博望坡の戦い-5

「……はあ、はあ、はあ、はあ……! うわ、うわあああっ!」


 ミズキの意識は、孔明の部屋に戻っていた。自分の身体の中に、魂が、還っていた。


「うわああああああああああああああああああああああああ!」


 だが、心は戻らない。引き裂かれたままだった。自分が死ぬよりも、辛い。生まれてはじめてだった。たいせつな家族を、目の前で失った。しかも、味方に裏切られて殺されたのだ。関羽が。張飛が。


 劉備玄徳もまた、徐州で孔明と出会って、この苦しみを味わったのか。だからこそ、自分の命を削ってまで、関羽と張飛の運命を変えようとしたのか。俺には無理だ! 耐えられない! こんなのって、酷すぎる……! どうしてだ。どうして、こんなことになってしまうんだ!? 呉の孫権は、どうして関羽を裏切るんだ!? 孫権が「関羽を討つ」と決断するまでの間に、呉でいったい何が起きるんだ!?


 ひとつだけはっきり理解したことがある。俺が「影武者劉備玄徳」の役目を勤め上げても、それだけでは、足りない。

 このままでは、「運命」は同じ結末に辿り着いてしまう!


「それが、『未来』よ。文章やマンガとやらで見聞きするのとは、違うの。まごうかたなき現実を、あなたは生きた。そして、運命はいずれ、その結末へと帰結する。あなたに耐えられる? すでに関羽と張飛の死を『経験』してしまったあなたは、その日が一刻また一刻と迫りくる中、いったいいつまで耐えられるの?」


 息が出来ない。悲鳴のような咆吼のようななにかが、喉の奥から漏れ続けて、息を吸うことができない。


「わかったでしょう、ミズキ。あなた一人では無理だと言った意味が。曹操はすでに、あなたが影武者だと知っている。そんな曹操を相手に、少しばかり未来なんて知っていても意味などないわ。むしろ逆手に取られるだけよ。その上、孔明までニセモノだなんて、論外。ニセモノの孔明ではなく、ほんとうの軍師がいなければ、運命は決して動かせないわ。そもそもミズキ、あなたには自分がないの? 元の世界に帰ろうとは思わないの? 私ならば、あなたを元の世界に帰してあげられるわよ? そうね。この隆中では無理でも、泰山ならば……今ここで、影武者劉備玄徳の役目を捨てる、と誓いなさい。そうすれば、あなたの生まれ故郷に、元の世界に、帰してあげる。異世界の異国から来たあなたが、この国の人間のために苦しみ続ける意味なんて、なにもない。むしろ有り難迷惑なだけよ。お節介というものだわ――あなたの存在そのものが、私が徐州で劉備玄徳に与えてしまった無用な予言と同じなのよ」


 関羽と張飛の死の瞬間が、次々とフラッシュバックしてくる。割れるように痛む頭を抑えて悶え苦しみながら、ミズキは、「断る! 俺は、劉備さんから二人を託された! 男と男が、約束を交わしたんだ! 劉備さんの立ち会いのもとで、関羽と張飛と俺とで、後桃園結義を結んだんだ! どれほどの苦しみが待っていようとも、絶対に逃げださない!」と叫んでいた。


「な、なんですって? ど、どこまで愚かなのよ! あなたは、劉備玄徳以上の愚か者よ! 劉備も! あなたも! これほど『未来』をはっきりと教えてやあげたというのに、どうして抗おうとするの!? そんなに二人を守りたいのなら、関羽と張飛を天下盗りの戦いから退場させるしかないというのに!」


「それもできない! 劉備三兄妹と孔明が漢王室の復興のために生涯を捧げなければ! 永遠にこの国は分裂し続けることになる! 俺はもう、この世界の人間なんだ! だが……だが……そうだよ。少しばかり未来を知っていたって、武術の心得があったからって、それだけでは人間の運命は変えられない……『現実』は、そんなに甘くはないんだ。ハッタリだけの俺には、なにもできない……はっきりと、思い知った……俺は、無力だ……! このままじゃ……劉備さんに……会わせる顔がない……!」


 深い悲しみが、ミズキを襲っていた。「運命」がどれほどに強力なものなのか、孔明の星眼を通じてはじめて理解した。関羽と張飛の破滅を待ちながら生きていけるのだろうか。どうすれば、回避できるのだろうか。俺の力だけでは無理だ。無理だった。救えなかった。ミズキは、無言で正座した孔明の膝にすがりついて、泣いた。


