三顧の礼-11

「損得の問題じゃない。俺は劉備さんから二人の運命を託されたんだ! もちろん俺には力なんてない。だが、諸葛亮孔明がいる。そして、隆中でこうして会えた」


 要の荊州を失い、益州に閉じ込められた孔明が絶望的な北伐を開始する際に劉備の遺児・劉禅(阿斗)に捧げた「出師の表」には、なお、続きがある。

 劉備の死を悼み言葉を失ってしまったかのように羽毛扇で顔を隠している孔明に代わって、ミズキが「出師の表」の続きを朗読しはじめていた。



 臣はもと布衣、みずから南陽に耕し、いやしくも性命を乱世に全うし、聞達を諸侯に求めざりしに、先帝臣の卑鄙なるを以てせず、猥におんみずから枉屈して、三たび臣を草廬にかえりみたまい、臣に諮るに当世の事を以てしたもう。

 これによりて感激し、ついに先帝にゆるすに駆馳を以てす。

 後、傾覆にあい、任を敗軍の際にうけ、命を危難のあいだに奉ぜしめ、爾来じらい二十有一年矣。

 先帝、臣が謹慎なるを知る、故に崩ずるにのぞみて、臣によするに大事を以てしたまいぬ。

 命をうけて以来、夙夜憂歎し、付託の効あらずして、以て先帝の明を傷つけんことを恐る。

 故に、五月、濾を渡り、深く不毛に入れり。

 いま南方すでに定まり、兵甲すでに足る。

 まさに三軍を将率し、北中原を定む。庶わくは駑鈍を竭し、姦凶を攘除し、漢室を復興して、旧都に還しまつるべし。

 これ臣が先帝に奉じて、而して、陛下に忠なる所以の職分なり。



「……三顧の礼に、南蛮征伐。ふふ。私が星を読んで知った通りの未来ね。いくら私が天才軍師でも、蜀から中原へ進出することなど、できるはずがないわ。蜀は、あくまでも兵站と補給のための土地。軍事的に中原の曹操と対抗するには、荊州がどうしても必要なの。やれやれ。劉備玄徳に三顧の礼を尽くされたからって、そのあと、二十年以上も苦心惨憺の激務を押しつけられて勝ち目のない北伐までやらされるだなんて。うかつに感激など、するものではないわね……」


 孔明は、感情を表情に表さない。冷淡な性格を装っている。しかし、ミズキは知っている。この人形のように無機質な顔立ちの裏には、劉備玄徳の「情」を慕ってやまない熱い心が隠されていることを。劉備、関羽、張飛なきあと、孔明は「きみが皇帝になれ」と劉備に遺言されたにもかかわらず、最後の最後まで劉備の子・劉禅に家臣として忠実に仕え続けたのだ。


 しかもその時、蜀はすでに荊州を失陥し、しかも劉備は関羽の復讐のために呉と戦って大敗していた。この相次ぐ大敗で大半の人材を失った蜀という弱小国家を運営できる者は、孔明しかいなかった。孔明が皇帝の位についても、誰も異を唱えなかったはずなのに。


 孔明は国内では法治主義に基づいた厳格な政をなしながらも、その無欲さと高潔さを民に慕われ、国の外を出ては自ら軍を率いて何度も北伐を敢行し、強大な曹魏帝国と戦い続けた。だが、すでに関羽も張飛もなく、最後の柱石・趙雲も逝ってしまい、荊州から蜀に入って蜀漢を建国した当時の仲間たちはことごとくが消え、孔明は一人きりとなった。それでもなお、知略を振り絞って中原を回復しようと激務を続けた。


