博望坡の戦い-2

 影武者だと自分でバラしてしまうだなんて、と関羽も張飛も唖然とするばかりだった。

 だが、奇跡が起きた。ミズキは堂々と「俺は影武者だ」と名乗りを上げ、新野の民たちの心を動かしてしまった。


「あの小僧、劉備に見込まれただけのことはあるじゃねえかよ。荊州の民の心は大きく動いた。あいつは、関羽とともに民の心を掴んだ! まるでほんものの劉備玄徳のように! あとは諸葛亮孔明を出盧させれば、荊州の名士たちもいっせいに小僧を支持する! 関羽ちゃん、張飛ちゃん、趙雲ちゃん! 一気に膨れあがった義勇兵の野郎どもとともに、博望へ急ぐぜ!」


 その関羽ちゃんというのはやめてください徐庶どの、と関羽に睨まれた徐庶は、「まったく、守りが堅いお嬢さんたちだ」と頭をかきむしった。


「じゃあ、『関関』『張張』で」


「お断りします。パンダじゃないんですから」


「いやいや。関羽飯店に独身紳士どもを吸い寄せる、立派な人寄せパンダじゃねーか」


「徐庶てめえ。ぶっ殺されたいのかこら~!」


「お、落ち着きなさい張飛。貴重な軍師を焼いてはなりませんよ。豚と一緒に竃に釣り下げて桜の木を用いて香ばしく焼き上げてはなりませんよ?」


「桜を用いて香ばしく……か。なるほど。さすが関羽の姉貴だな」


「こらこら関関! 張張をけしかけるな!」


 影武者から二代目へ。ミズキくんも成長したものだねえ。さあ。蒼天を見つけるために博望へ行こう、と趙雲が笑った。


「でも、義勇兵の数は増えたけれども、練兵している暇もない出撃だからね。曹操軍の精鋭とまともに激突したら、ひとたまりもないね……」


「それどころか行軍すらちゃんとできるかどうか怪しいぜ。やっぱり、最低あと一人は軍師が必要だ。ミズキの小僧にすべてを託すしかねえな! もしも博望を乗り切ったら、新野に武術道場を開くことにしよう。そこに義勇兵の野郎どもを集めて練兵だ。厳しい鍛錬が終わったあとには関羽飯店で美女武官たちの舞を見物できるとなれば、みんな必死こいて鍛錬に励むに違いねえ」


 ただでさえ女衒の素養があるミズキをこれ以上女たらしに育成するのはやめてください、私の許婚ですよ? と怒った関羽が徐庶の腕を捻りあげていた。


「いってえええええ! オイオイオイオイ! 俺さまの浮ついた軽口ごときで切れているようじゃ、毒舌家の孔明とはつきあえねえぜ! 忍耐だ、忍耐を学べ関関!」


「関関と呼ばないでくださいと言っているのです!」


 ろくに武装すらしていない急造義勇兵たちが、「関羽さま!」「俺たちはあなたのためなら死ねる!」と押し寄せて来て、ついに出陣となった。夏侯惇が南下してくる前に博望に布陣し、進軍を阻止する。任侠の徒・徐庶らしい無謀な積極策だった。劉備が生きていたとしても、きっと同じ策を採っただろう。


「関羽の姉貴? 徐州時代に袁術と戦うために出撃した時に似てないか? あの時も、劉備軍は義勇兵が主体で、こんな感じだったような……で、対陣中に麋竺からもらった食糧が尽きて餓えたんだっけ」


「いえ、張飛。今回は飢餓の恐れはありません。ミズキが無駄に銭を溜めてくれていましたし、今の新野は流通が盛んになっています。蔵を開き、商人が持っている豊富な食糧をすべて買い取ればしばらくは保ちます」


「なるほど。あいつは兄貴とは大違いの守銭奴だと思っていたけれど、もしかしたら軍資金稼ぎの天才ってことか。あたしたちを芸姫扱いするのは腹立たしいけど、麋竺の財産を流浪の最中に使い切ってしまった一文無しの状態から一気に軍資金を貯めるには、他に方法はなかったものなあ」