 無様に、泣き続けた。

 孔明は無言で、そんなミズキの頭をそっと撫でていた。

 もう、罵倒の言葉は、なかった。


(ああ、そうか。孔明もまた、ずっとこの悲しみを背負いながら、この隆中で……劉備さんをこの「未来」から救うために星眼を用いたというのに、かえって彼の命を縮めてしまって、その悲しみに打ちひしがれて……)


 そう気づいたミズキは、ぴたりと泣き止んでいた。

 男が、少女の膝を借りて泣いている場合ではない。

 泣き止むとともに、「決意」を固めていた。

 まるで別人のような表情に……と、孔明は思わずミズキの頭から手を離していた。

 少年が、「男」に成長した瞬間を、「三国志」の世界に夢を見てきた子供が、「英雄」に変貌した瞬間を、見たかのように。

 孔明の心の臓の鼓動が、激しく高鳴っていた。

 ミズキは身体を起こして孔明の正面に正座すると、閃いた「決意」を孔明に告げていた。


「孔明。泰山で儀式ができるというのなら――関羽や張飛の運命を変える能力を持つ者を、『三代目』の劉備玄徳となる英雄を召喚してくれないか」


「……あなたを元の世界へ戻すのは容易いわ。でも、異界から新たに一人の人間を召喚するためには、この世界から一人が消える必要がある。等価交換が必要になるのよ。それも『劉備』になる者を呼ぶなら、今この世界に存在する『劉備』が消えねばならないわ」


「わかっている。俺の命を使ってくれ! 劉備さんがやったように、俺の命を等価交換してくれ。こんどこそ、ほんとうに関羽と張飛の運命を変えられる真の英雄を、召喚してくれ。劉備さんは仙術の達人じゃない。泰山で、見よう見まねで祈ったんだ。だから、顔が似ていて名前が劉繋がりというだけで俺を間違って呼んでしまった。だが、孔明ならば、ほんとうの英雄を召喚できるはずだ」


「……つまり……自分は『外れの英雄』だったと認めて、次の英雄を呼ぶために死ぬというの? ミズキ、あなたは……そんな死に方、納得できるの? それではあなたはこの世界にいったいなんのために召喚されて、なんのために死んでいくの?」


「いいんだ。後悔はない。捨て鉢になって言っているんじゃない。理屈で考えれば、それがいちばん正しい選択だ。ただし。ひとつだけ、頼みがある。俺と引き替えにほんものの――三代目の劉備玄徳を召喚したら、孔明、きみは彼に仕えてくれ。もう、劉備さんの喪に服するのはやめて、出盧してくれ。たとえ何人、『劉備玄徳』を召喚し続けても、諸葛亮孔明がいなければこの国の運命は変えられない。きみが、必要なんだ。関羽にも張飛にも劉備玄徳にも、そしてこの国の民たちにも。なによりも、きみ自身にとって。きみは、この隆中から出盧して戦うべき人だ。喪に服して生涯を終えるべきじゃない。このままじゃ、取り返しのつかない後悔だけが、残る。劉備さんに未来を教えたきみの行為が、無意味だっかのか、それとも有意義だったのか。それを決められるのはきみ自身のこれからの生き方なんだ。だから――頼む」


 ミズキは、孔明の煌めく星眼を見つめながら、微笑んでいた。


「俺は『三国志』の世界を生きられて、関羽や張飛や趙雲、曹操、そして孔明と出会うことができた。短い間だったけれど、劉備玄徳として生きることすらできた。その上、三代目――真に劉備さんの志を継げる英雄を召喚して死ねるんだ。思い残すことはない。そうだな。心残りといえば……関羽と張飛のおっぱいを生で見たかった、くらいかな」


 嗚呼。我、ついに女の子のおっぱいを生で見ることができなかった。それだけはほんとうに残念だが、俺個人にとっては重大すぎる禍根でもこの世界にとっては小さなことだ、成仏できずに妖怪『おっぱい見せろ』になるかもしれないが、とミズキはおどけて笑ってみせた。なるべく、孔明に「こいつはほんものの馬鹿だから、召喚材料になって当然だったのよ」と呆れてもらうために。


 なぜなら。

 孔明が、その星眼から止めどなく涙を溢れさせていたからだった。

 冷血の毒舌家を装っていた孔明が感情を爆発させて、身体を震わせ、泣きながら叫ぶ姿を、ミズキははじめて見た。たぶんこの世界の誰も、見たことのない、素顔の孔明を。


「……嫌よ! お断りだわ。勝手にこの世界に来て、勝手に私の屋敷に押しかけてきて、勝手なことばかり言わないで、この底なしの愚か者! なにもかも、お断りだわ。あなたの願いなんて、全部、お断りよ!」


