだけ、孔明にも誤算があった。


「……しまった……俺はいろいろな武術を親父から教わってきて、さらに新野では関羽のもとで馬術を、趙雲師匠のもとで槍術を教わって鍛えられたが……弓矢の訓練だけは、したことがない!」


「な、なんですって? 冗談でしょう? 弓矢は武人のたしなみよ?」


「俺が幼い頃から教わってきた武術はほとんどが素手で戦うもの――極真空手、ブラジリアン柔術、合気道だ。あとは、日本刀を用いた剣術。俺の親父はブルース・リーの敬虔な信者で、飛び道具は卑劣だと言い張っていて好きじゃなかったんだよ。自然、俺も飛び道具には触れずにここまで来てしまったんだ……!」


 ブルース・リーって誰よ? ああんもう、矢も撃てない劉備玄徳だなんて! 私の想像をはるかに下回るわね、あなたは! と孔明はミズキを罵ろうとした。が、もはや罵倒しても意味がない。夏侯惇の鎧兜に矢を当てられなければ、李典は「幻影の伏兵」を森の中に見いだせない。むろん、ほんものの伏兵などいない。隠れている者は、ミズキと孔明の二人だけだ。森の精霊である彭侯たちはその性質が「植物」。戦闘力がないので、兵士としては役に立たない。


「こうなったら俺が夏侯惇たちの前に躍り出て、槍で……」


「相手は三人よ。しかも全員が歴戦の強者。関羽でさえ、あの三人を同時に相手にするのは困難よ。ミズキ、あなたに武術の心得があったからって、瞬殺される。そもそも、あなたがここで単騎で飛びだしたら、伏兵などいないことがわかってしまう!」


 まったく、仕方のない主ね。手間がかかってたまらないわね……と苦笑しながら、孔明は羽毛扇を持ってそっと立ち上がろうとした。


「限りなく成功する可能性は低いけれそ、私が三寸の舌先を震って騙してみるわね。あるいは、曹操に仕官させられることになるかもしれないけれど……でも、ミズキ。その隙にあなたは逃げ延びられるわ。ふふっ」


「正史」では、徐庶が曹操に降った。ミズキはその運命を変えたはずだった。

 今、その運命の帳尻が「孔明が曹操に降る」という形で合おうとしている、とミズキは直感した。孔明も、そうなるとわかっていて、覚悟しているのだ。

 迷わず、孔明の華奢な身体を力の限り抱き留めていた。


「ちょ。い、痛い。は、離して。離しなさい! こ、こんな時に、な、なにを?」


「ダメだ、行くな孔明! 俺と孔明は生涯をともにすると誓ったじゃないか! 『水魚の交わり』を結ぶと決めたじゃないか! 孔明なくして、俺は劉備玄徳として一日たりとも生きられない。孔明だって……徐州大虐殺の原因を作った曹操のもとでは、いっさい献策せずに死んだように無能を装ってただ生きていくことしかできない。曹操が天下を統一しても、この先に迫る大乱世は回避できないからだ。そのつもりなんだろう?」


「……ふ、ふん。知力が低いくせに、私の心を正確に読むとは。未来人って、厄介ね……まったくあなたは、どこまでも手間のかかるご主君、ね……ば、ばか……」


「行くな。ずっと、俺とともにいろ。孔明。夏侯惇の兜に、矢を当ててみせる! 当たれば、それが天意だ。劉備さんの遺志だ! 俺のもとに留まり、俺という『水』の中で自由に生きろ。その才能を、その忠義を、永遠に天下に知らしめろ……!」


 ミズキは生まれてはじめて、弓を引き絞った。

 夏侯惇が、接近している。この距離では、頑丈な兜は貫けない。だがそれでいい。当てればいいのだ。夏侯惇の兜に矢を命中させれば、伏兵がいると思い込んだ李典が即時撤退を決断する。ああ。光が欲しい。この森の中には、日の光が届かない。馬で駆ける夏侯惇の姿が、よく見えない。目で捉えることは難しい。


(……そうだ。「気」だ。「気」を感じるんだ。趙雲から教わったじゃないか。この世界は、「気」に満ちている。たとえこの目が光を感じ取れなくても、俺たち生物は、目映いばかりの「気」に溢れた「蒼天」のもとに生かされている……恐れるな。分裂したこの世界は、やがて再びひとつにまとまっていく。生涯を生ききって、死んだ、命も。いつの日か。再び、「蒼天」へと還る……)


 蒼天は、死せず。


『今だ。放て、二代目劉備玄徳。孔明を、頼むぜ。五丈原で星とともに散っていく孔明の運命を、お前が、変えてくれ』


 劉備玄徳の声を、耳元に感じながら。

 ミズキは、目を閉じて、そして矢を放っていた。

 夏侯惇の兜に矢が命中し、そして、不意を突かれた夏侯惇は「うわああああっ?」と叫びながら落馬していた。

 于禁が「えええっ? 嘘っ? 伏兵がいたのっ? しょ、諸葛亮孔明……いったいどこから伏兵を調達してきたのっ? 仙術かなにかっ?」と恐慌状態に陥りながら、慌てて夏侯惇の身体を抱き上げ、自分の馬に乗せていた。