「そういうことです。ミズキは軍人というよりは商人ですが、実はミズキの商才こそがわれわれに欠けていた能力なのかもしれません」


 関羽は、信じていた。


「ミズキは必ず、孔明を出盧させることができます。新野の民の前で叫び続けるミズキは、まるでほんものの兄上の霊が憑いたかのように……兄上に、そっくりでした。顔形や声だけでなく、その魂が……」


 博望で粘れば、義勇兵を壊乱させずに踏みとどまれば、きっとミズキが孔明とともに救援に来てくれるということを。


「いずれにせよ、関関。張張。ここからは、苦闘になるぜ。軍師の俺さまが策を立てても、兵がその通りに動けないんだからよう。調練もろくにしていない義勇兵たちは『気合い』だけで保っている。しかしな、『気合い』ってのは時間とともに消耗しちまうものなんだ。猛将・夏侯惇の武威に飲まれてひとたび崩れれば、たちまち烏合の衆になっちまう。一騎当千のあんたたちに踏ん張ってもらう他はねえ」


「承知しています徐庶どの。残念ながらこの練度では、軍団の進退自在、とはいきません。個人の武に頼って保たせる他はありませんね。ですが、今までもそうでした。劉備軍の伝統のようなものですから、お任せください」


「それに今回はあたしと関羽だけじゃない。無双の槍を誇る趙雲もいる。戦力五割増しだ!」


「しかしよう。おかんを救ってもらった恩を返すには、あまりにもでかすぎる仕事だぜ、こいつは! ミズキの野郎、間に合わなかったらただじゃおかねえ! 博望での軍師料、三割引きどころか三割増しで請求してやるからなーっ!」


 でも関関ちゃんか張張ちゃんが俺さまの嫁になってくれるっていうのなら、タダ働きでも構わないぜ俺さまは! と軽口を叩く徐庶の両腕を、関羽と張飛が容赦なくねじ曲げていた。


「死地へ赴くのですから、もう少し真面目に話していただけませんか軍師どの?」


「俺さまはこれでも真面目に語っているんだぜえ! ったく。おかんが曹操に誘拐されていたほうが楽だったよな、俺さまの人生……小僧のおかげで七難八苦だ……ぶつぶつ……」



 宛から出撃した夏侯惇は、曹操の実の従姉妹で、文字通り曹操の片腕とも言うべき歴戦の姫将軍。劉備にとっての関羽に相当する、軍団の「ナンバーツー」である。

 夏侯惇はかつて呂布軍と戦っていた折りに片目を射貫かれ、以来、片目を眼帯で覆うようになった。同じ夏侯一族の姫将軍・夏侯淵と区別するために兵卒たちから「盲夏侯」と呼ばれることもあるが、当然、怒る。再三注意したのに執拗に「盲夏侯」と連呼した兵卒をぶった斬ったこともある。夏侯一族の姫将軍たちははみな、美形揃いだが、短気なのだった。曹操が日頃は冷静なのにいちど怒ったら手が付けられなくなる激情家になるのは、夏侯家の血のせいかもしれない。


「袁紹との決着があと少しでつくというところで、なぜ兵を割いて劉備などを討つ! 孟徳はなにを考えている! 劉備がニセモノだというのなら、捨て置けば勝手に自壊するに違いないのに! 劉表のもとで飼い殺しにさせておけば、それで十分だ! 今こそ全力で袁紹を滅ぼせば広大な河北を平定できるというのに、兵力の分散を嫌う孟徳らしくないぞ!」


「夏侯惇は相変わらずの猪武者ね。『劉備』は影武者にもかかわらず新野の民心を掴んで離さず、町の経済を短期間で活性化させているのよ。放置していれば、厄介な敵になるわ。『劉備』が台頭する前に叩き潰し、決して根拠地を与えない。これが曹操さまの基本方針。たとえ中身が影武者でも、『劉備』という名は侮れないのよ」