「こ、孔明?」


「あなたを等価交換して誰を呼ぶつもりも、私にはない! そんな……そんなことをしたら……私は……私は、生涯、ミズキ。劉備玄徳に続いてあなたまでを死なせたことを悔い続けなければならなくなる! きっと私は、何度でも新たな劉備玄徳を召喚し続けて、無数の劉備玄徳をこの世界に招き続けることになる! だって……誰を召喚したって、ミズキ、あなたの代わりには決してなれないもの! あなたは私に、そんな最低最悪の呪いをかけるつもりなの!?」


 孔明は――。


「ミズキ。あなたは、酷い男だわ! もう……もう、三顧の礼を尽くされた私は……あなたに生涯仕えるしかなくなった……! 泰山で等価交換の素材として死ぬというあなたの運命を、私は変える! あなたは、ここで死ぬべき人間ではない。この世界で二代目劉備玄徳として生き、関羽と張飛とともに乱世を平定する者よ! この私が全身全霊を込めてあなたに仕え、あなたの運命を変えてみせる! 私は天下の奇才・諸葛亮孔明。あなたの運命を変えるために、運命に抗うために、生涯あなたに犬馬の労を尽くし――きっと、『私たち』の運命に、勝ってみせる……!」


 ――この瞬間に、ミズキの軍師となった。

 ミズキには、信じられなかった。

 いったい、なぜ?


「……こ、孔明? ど、どうして……? 俺なんかを担いだら、劉備さんを担ぐよりも百倍、千倍は苦労する羽目になるのに。新野でわかっただろう。俺は自分が影武者だって民の前でバラしてしまうような究極の馬鹿なんだ。それなのに」


「ふふ。馬鹿だから、いいのよ。あなたのような超絶の愚か者が主君だからこそ、軍師たる私が輝くのよ。ミズキ。行きましょう、博望へ。徐庶と関羽たちが、危地に陥っている。虚と実を自在に操って『負け戦』を勝ちに転じさせる、それが私の軍法の根幹。最弱のあなたとは、相性が抜群だわ」


「あ、ああ……俺は……夢でも見ているんだろうか。あの諸葛亮孔明が、俺に……この俺に、軍師として仕えてくれるだなんて……」


「あなた一人の白昼夢ではないわ。この世界は、私たちみんなで見ている蒼天の夢なのよ――ただしミズキ、仮にもこの不世出の天才・諸葛亮孔明と『水魚の交わり』の関係となって、私を生涯牛馬のように酷使しようというのだから、等価交換はしてもらうわよ?」


「わかった。なんだって、構わない。孔明が求めるものを差しだそう」


「博望を切り抜けたら、要求するわね。今は、目の前の危地を乗り切らなければね。均。私はこれから、劉備玄徳さまのもとに軍師として仕官することにしたわ。戦局が落ち着いたらいずれ迎えに来るから、それまで屋敷を清浄に保っていなさい。黄月永に油を差すのを忘れないでね」


 箒を持って部屋に突入してきた諸葛均が「お姉ちゃんっ!? その変態さんに押し倒されて無理矢理仕官させられたのっ?」と彭侯たちと一緒に大騒ぎしはじめたが、孔明は「ううん、逆よ。私が彼を押し倒すことになるのかしら。ふふっ」と頬を染めて微笑みながら、ゆっくりと立ち上がっていた――。


(え? どういう意味?)


 ただただ感激のあまり呆然としていたミズキは、孔明らしからぬその愛らしい笑顔を一瞥するなりただならぬ予感に襲われたが、今は大至急関羽たちを救わねばならない。


「行こう、孔明! 劉表からの援軍はもう望めない。どうやって切り抜ける。どうやって関羽たちを救出する?」


「徐庶が博望まで進軍してくれたことが幸いだったわね。徐庶がいなければ、今頃新野は曹操軍に包囲されて詰みだっただろうから。あれは守銭奴でおかんに心を支配されているダメ男だけど、やはり戦場を駆ける野戦軍師としての才覚は抜群だわ。覚えておきなさい。私がどれほど有能であろうとも、軍師は一人では足りないのよ、ミズキ」


