三顧の礼-12

 二度目の隆中訪問は、失敗に終わった。


(張飛が火をかけなくても、孔明を立ち上がらせてこの屋敷から連れ出すことはできなかっただろう。孔明は星から人の運命を、未来を読める力を持っていながら、劉備さんを救えなかった。むしろ、劉備さんの命を削ってしまった……自分のような異形の能力者は人間の「歴史」に関わらないほうがいい、関羽と張飛をも本来の運命よりもさらに酷い未来へ誘導してしまうことになる……そう、思い込んでいるんだ。孔明は口は悪いし態度も尊大だけれども、戦乱の世を生きる軍師としては……優しすぎる。劉備さんへの尽きぬ敬愛の情を吐露した「出師の表」こそが、孔明のほんとうの……)


 あるいは、完全に隆中を焼き払ってしまえば、出盧せざるを得なくなるのではないだろうか。しかし、それでは孔明を無理矢理に手込めにして連れ去るのと同じだ。孔明自身が「出盧し、人間の『歴史』に関わる」と決断しなければ、意味がない。「演義」で曹操に母親を人質に取られて仕方なく曹操のもとに仕えた徐庶のように、なにごとをもなせないままに無駄に生涯を過ごすことになるだけだ。


「ミズキ、申し訳ありません! 止めよう止めようと努力したのですが、なぜか私が張飛を止めるためになにかを口走るごとに事態が悪化して……ですが、ご安心ください。火は消えました。もっとも、私が消したのではありませんが」


「孔明のやつ、屋敷に妙なからくりを仕掛けていたらしい! 建物のあちこちから水と砂が吹きだしてきて、火を消し止めちゃったんだ! いったいどういう仕掛けを施しているんだろう。もしかしてほんものの天才なのかなあ? だとしたら、あたしは、なんてことを……うわあああ! ごめんなさいっ!」


「工作と発明が孔明の趣味だからね。そうか。劉備玄徳の隆中訪問が長引けば、短気な張飛がいずれ屋敷に火を掛けて自分をいぶり出そうとすると読んで、火を放たれても消せるように準備していたのか……張飛が暴れ、関羽がけしかけても、孔明の屋敷を焼き尽くすことなど最初からできなかったんだな。さすがだ。あと一度だけ、再訪問する機会を得られれば、いいんだが……」


「けしかけていませんよ! 徐庶どのは、曹操軍が進撃してくるまで一週間ほど猶予があると言っていましたよね。修行で三日、隆中訪問で一日。四日を使ってしまいましたが、まだ三日残されています。ですが、今日はもう無理でしょうね。火は消えたとはいえ、屋敷が半焼してしまいましたし……張飛! なんという余計なことを! どうしてそう血の気が荒いんですか!」


「ええ~? ミズキが孔明に襲われていたんだから、しょうがないだろ? まあいい。明日だ、明日! ミズキ、今日のところは新野へ戻ろう。仕事が山ほどあるし、孔明を出盧させるためにもう一度徐庶と作戦会議しなきゃならない」


「……そうだな、張飛。俺がほんものの劉備さんではないことは、すでに見破られていた。本来の主君である劉備玄徳が不在だとわかっている今の状況で孔明を出盧させるのは、難しい。並大抵のことではとても無理だ……どうすれば……」


 なによりも、劉備さんの寿命を大幅に削ってしまったことを、孔明は悔いている。もともと繊細で優しすぎる孔明が、人の世から完全に身をひき隠棲する決意をしてしまったのは、自分の予言が劉備さんの運命を変えてしまったからだ。


(生涯をこの隆中で、劉備さんを死なせたことを悔いながら、喪に服して無為に終えていくだなんて。ダメだ孔明。きみはやはり、天下の奇才だ。千年に一人の智者だ。百年先、千年先までのこの国と民のことを考えている。きみが関羽たちとともに、劉備さんとともに戦わなければ、人々の心に生きている「漢」という文明は長い戦乱のうちに消滅してしまう。この大陸の乱世状態は、半永久的に続く……辛くとも、たとえ劉備さんがいなくとも、孔明。きみは、戦わなければならない人なんだ。たとえ志を果たせずとも全力で人生を生ききったきみと、なにもしなかったと後悔しながら死んでいくきみと、どちらが「幸福」なのか、考えたことはないのか? その才能と知謀のすべてを封印して生涯を無為に過ごし、死ぬ瞬間まで自分を責めながらながら命を浪費してしまうことで、劉備さんに詫びようというのか。劉備さんは、絶対にそんなこと、喜ばない。喜ぶはずがない)


 どうすれば、孔明を出盧させられるのだろうか。

 俺に、できることはないのだろうか。


「まあ、そうウジウジすんなよ、相棒。孔明は『三顧の礼』を受けて出盧するんだろ? だったら、もう一度訪問すりゃあいいじゃねえか。それでまだ口説けないってんなら、俺がミズキに代わって孔明を口説いてやるぜ。孔明ほどの知恵者ならば、馬語を介する能力があるかもしれねえしな。ブヒヒヒン」


 的盧が軽口を叩いて、ミズキを励ます。「正史」では、孔明の兄・諸葛瑾は馬面だったというが……。



 そしてこの時、「およそ一週間」という徐庶の目測よりもはるかに早く、宛城の曹操軍が出陣していた――目指すは、新野である。

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