 こちらも歴戦の姫武官、副将の于禁が、熱くなっている夏侯惇に淡々と曹操の考えを説いたが、于禁は一言居士タイプでかわいげがない。直情的な夏侯惇との相性は最悪だった。


「なんだと! 官渡でちょっとばかり功績をあげたからって、出過ぎるな于禁!」


「あなたこそ、長らく留守番役が続いたからって、功を焦らないでほしいわね。この于禁さまの華麗なる戦歴に黒星は許されないのよ」


「私の黒星は許されるのかっ! 漢水に沈めるぞ!」


「……私、水は苦手なの。やめてちょうだい」


 だが、曹操は自らが万能の才女でありながら、人事の天才でもある。いくら人材を集めても使いこなせない袁紹との差はここにある。


「あわわ~。程昱どのが引き抜きそこねたあの徐庶が新野の義勇兵を率いて、博望まで突進してきました。先頭は言うまでもなく関羽と張飛です! 連中はやたら士気が高いです。野戦は危険です、いったん宛まで逃げて鋭気を逸らしましょう!」


 智将の李典を沿えて、熱すぎる夏侯惇とかわいげのない于禁の調整役を任せていたのだった。


「フハハハハ! 博望までやられに出てくるとは。徐庶も関羽、張飛、劉備と同類の義侠の徒にすぎないな! 程昱は大魚を逸したと悔いていたが、わが軍は一週間かかるところを四日で出撃した! まだ新野の義勇兵たちは調練を重ねていない! いくら劉備が軍師を得ても、それだけでは足りない。兵を調練してこその軍師だ! 孟徳も、軍師がいない頃は悲惨な負け戦ばかりだったからな!」


「その上徐州では、雇い入れたばかりの青州兵が暴走して大虐殺をやらかす惨事に。あの戦のせいで曹操さまは虐殺をやる将軍という印象がついて『第二の項羽』の汚名を被って民衆人気がなくなり、徐州に義軍を率いてやってきた劉備が民の心を掴んだ――やはり劉備こそが曹操さまにとっての最大の敵、天下統一に立ちはだかる最後の壁よ、夏侯惇」


「じょ、徐州の話を蒸し返すなっ! 孟徳が気に病んで詩を詠みはじめる! あれをやられるとなぜか負けるんだよな、わが軍は」


「お二方、どうします?」


「どうもこうもあるか、李典。宛への撤退などできるか! 兵力でも練度でもわが軍のほうが圧倒的に上だ! 博望で決戦する! 関羽には私が、張飛には于禁があたる。残りは劉備の『徳』とやらに惑わされて着いてきた烏合の衆だ。そいつらを崩す役割は李典、お前に任せる!」


 劉備一家は汝南から新野に流れ着いた頃からなにかが違ってきています、そううまくいくかどうか、と呟きながら李典がうなずいた。


「劉備軍が見えてきました! やはり先頭には、関羽と張飛の二人が……あ、いえ、もう一人います!」


「あら。あれはたしか、公孫瓚のもとにいたはずの趙雲とかいう女だわ。劉備一家に棲み着いたのね……李典も一騎打ちに参加して頂戴」


「え、えええ?」



 劉備一家の「武」を支える姫武将。関羽、張飛、そして趙雲の三人もまた、前方に夏侯惇たちの姿を発見していた。


「行きますよ張飛、趙雲。義勇兵たちは戦の素人です。われら武官が、いえ、将軍たちが先頭で戦い、武威を示して勇気を奮い起こさせねばなりません」


「わかっている、姉貴! 戦力比は圧倒的に不利。徐庶がなにか策を用いたくとも、この練度じゃ伏兵のような複雑な戦術はとても無理。劉備一家名物の一騎打ちで形勢逆転だ!」