「よ、よかった。矢は、頭には刺さっていないわ、兜が守ってくれている! 夏侯惇は、九死に一生を得たわ!」

 伏兵、出現す! 夏侯惇自らが先頭に立って追撃してくることを見定めてはじめから待ち構えていたかのように、夏侯惇を狙い撃ちに! この事態に青ざめた李典が、「徐庶の言葉はハッタリではなかったようです! 夏侯惇将軍が討たれてしまっては、曹操さまが悲しまれます! 惜しいですが、撤退しましょう!」と夏侯惇が気を失っている隙に馬を反転させ、行軍してくる将兵たちに向けて「全軍、宛へと撤退!」と命じていた。


 視界が効かない森の中で、「伏兵だ!」「夏侯惇将軍が撃たれた!」「諸葛亮孔明という天才軍師が、劉備についた!」と曹操軍の将兵たちが大混乱を起こす中。

 博望から義勇兵たちを守りながら撤退してきた関羽、張飛、そして趙雲が、いっせいに森の中へと飛び込んでいた。


「これは……曹操軍が混乱している? もしや、孔明の策が成ったのですか? このまま新野まで押し通ります! 関羽雲長、参る!」


「なんだよ。孔明はいったいどうやったんだ、どうして圧勝していた曹操軍がこんなことになっているんだ。さっぱりわからない! だが! 久々の勝ち戦だ! しかも相手はあの曹操軍! 思いっきり、暴れてやるぞおおお!」


「ミズキくん、やったね。夏侯惇とは決着をつけられなかったけれども、その失点はここで挽回するよ。敵将の一人でも捕らえておくよ」


 潰走する曹操軍を追い回す三人の姫武官たちの背後には、この勝ち馬に乗って荒稼ぎを目論んでいる男が一人。


「ギャハハハハハ! やったじゃねえか、小僧! 全面潰走に、自軍の本陣への放火! 孔明の繰り出す非常識な奇策をよくぞ採用した! おめえ、たいしたもんだ! だがな、勲功一等は孔明が到着するまで博望で戦線を維持し続けた俺さまだーっ! 銭を払えーっ! って、しまった! 新野の蔵から投じた銭は、ぜんぶ兵糧に化けちまっている。あーっ! 本陣の輜重をまるまる焼いちまったんだったーっ! それも、この俺さまの手で……ぎゃああああー!」


 火を消せーっ! 全軍、博望に戻れー! 本陣を消火しろーっ! あの輜重は俺さまのもんだーっ! 俺さまの財産を守れー! と徐庶が叫び続ける中、戦いは新野義勇兵軍――劉備軍の大勝利のうちに終わった。火事場泥棒を目論んだ徐庶の命令は誰も聞かなかったが、輜重が焼けてしまっても問題はなかったのだ。

 なぜなら、関羽、張飛たちから逆に追撃を受けた夏侯惇たちが必死の形相で宛へ撤退する折に、自軍の輜重を捨てていったからである。


 李典が「捨てていきましょう。二代目劉備は自軍の輜重を焼きましたから、われらの輜重を奪い取らねばならないはずです。その隙にわれらは宛へ入れます」と、馬上でようやく目覚めて「ぐぬぬ……射るならば目を狙えば貫けたのに、わざわざ兜の分厚いところを狙い撃ちとは……この夏侯惇さまともあろう者がニセ劉備ごときに舐められたあああ! うきいいいいい!」と馬の背で起用に地団駄を踏んでいる夏侯惇に進言したためだった。


 博望坡の戦いに、二代目劉備玄徳、勝利す!

 曹操の片腕・歴戦の姫将軍・夏侯惇、劉備に大敗!

 荊州に隠棲していた若き天才少女軍師・諸葛亮孔明が、劉備陣営に加わり、襄陽の劉表と劉備との関係を修復! 孔明立つ、と知った荊州の名士たちが、「孔明ほどの英才が仕える人物ならば」「われらも存分に才を振るい活躍できる清らかな『水』であろう」と続々と劉備陣営に!

 曹操陣営は、震撼した。


 官渡の戦いで袁紹を破った今、あとは落日の袁紹と荊州に籠もっている劉表の両勢力を飲み込めば、残るは呉の孫家だけとなる。長江の中流に位置する荊州全土を曹操が支配すれば、長江の下流に割拠する孫家はいずれ降伏する他はなくなる。すでに曹操による天下統一は成ったと思われていた。

 だが、天下の形勢は二代目劉備玄徳と諸葛亮孔明の登場によって、一気に動いたのである。

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