博望坡の戦い-1

 宛から、夏侯惇率いる曹操軍が進撃を開始――! 新野の町は大混乱に陥っていた。

 曹操軍は「兵は神速を尊ぶ」という言葉をモットーとし、軽騎馬兵主体の電撃作戦を得意とする。一週間は猶予があるだろうと考えていた徐庶の読みよりも、その進軍開始時期はさらに速い。


 孔明を連れ出すことができず、いったん新野に戻ってきたミズキたちは、曹操軍襲来に怯える新野の民に囲まれていた。すでに程昱の放った間者が新野の町に紛れ込んでいる。「劉備玄徳は汝南で死んでいて、新野に入った劉備はニセモノの影武者である」という噂を程昱は新野の民たちに流していたのだ――「流言飛語」の策。漢の左将軍・劉備の名を騙ったニセモノを捨てておくわけにはいかない。曹操軍は帝の命で新野を討つ。唐辛子に胃をやられて寝込んでいる荊州の主・劉表も新野攻めを黙認している。襄陽から援軍は来ない。新野は孤立無援だ、というのである。


 民たちはこの巧みな流言飛語の策に填まって、動揺していた。

 関羽飯店に倍プッシュで投資を続けてきた商人たちも、「ついに破産の時が」とみな青息吐息。新野バブル崩壊か、あるいはリーマンショックか、とばかりに悲嘆に暮れていた。


「孔明が、劉表に手紙を書いてくれる。襄陽から劉表軍が新野に攻めてくることはないはずだ。だが、援軍も出してくれないだろう。新野だけで戦って夏侯惇の南下を防ぎ止めなければならないな」


「小僧。新野の城内にも、程昱の間者は大勢入り込んでいる。新野は吹けば飛ぶような小城で防衛設備も整っていねえし、援軍のあてがないままに籠城しても勝ち目はねえ。攻撃こそ最大の防御だ、こちらから討って出る! 宛の北のかた、博望に布陣して夏侯惇軍を足止めする以外に勝機はない!」


 商人たちと民たちの応対に追われていた徐庶が、人混みをかき分けながらミズキの前にはせ参じ、「出撃策」を具申してきた。


「博望へ?」


「新野を奪うのならば勝手に奪え。どうせ劉表から借りている城だ。こんな小城いくらでもくれてやる。そっちが宛を留守にした隙に北上して許を突いてやる、と夏侯惇を脅すのよ。許には帝がいるからな。苦し紛れのハッタリだが、夏侯惇に新野まで南下されればもう終わりだ。博望で野戦に持ち込んで情勢が変わるのを待つしかない――」


「情勢が変わるのを待つと言っても、劉表からの援軍は望めない。劉備玄徳が本物だろうが影武者だろうが、あの蔡瑁は劉備の勢力が荊州で拡大することを望まないはずだ。劉備に荊州を乗っ取られてしまうことを恐れているんだ」


「オイオイオイオイ。未来人さんよう。情勢が変わるってのは、つまり、小僧。お前が諸葛孔明を出盧させて劉備一家に迎えるということを言ってるんだ! 星眼を持つ天下の奇才・孔明が劉備のもとに仕えれば、劉備はその正体が影武者だろうが『本物』ということになる! 荊州の名士たちはみな孔明を怪しげな奇人と恐れて距離を置いているが、その神仙の域に達した才を認めていない者はいない。名士たちが孔明の動きを見て劉備を支持すれば、蔡瑁がどれほど妨害しようが荊州の人材の大半は劉備陣営に加わってくれる! 新野を孤立無援の状態から救うには、孔明を連れてくるしかない! 戦は俺さまたちに任せて、さっさと隆中へ行け、小僧!」


