博望坡の戦い-4

 麦城を脱出して落ち延びようとしている関羽の姿を、ミズキは見た。これは、「正史」の未来だ。劉備玄徳がついに蜀と漢中を手に入れて「漢中王」に即位し、曹操との決戦を開始している時期だ。荊州を守っていた関羽雲長は、ついに曹操方が守っていた襄陽へと進撃し、曹操が許から遷都した新たな都・鄴を脅かした。しかし――「天下三分の計」は脆くも崩れていた。劉備と同盟していた呉の孫権が、突如として関羽を裏切り、空き家となっていた荊州を奪い取ったのだ。故郷の荊州を失陥した関羽軍の兵士たちは動揺し、軍は崩壊し、関羽は鄴を目の前にして敗走していた。


 しかも、蜀からの援軍は来ない。

 援軍を送るべき上庸の孟達が、関羽を見殺しにしたのである。孟達はすでに、曹魏側に内通していたのだ。

 敗残の関羽は、「兄上。張飛。申し訳、ありません……荊州を、失ってしまいました。私が愚かだったばかりに」と麦城で最期の時を迎えていた。麦城を囲んだ孫権軍は、何重もの包囲網を敷いている。絶望的な兵力差だった。すでに兵糧もない。義将・関羽は、「孫権の裏切りは絶対に許しがたし。たとえここで命尽きるとも、私はこの裏切りに対して否と唱え続ける!」と討って出ることを決めたのだった。


「……か、関羽……! ダメだ。麦城から出るな! 孫権軍を突破しようとするな! もう、無理なんだ! あと少しだけ、耐えてくれ! 籠城してくれ!」


 ミズキは、関羽に付き従っている武官の一人の身体に入り込んでいた。関羽とともに敗走を重ねてきた武官の視点から、ぼろぼろに傷つき痩せ衰えた関羽の姿を間近に見ていた。夢ではない。これは「現実」だ。あの関羽の美しかった黒髪は、もう、餓えと乾きによって痛んでしまっていた。感情を激しても、頬を赤らめることもない。その顔色は、死人のように青白かった。武神・関羽も、餓えには勝てなかった。栄養失調で、まともに歩ける状態ではないのだ。なによりも、「天下三分の計」の要である荊州を失ったことが、関羽の超絶の気力を萎えさせていた。劉備の信頼を裏切った。漢王室の復興まであと半歩というところで、孫権を信じて荊州の守備兵を前線に呼び寄せるという愚かさを見せて、裏切られて敗れた。すべては、私が愚かだったためだ。激しすぎる悲しみが、関羽から「気」を奪い去ったのだ。もう、あの「万人の敵」と曹操たちに恐れられた武は、関羽のもとを去っている。男に体力では敵わない姫武官の「武」の大部分は、「気」に負っているのだ。


「待ってくれ、関羽! 行くな! 劉備玄徳は必ず来る! だから、最後の最後まで生きてくれ! ここで死んで『神』になんてならなくていい! 義を貫き通して討ち死にしなくていい! だから……」


 ミズキがどれだけ叫んでも、その声は関羽には届かない。ミズキ自身はこの「世界」に存在しているのに、関羽の目にはミズキは映らないのだ。忠実な一人の武官、としてしか認識できないのだ。

 関羽は絶望的な包囲網の中へと突進し、呉の将たちを斬り続けた。死を決した「武神」が放つ、最後の命のきらめきだった。

 関羽討伐軍を率いて荊州を奪い取り、麦城を包囲していた総大将の呂蒙も。呂蒙とともに兵を率いていた孫家一族の重鎮・孫皎も。ことごとくを斬った。孫皎は後詰めに回っていたのだから、関羽はあと少しで孫権軍の包囲網を突破できたということになる。


 だが、ついに体力が尽きた。

 関羽は、捕縛された。

 ミズキもまた、関羽とともに捕らえられ、ともに刑場へと引き出されていた――関羽ほどの英雄が、縄で縛られるという恥辱を与えられていた。全身に傷を負い、とりわけ肺をやられて息をするのも辛い。それでもなお、関羽は毅然としていた。