 ついに、最後の北伐の途中、五丈原という土地で病に倒れ、過労死した。

 孔明が死んだ夜には、星空に流星が墜ちたという。

 天文を見る力がない市井の人々たちにも、その流星は、はっきりと見えたのだ。

「出師の表」は、ありし日の劉備玄徳を思い返しながら涙を流す孔明の言葉で、締められている。



 ねがわくは陛下臣に託するに、討賊、興復の効を以てせられよ。効あらざれば、すなわち臣の罪を治め、以て先帝の霊に告げさせたまえ。


 陛下また宜しくみずから謀り以て善道を諮諏し、雅言を察納し、ふかく先帝の遺詔を追わせたまえ。


 臣、恩をうくるの感激にたえざるに、今まさに遠く離れまつるべし。表に臨みて、涕泣おち、云うところを知らず。


「あああ、もうやめて! この私がこんな恥ずかしい文章を公に晒すだなんて。黒歴史、いや、黒未来よ! ミズキと言ったわね。私は出師の表など、書きたくはないわ。この文章を書いている時点ですでに『天下三分の計』は破綻しているのよ? 劉備、関羽、張飛を失い、荊州を失陥した後の無謀な北伐など、命運の尽きた蜀を保たせるための敗戦処理にすぎないわ。いくら私でも、負けないように戦うので精一杯よ!」


「それは、そうかもしれない。曹魏にはキラ星の如く人材が溢れている。中原を抑えた曹魏に孔明一人で対抗するのは、無理筋な話だ……」


「もちろん劉備玄徳が生きていれば、万一の可能性に賭けて献策したかもしれないわね。でも、もう、劉備はこの世界にはいない。私の余計な予言のせいで、死んでしまったわ……いったい、誰のために出盧し、なんのために犬馬の労を尽くせと言うの、あなたは? 私が仕えるべきお方は、もう、いないのよ……事を計るは人にあり、事を為すは天にあり、よ。見ての通り、私は病弱な身体。寿命も短い。あまり長くは生きられそうにないわ。劉備玄徳のいない劉備一家に天下を盗らせるなど、私にはとても無理よ。これ以上、人間の運命をいじってさらなる不幸を呼びたくはないの。私のような異形の才は、災いにしかならないの。野に埋もれさせておくべきなのよ。もう、私をそっとしておいてくれないかしら?」


 孔明は、劉備さんの運命を変えようとしてかえって彼の命を縮めたことを、心から後悔しているのだ。毎日、劉備さんを弔っているのだ。そうだ。この隆中は桃源郷なんかじゃない。墓場なんだ……だから、これほどに清浄なのだ、とミズキは理解した。


「だからって、生涯をこの隆中で終えるだなんて! それはダメだ、孔明! 人間はいずれ必ず死ぬ! どれほど養生の術を会得したところで人間の命はせいぜい百年だ! なにを成し遂げられたかが大事なんじゃない。与えられた時間の中でなにをなそうとするか、それが重要なんだ! きみは、劉備さんの喪を弔うために生まれてきたんじゃない! この未曾有の乱世を終わらせることこそが、きみの」


「……愚か者ね、ミズキ。人間の運命は変えられないわ。たとえ未来人が一人、この世界に墜ちてきたとしても……星から人の運命を読み解ける智者が出現したとしても。ただ一人で、この国の万人の運命を変えられるなど、思い上がりにすぎないのよ。漢王室は、蒼天はもう死んでいるの。あなたが知っている通りの未来になるしかないわ。漢は滅び、曹家も滅び、曹家から帝位をさらに簒奪する者もまた滅びる。それが、天意よ。人間にはどうすることもない大異変が起こりつつある。大陸が、冷えはじめているのよ。飢饉が続くのも、新興の道教教団に餓えた民が集まり続けるのもそのせいよ。北方は、もっと寒くなるわ。まもなく、騎馬民族の大移動が起こるの。彼らは大挙して、万里の長城を越えて南下してくるわ。東洋では騎馬民族の移動に巻き込まれて漢人系の王朝が次々と滅び、西域では強大な帝国がやはり北方からの民族大移動によって滅ぼされるの――」


「東から西方へ移動したフン族に押し出されて発生する、ゲルマン人の大移動、だな。フン族は匈奴だったとも言われてる。地球寒冷化が原因なのか。だから東と西とで北方民族が南下するのか。その結果、西ローマ帝国はゲルマン諸部族に飲み込まれて滅亡し、中国では異民族が入り乱れての五胡十六国時代が」