 そういうことか、とミズキはうなずいていた。徐庶は「武力を用いて土地や城だけを抑えることが戦いじゃない。『漢』を復興するためには、『国家』を築くためには、漢を漢たらしめてきた『文明』の力を擁することが肝要であり、そのためには曹操陣営に匹敵する多士済々な人材が必要なんだ」と説いているのだ。そして、劉表が戦を避けてきたために長らく平和を保っていた学術都市・荊州には多くの人材が集結している。


「だが、孔明をどうやって立ち上がらせればいいのか。今の孔明は、人間の世に自分の異能は必要がない、むしろ災いを為す、運命は変えられない……と隠者として生きる覚悟でいるんだ」


「ああん? 結局、口説かなかったのかよ! 俺さまの修行を無駄にしやがって!」


「軍師になってもらうために口説いて恋心を抱かせようなんて、義じゃないよ、徐庶の兄貴。俺はあくまでも、正攻法で孔明を出盧させたいんだ」


「だーっ! 甘い甘い大甘だぜ! 新野の破滅が目の前に迫っているのに、まーだそんなことを。これだから童貞の小僧はよーっ!」


「そ、そこま言うのなら、徐庶の兄貴が口説けばいいじゃないか」


「フ……俺さまは孔明から『母親の尻に敷かれて一生一人立ちできないボンクラ男』と心底馬鹿にされているからそいつは無理だ! あいつは男の選り好みが激しいんだよ!」


「威張るようなことかよ! もう策も修行もない! 俺の赤心を孔明にぶつけるだけだ! 行くぞ的盧!」


 しかし、「なんだよ相棒。まーた隆中へ逆戻りかよ。ったく。新野と隆中を行ったり来たり、忙しい野郎だぜ。俺は精力無限大の荒ぶる種馬だが、野郎を乗せて走っていると気力が萎えるんだよ。ちょっとだけ休ませてくれよ、ニンジンをよこせブルル」と的盧が座り込んでしまったので、ミズキは一刻だけ出発を遅らせねばならなかった。やむなく的盧にニンジンを与えている間に。


「ミズキ。城外へ出撃するとなれば、いよいよ一兵でも多く義勇兵を募らねばなりません。それに、ミズキが影武者だという噂を流されて人心が動揺しています。私が民の前で説得を試みましょう」


 関羽が、政庁へと押しかけていた人々の前に立ち、演説を開始した。

 おお! 関羽さまだ! なんと美しい黒髪……! 真っ赤に激しておられる! と人々が歓声をあげる。本来ならば関羽は、「劉備玄徳はまぎれもなく本物だ。汝南で死んだなど曹操が流した妄言にすぎない。諸君、義勇兵として劉備玄徳とともに戦ってくれ!」と演説しなければならない場面だった。関羽がそう訴えれば、みな、彼女の言葉を信じるだろう。


 だが、関羽は血筋や身分の高さを誇る士大夫に対しては傲岸だが、名もなき民たちに対しては限りない慈悲心を持っている。かつて故郷で塩の密売という闇の稼業に走ったのも、漢の役人たちが塩の売買を独占してその価格をつり上げ、民を搾取していたからだった。

 民を騙すことは私にはできない、それは義ではない――兄上も喜ばない。関羽は自分に救いを求める人々に大歓声で迎えられたこの時、情にほだされた。良心の呵責。侠の精神。義の心。関羽は、どこまでも関羽だった。だからこそ、千八百年後の未来にも「神」として崇められる存在になるのだ。


「……新野の人々よ。あなたたちの多くは中原での戦乱に巻き込まれ、家も故郷も失って新野にようやく安息の場を見つけた乱世の民。私は……劉備玄徳が本物だとは、あなたたちには保証できない。とても、断言できない。もしも。もしも今新野にいる劉備玄徳がニセモノだったとしても。影武者だったとしても。私たちとともに戦ってくれるだろうか。新野を守り抜いてくれるだろうか?」