「わかった。いずれ、龐統が見つかったら孔明、きみが推挙してくれ。博望坡からはじめよう。俺たちの運命を変える戦いを」


「ふふ。夏侯惇などは私の敵ではないわ。あなたは黙って私の軍師ぶりを眺めているだけでいいのよ。ただし、力仕事はあなたにやってもらうわね。私のような護身の術を体得している女の子を軽く押し倒せるということは、あなたはそれなりに『気』を操れるのね。『気』を練り操る殿方は、この世界では貴重よ――これからはその才能、婦女暴行に使わないで戦に使いなさい。あなたの匠の技につぼみを散らされて泣き寝入りする少女は私一人でたくさんだわ。それが天下万民のためよ」


「だから、押し倒したんじゃないんだって! 勝手に暴行魔にするなっ!」


 今、ついに。

 天下の奇才・諸葛亮孔明は、出盧した。

「運命」との戦いが、はじまったのだ。



 博望の戦線では、夏侯惇率いる曹操軍が圧倒していた。関羽たち勇将の奮闘によって完全な戦線崩壊だけは免れていたが、それもすでに時間の問題となっていた。博望に本陣を敷いた徐庶が、隙あらば背後へ回り込もうと動きまわる李典部隊を相手に東奔西走させられていたため、義勇兵全体を統括できる者がいない。いや、徐庶が本陣にどっしりと構えていたとしても、戦争の素人である義勇兵たちの各部隊が戦場に分散してばらばらに戦うというこの状況を変えることはできなかっただろう。軍師は魔法使いではないのだ。


 最前線では趙雲が夏侯惇を、張飛が于禁を追い回しているが、夏侯惇も于禁も容易には一騎打ちに応じてこない。二人を追いかける趙雲と張飛はじわじわと本陣から引き離され、本陣の周辺が手薄となっていた。

 夏侯惇は興奮してくると「前進あるのみだ! フハハ!」と唱えたがる猪突猛進型の将軍だが、于禁と李典の二人が夏侯惇をよく補佐しているらしい。異なる能力と性格を持つ三人の姫武官を組み合わせることで、何倍もの力を発揮している。これが曹操の人事の妙であり、曹操軍の強みである。


「いけない。本陣を吸収されたら、わが軍は四分五裂してしまう。夏侯惇と戦えないのは残念ですが、私が守るしかありません!」


 数でも練度でも曹操軍に劣る義勇兵たちは、次第に疲弊し、追い詰められていた。彼らの戦闘力不足を補っていた「闘気」は限界に近づいている。全軍崩壊の危機が訪れたことを悟った関羽は赤兎を駆って、わずかな手兵を引き連れて本陣へと急行した。


「まずいぜ! 本陣を落とされたら、義勇兵たちはバラバラになっちまう! ええい、孔明はまだか! もったいつけてねえで、さっさと来やがれ!」


 徐庶もまた手薄となった本陣へと帰還しようと白耳隊とともに駆けるが、すかさず李典の部隊がこれを阻む。これを見た夏侯惇と于禁の部隊が反転して、少数で本陣を守っている関羽のもとへと全速力で駆けはじめていた。両将軍は、速度に勝る軽騎馬兵を率いている。張飛と趙雲が「やばい! 関羽の姉者が」「孤立した……!」と慌てて追いかけるが、すでに二人は敵将を追い求めて敵陣中に深入りしすぎていた。


「徐庶どの、お見事な采配ぶりでした。ですが、どうやら戦いはわれらの勝ちです! こんどこそ曹操さまのもとに来ていただきますからねっ!」


「うるせえ、李李! おかんを誘拐しようとするような奴らにだ~れが仕えるかっ! まもなく、俺さまを遙かに凌駕する真の天才軍師が救援に現れるぜ! てめえらは二代目劉備玄徳と天下の奇才・諸葛亮孔明の前に大敗するんだ! 見てろよ見てろよおおおお!」


「諸葛亮……孔明? なんだか悪い予感がしますが、来てから考えます! どうやら来そうにないですね! たとえ来たとしても、増援兵はないでしょう? 頭数が一人や二人増えたくらいで、今さらこの戦局をひっくり返すなんて不可能ですよ~!」


 徐庶は、関羽を救援しようと李典部隊の突破を試みるが、兵士の数が違いすぎた。なにしろこの博望には伏兵を隠すに適した地形――森や山がない。

 次々と白耳隊の騎兵が討ち取られ、曹操の正規軍を相手に奮戦していた義勇兵たちも体力の限界を超えてばたばたと倒れていく中――。


「よく持ちこたえてくれた、みんな! 孔明が出盧してくれたぞ! 反撃開始だ!」

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