 呉の主・孫権が、関羽とミズキの前に現れていた――「碧眼児」と呼ばれた姫将軍・孫権の瞳は、エメラルドのように青かった。呉は中原から離れた「蛮地」である。孫家には、漢人とは異なる異民族の血が入っている。孫権は、「ここで関羽を止めなければ、劉備が天下を統一していた。呉の独立を守るためには……こうするしか」と悲しげに、関羽に言葉をかけていた。


「関羽雲長。『桃園結義』の話は、この国の誰もが知っている。ここで、そなたを死なせたくはない。そなたはかつて、ひとたび曹操に降った。呉に降らぬか。いずれ劉備のもとに戻ることもあるだろう」


「……断る。曹操には曹操なりの義があった。徐州で、堂々と劉備軍を破った。だから降った。しかし孫権。お前には、義がない。お前は私と正面から戦わず、同盟を一方的に破ってわが軍を卑劣にも騙し討ちにした! 漢王室は、あとわずかで、復興できたのだ。この国の分裂は、あと少しで終わったはずなのだ。今こうして三国鼎立状態が『常態』となった以上、分裂は数百年に及ぶだろう。その間、民は苦しみ続ける。このような裏切りを、この国の人々は永久に忘れることはない! 私は、お前には絶対に仕えない! たとえ兄上との誓いを果たせぬことになろうとも。義を、貫き通す!」


「承知した。だが、関羽ほどの英傑に、于禁のような捕囚の辱めを受けさせることはできない。永遠にこの国の民の心に生きるがいい、関羽雲長。義人としての生涯を、完成させるがいい。そなたは、民の心を救い続ける神となるだろう。呉の独立保持のために手を汚した私がこの国の民のためにできることを、為そう。関羽雲長、そなたを――斬首、に処す」


 やめろ。孫権。やめろ! 殺すな! 関羽を殺さないでくれ!

 ミズキは、悲鳴を上げ続けた。

 関羽の首が、地に転がっていた。



「許せねえええええ! 孫権! 絶対に、殺す。殺してやる。孔明がなにを言おうが知ったことか! 荊州を取り戻す! 孫権も呉の連中も、生かしちゃおかねええええ!」


 ミズキの意識は、張飛のもとに仕えている名もなき一兵卒の身体の中へと移っていた。

 あのポニーテールが愛らしい張飛の面影は、もう、どこにもない。

 曹操をあと一歩まで追い詰め、「天下統一」を果たす寸前だった関羽が突然孫権に裏切られて、斬首された。


 この凶報を聞いて以来、張飛は正気を完全に失い、重度のアルコール中毒となっていた。

 酔っていなければ、半日も保たない。とても、生きていられない。桃園結義は、果たされなかったのだ。漢中で劉備に敗れた曹操は、荊州から怒濤の進撃を開始した関羽の武威に怯えて北方への遷都を準備していた。関羽は、孫権に裏切られなければ、中原を回復していたはずなのだ。


「……くそっ……くそっ……なんでだよ。なんで、こんなことになっちまったんだよ。孫権……そんなに荊州が欲しければ、関羽が中原を奪回した後で、のしつけて返してやったのによ……結局あの女は……劉備兄貴を天下人にしたくなかったんだ……兄貴が天下を盗ったら、呉を奪われると疑いやがったんだ……だから、裏切ったんだ……だったら、堂々と関羽と戦えばよかったんだ。なぜ、汚い騙し討ちなんかしやがった……! これじゃ姉貴が浮かばれない……酷すぎる……絶対に、殺してやる……!」