 なんという愚直さ! ダメだダメだ! ミズキも関羽も、どこまでお人好しなんだ! これじゃあ台無しだ! と徐庶は青ざめた。

 政庁へと押しかけていた人々も、お互いに顔を見合わせて迷っていた。関羽に対する彼らの信頼と情愛は変わらない。むしろ「なんという正直なお方なのだ」「真の義人だ」といよいよ感激した。が、劉備が影武者だという噂を関羽は半ば認めてしまっている。ならばニセ劉備は左将軍を名乗る逆賊。新野が劉備を頂く理由は、なくなってしまう。


 どうする? 関羽さまが曹操と戦い漢王室を復興させるというのならば、劉備さまが本物だろうが影武者だろうが関羽さまとともに戦うまでだ! いや、劉表や蜀の劉璋、それに呉の孫家にまで劉備さまがニセモノだと知れ渡ったら、もう新野の味方をしてくれる者はこの大陸にはいなくなってしまう! 孤立無援だ! いかに関羽さまと張飛さまが強くとも、もう終わりだ! しかし曹操のもとにはもう戻りたくない! 漢王室を簒奪しようとしている姫将軍だぞ! もしも曹操がこの新野で、徐州のように大虐殺をはじめたら……! ニセ劉備を差し出せばわれわれ民の命は救ってくれるのではないか? そんな真似ができるか! たとえ影武者だとしても、関羽さまが付き従っておられるお方だぞ! それに、劉備さまが来られてからの新野は、戦乱に荒れる中原とはまるで違う夢のような平和で明るい町になった! 税も取られず、苦役もなく、観光客と商人とが集まって町は潤い、われわれも関羽飯店でさんざん楽しませてもらった! すべて、劉備さまのおかげではないか!


 人々の動揺は悲鳴となり、悲嘆となった。

 政庁前に集まった人々は、「降伏派」と「抵抗派」とに分かれて、大混乱になった。関羽が「申し訳ありません、ミズキ! 私は……どうしても……どうしても、民を騙して戦場に連れ出すことができなかったのです。自分を許せなかったのです……」と膝を屈してミズキに詫びる。その潤んだ目に、しばしミズキは見とれていた。なんという愚直さ。なんという義。曹操があれほどに関羽を欲しがった理由が、はっきりとわかった。関羽雲長という英雄を、この新野で敗北者にはしたくない。俺は、関羽と張飛の未来を劉備さんから託されたんだ。劉備さん。少々厚かましい真似をするけれど、いいよな。俺は軍資金稼ぎは続けるが、商人にはならない。劉備玄徳の志を、まるごと継ぐ。関羽も。張飛も。趙雲も。孔明も。そして、漢王室の復興も。まるごと、だ。


 ミズキは「行くぜ相棒。隆中へ駆けられるかどうかは、俺次第だ。もしもしくじれば、俺は暴徒と化した新野の民に八つ裂きにされる。お前は鍋で煮られる。が、劉備さんの『気』に包まれている今の俺ならば必ず押し通れる! 彼らはきっと、隆中への道を開いてくれる!」と的盧に跨がって政庁の門を開くと、騒然となっている人々のまっただ中へと一人で飛びだしていた。

 いけません、なにをするつもりですかミズキ? 危険すぎます! と関羽が気づいた時にはもう、ミズキは民たちの中にただ一騎で屹立している。


「新野のみんなあああああ! 悪い! 俺は劉氏でもなんでもない! 漢王室とは血のつながりなんてない! それどころか、漢人でもない! 俺は、異界の倭国から来た! むろん、劉備玄徳じゃあ、ない! 噂通り、ニセモノなんだ! 影武者・劉備玄徳なんだ!」