「私は夏侯惇の相手をしようかな。関羽はしばらく曹操のもとで夏侯惇の世話になっていたから、なにかとやりづらいでしょう?」


 ミズキの小僧が孔明を出盧させることを信じて保たせてくれよ、孔明ならば素人集団をうまく利用してなんらかの計略を実行してくれるはずだ、と徐庶は祈るように三人の華麗な姫武官を送り出していた。


「フハハハハ! 久しぶりだな関羽! よくも孟徳を裏切ってニセ劉備などのもとに! 劉備一家が誇る関羽雲長と曹操軍団が誇る夏侯惇、どちらの『武』が上か、今日こそは決着をつける時だ! 夏侯惇ここにあり!」


「残念でした。『盲夏侯』さんの相手は、この常山の趙雲子龍にお任せ♪」


「だだだ黙れっ! 邪魔するなっ! 『盲夏侯』言うな!」


「そうだね。片目は生きているんだから、『盲夏侯』は酷いよね~。ほんものの盲目の槍使いは初見殺しだよ。劉備一家入りした手土産に、その首をいただこうかな」


 趙雲が曹操軍のもとへただ一騎、駆けていく。

 この女!? 恐怖も緊張もしていない! 関羽や張飛のような闘気すらない!


「な、なんだお前は!?」


 どうして敵中に単騎突進してくるの。一騎打ち以前だわ。と于禁が鼻で笑い、「矢を打ちかけて」と趙雲を射殺すべく一斉射撃をはじめたが、見事な白馬「白龍」に乗って駆ける趙雲には当たらない。趙雲は、かつて公孫瓚が北方の騎馬民族を中心に編成していた白馬の騎馬隊「白馬義従」の生き残りである。自在に白馬を操り、矢を寄せ付けない。


「……蒼天はいまだ死せず。この博望から、私たちの運命は変わる。変えてみせる。ミズキくんと、私たちとで」


 張飛が「趙雲を死なせるかあああ! 行くぞおおおおお!」と蛇矛を掲げて飛びだし、そして関羽もまた赤兎を駆って曹操軍へと突進していた。

 やべえよ夏侯惇超強そうだよ! 曹操軍の軍備の華々しいこと……こっちはみんな歩兵なのに、向こうは騎馬兵の数が多すぎる! こりゃダメだ! と震えていた義勇兵たちが、三人の姫将軍たちを死なせまい、と雄叫びをあげて走りだしていた。

 ここに、博望坡の戦いの火蓋が切って落とされた。


「……このあたりは容易に伏兵を隠せる場所もなく、そもそもそんな練度もない。もちろん数では勝負にならない。さてと、この苦境をどうするか……」


 趙雲と夏侯惇が、于禁と張飛が激突を開始したその隙に、李典は関羽の一騎打ちに応じず、自ら一隊を率いて、早くも陣型が乱れはじめていた劉備軍の背後に回ろうと動きはじめていた。だが、曹操軍の旗の動きからその動きを読んだ徐庶はすかさず「やらせるか! 俺さまが軍師として采配する限り、兵法の初歩の初歩なんぞにはひっかからねえぜ!」と自ら五百の精兵を率いて李典隊の進路を塞いだ。この五百人は劉備を守り続けてきた親衛隊長・陳到率いる、劉備親衛隊「白耳隊」の面々である。全員、耳が大きい劉備にちなんで、兎耳の兜を被っている。本来ならばミズキの直属部隊なのだが、ミズキ不在の今は徐庶を護衛しているのだ。


「あれっ!? いつもの劉備軍なら、関羽と張飛が最前線で暴れている隙に背後に回り込めばあっさり分断できたのに!? やっぱり逃した軍師は大きいかもしれませーん! 撤退しましょうよう!」


 李典が嘆くが、徐庶のほうもぎりぎりである。


「へ、へへへ。やるな李典め、さっと兵を退きやがった。俺さまを釣り出そうったってそうは行くか。だが、この俺様と五百の白耳隊だけで、いつまで李典の動きを防ぎとめられる? こちらから討って出るには兵力が足りない。限界はまもなく来る。さっさと孔明を連れてきやがれ、ミズキ!」

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