 関羽を失った劉備もまた正気ではなくなっている。魏が漢の帝から禅譲を受け、帝位を簒奪した。劉備はただちに孔明の勧めに従って漢の皇帝として即位し、蜀の地に「漢」を復興したが、逆賊・魏を討伐するつもりなど、もう劉備にはなかった。漢の復興など、もう、どうでもいい。義妹・関羽を殺した孫権に、報復する。関羽の仇を討つ。そのためだけに、劉備は血涙を流しながら生きていた。「ただちに蜀漢の全軍を率いて朕自らが孫権を攻め滅ぼす。関羽の仇を討つまでは絶対に成都には戻らない」と布告し、反対する者は次々と投獄した。無謀な呉への復讐戦に反対して投獄されなかった者は趙雲だけである。孔明ですら、劉備の説得をあきらめていた。劉備は、情の人であり、義の人である。関羽の仇を討たない劉備など、劉備ではない。漢の皇帝という身分など、彼にはどうでもよかったのだ。幽州の草鞋売りから身を起こして、負け戦を重ねながら乱世を生き抜き、ついには一天万乗の天子となった。曹操が興した魏の皇帝など、誰も認めていない。劉備こそが漢の正統なる皇帝であり、中原を奪回してくれる救世主だと民は祈っていた。が、「救世主」も「皇帝」も、劉備はかなぐり捨てた。義の人として、関羽の仇討ちという私情に走った。


 成都で劉備が出撃準備を進める間、前線基地で将兵の調練にのめり込んでいた張飛は、ミズキたち一兵卒を片っ端から鞭で打って狂乱しそうになっている自分の激情をかろうじて発散させていた。


「やめろ、張飛! お前の悲しい気持ちはわかる。俺は、関羽が斬首される瞬間をこの目で見てしまった。耐えがたい悲しみだった。だが、それ以上将兵を鞭で打つな! 恨みを買い続けているのがわからないのか! まもなくお前は、呉の息がかかった部下に暗殺されてしまうんだ!」


 鞭で打たれながら、激痛に耐えながら、ミズキは訴え続けた。むろん、その声は張飛には聞こえない。

 張飛に鞭打たれ続ける将兵たちは、たまらない。「呉と戦う前に張飛に殺されてしまう」と怨嗟の声に充ち満ちていた。もちろん呉の間者が、紛れ込んでいる。

 鞭打ち刑を受けてぼろぼろに傷ついたミズキが、「今夜あたりが危ない」と張飛の寝室へと向かうと――。


 すでに、暗殺者が張飛の枕元に立っていた。

 張飛は泥酔していて、まともに動けないでいる。しかし、目は開いていた。意識があるのだ。刺客が侵入すると同時に、野戦将軍としての「本能」が張飛を目覚めさせたのだ。しかし、動けない。

 そんな。張飛は、寝ている間に暗殺されたはずだったのに……それだけがせめてもの……まさか、目覚めていただなんて!


「逃げろ張飛! やっ、やめろおおおおおおお!」


 ミズキが暗殺者へ体当たりしようとした、が、暗殺者はもう一人いた。警備兵が突入してきた時に、これを押し止める役目を担っている男が。ミズキは、当て身を受けて転ばされていた。この兵卒の身体は、ミズキに「武術」を使わせなかった。武術の基礎を覚えていない新米兵卒だったらしい。

 張飛は大きな瞳を見開きながら、立ち上がろうとした。壁に立てかけてある蛇矛に手を伸ばそうとした。が、身体が言うことをきかない。


「……て、てめえら……うぐっ!?」


 心臓を、一突きにされていた。

 寝室で眠っていた張飛は、鎧など着ていない。薄着一枚を羽織っているだけだった。

 致命傷だった。


「……こんな……こんな、死に方……あたしって……どうして、こんなに馬鹿なんだ……ごめん、姉貴……桃園結義、守れなかった……劉備、兄貴……ダメだ。天の時は、あたしたちから去った……蒼天は、もう、死んだ……出兵は……ダメだ……兄貴まで……死んじまう……」


 大粒の涙を流しながら、張飛は息絶えていた。劉備に「出兵はやめろ」と書き残そうと、机へ向かおうと這いながら、その途中で力尽きていた。

 その死に顔は、絶望、そのものだった。関羽の仇を取れなかった、それどころか関羽のために戦うことすら許されなかったという絶望と後悔、そして劉備を残して逝ってしまうという罪悪感。

 暗殺者たちが「この首を落として」「孫権のもとに手土産に」と笑い合って、そして、絶望の表情を浮かべたまま息絶えている張飛の首を容赦なく斬りはじめていた――。


「……張飛。張飛。張飛いいいいいっ!? うわああああああああああ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る