 え、ええええええ!? と人々が衝撃に打ちひしがれて声を失い、固まったその一瞬に、ミズキは「すう」と的盧の背中の上で大きく息を吸い、そして、吐いた。人々の熱い「気」を感じる。乱世に翻弄され、虐げられ、苦しめられてきた民たちの怒り、悲しみ、それでも幸福に生きていきたいという執念。幽州の草鞋売りという身分から兵を起こし、敗れても敗れても戦い続けてきた劉備玄徳の「力」の源泉は、この無数の民たちの「気」にあった。漢王室はたしかに腐敗していた。だから農民の大反乱が起きた。だが、だからと言って漢王室を滅ぼしてしまっていいわけではない。曹操に、四百年続いた漢を簒奪させてはならない。簒奪者が一人現れれば、また一人、さらに一人と、次々と簒奪者が出現し続ける。必ず、世が乱れる。これ以上の戦乱が続くなんて、絶対にまっぴらご免だ。


「だが、俺は新野に間借りさせてもらって、よくわかった! 戦乱で家を焼かれ、田畑を失い、故郷を追われ流れ流れてやっと新野まで辿り着いたみんなの思いってやつが! 俺には将軍としての能力もないし、国家を運営する才覚もない。だが、みんなの思いを、『気』を感じ取ることだけはできる! 流浪の将軍・劉備玄徳がなにをめざし、なにを求め、なにを為そうとしていたのか、新野で俺は知ることができた! 劉備さんは――自身の栄達など、求めていなかった。天下を盗ろうという野心などもなかった。ただ、民の笑顔を見たかったんだ! 乱世に翻弄され続けた人々は、なおも『漢』の復興を求めている! 分裂など、したくはない! 同じ漢人同士でいつまでも殺し合うなんて冗談じゃない! 劉備玄徳は、その『声なき声』を聞くことのできる『大徳』だった。だから、名士でもなく地盤もなく勝てる見込みなどなにもないのに、全力で戦い続けたんだ! 漢という文明は――蒼天は、まだ死んでいないと、全身で訴え続けたんだ!」


 人々は、いつしか静まりかえっていた。そして、「本物だろうが偽物だろうが、この人は劉備玄徳だ」と確信していた。声を枯らしながら叫び続けているミズキの背後に、劉備玄徳の巨大な影が浮かび上がっているかのように、見えた。


「俺が劉備玄徳からたしかに受け継いだと胸を張って言えるものは、劉備玄徳の『志』だけだ。それでも、俺とともに戦ってくれるか!?」


 応! と、人々は拳を掲げて絶叫していた。


「関羽さまと張飛さまが、あんたを劉備玄徳として担いでいる限り」


「あんたが、劉備玄徳だ!」


「劉備玄徳は、俺たち乱世に翻弄され続けてきた無名の人間たちが見ている『夢』なんだ!」


「そもそも! 本物の劉備さまだって、戦にはからきし弱かった!」


「徐州でも、あれほど民に慕われていたってのによ! それでも呂布に、曹操に、とことん負け続けた常敗将軍だ!」


「今さら影武者に交代したところで、これ以上弱くはならねえ!」


「違いない!」


「あんたはもう、影武者じゃない。あんたは、二代目劉備玄徳だ!」


「俺たちは、あんたとともに見よう! 『漢』という夢の続きを! 蒼天はまだ、死んでいない!」


「それによ! 守銭奴のあんたがいなくなったら」


「『関羽飯店』が潰れちまうじゃないか!」


「あんた以外の誰が、あの気位の高い関羽さまにチャイナドレスを着せて舞を舞わせられるっていうんだ!?」


「いちばん大事なのはそこかよ! お前ら……最高だな! はじまったな、漢!」


 関羽飯店を開いてなきゃあヤバかったな相棒。エロは時代も国境も民族も、そして人馬という種族の壁すらも越えるんだぜブヒヒヒン、と的盧が笑った。

 劉備、劉備、とミズキを囲みながら、新野の民たちはミズキが乗る的盧へ、道を開いていた。


「ありがとう! 俺は曹操軍を撃ち破ることができる大軍師を必ず連れてくる。すぐに戻る。それまで関羽たちとともに曹操軍の進軍を防いでくれ! 行ってくる!」

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