 あら。さすが未来人、私とともに西域の未来まで語れるの、少しは見直したわ、あなたの世界じゃ誰もが知っている常識にすぎないのでしょうけれど、と孔明は目を細めた。


「そうよミズキ。曹操孟徳は超絶の才能の持ち主。彼女は、近いうちに北方騎馬民族が本格的な南下を開始することを察知している。だからこそ、漢王室の簒奪者として歴史に永遠に悪名を残してでも、分裂したこの国を急いで再統一しようとしているのよ。とはいえ、四百年続いた漢王室を簒奪するという曹操の革命をこの国の人々がやすやすと容認してしまえば、やはり漢という国の概念は崩壊してしまう。だから、たとえ負けるとわかっていても曹操に抵抗し続けるもう一人の『道化の英雄』が必要なのよ――いずれ五胡十六国時代という乱世に終止符を打ち、この国を真に再統一する者をいつの日か生みだすために。この大陸は、あまりにも広すぎる。いくつもの小国に分裂してしまえば、春秋戦国時代よりも酷い乱世がいつまでも続くわ。前漢の全盛期のような大帝国の復活は無理でも、せめて中原、益州、荊州、揚州あたりまではひとつの国家によって統一されねばならないのよ」


「劉備さんが、その道化の役割を務める。そのはずだったんだな」


「ええ。劉備だって、漢はもう終わりだということくらいはわかっていたはずよ。各地で黄巾族の乱が起きたということはつまり、漢王室が民の支持を失ったということなのだから。それに、彼は劉氏とはいえ、その実は幽州の筵売りで、もはや漢王室とは限りなく無縁に近いということも。劉備が漢王室復興という無謀な夢に賭けた理由は、ただ献帝から頼られたから曹操と戦うことにした、などという単純なものではないわ。彼はかつてこの大陸に、中原に『漢』という統一国家があり、この国の民はみな漢のもとに結集しひとつの巨大な同胞として生きていたという『過去』を、滅ぼし去ることなく後世に残したかったのよ。いつの日か、分裂したこの国の民が再びひとつになるために……乱世を終わらせるために。もちろん、私のように明確な言葉で考えていたのではなく、乱世に苦しむ人々の『声』を彼自身意識しないままに『気分』として背負っていたということだけれども。私はそんな劉備の志に、夢に共感し、そして生涯を彼の夢に捧げ尽くすはずだった、けれど……」


 劉備さんは、俺に劉備玄徳の人生を過ごさなくてもいい、自由に生きろと遺言した。しかし、俺は劉備さんの志を継いだ。継ぐつもりだ。俺では無理なのか、とミズキは孔明に問うていた。今にも消えてしまいそうな孔明の細い肩を両手で掴みながら。


「ちょ、ちょっと。触らないで。喪に服している乙女に軽々しいでしょう。あ、あなたは、やっぱり徐庶に入れ知恵されて私を押し倒して無理矢理手込めにして奴隷として働かせるつもりなの? や、やめて、顔が近すぎる!」


 孔明は、ミズキの力に抵抗できなかった。ミズキに肩を掴まれたとたんに、全身から力が抜けてしまったかのようだった。孔明は文字通りの深窓の令嬢だ。口は悪いが、それは非力な自分を守るための「武器」であって、男にまったく免疫がないのかもしれない。


「お、おかしいわ。な、なぜ力が出ないのかしら。くっ。わが結界を容易く突破してくるとは……あなた、いったいどんな卑猥な術を使っているの!?」


「じゅ、術なんて使っていないよ?」


「そ、そんなはずはないわ。今までこの異形の『星眼』を持つ私に触れてくるような男など、いなかったわ! みな、私を恐れて……例外は考えなしに生きている、うすら馬鹿の徐庶くらいよ。その徐庶ですら、私に直接触れる度胸はなかったのに!?」


「未来じゃオッド・アイの女の子は大人気なんでね、怖くないよ」


「オッド・アイってなに!? 未来語で誤魔化さないで!」


「聞いてくれ孔明。関羽と張飛、そして趙雲が将軍として兵を率い、孔明が軍師として策を立て、曹操軍と戦う。『将の将』たる劉備玄徳が影武者にすり替わっていても、劉備一家の仕組みと本質は変わらない! それに、俺は未来を知っている。孔明と俺とで劉備一家を盛り立てれば、きっと未来は変えられる。漢王室から帝位を簒奪する曹魏には正当性がなく、民からの支持は決して得られない。むしろ、力さえあれば帝位をいくらでも簒奪していいという理屈がまかり通る世が来る! だからこそ、曹魏は早々に崩壊して、簒奪に次ぐ簒奪、僭称に次ぐ僭称が続く五胡十六国時代という大乱世がはじまってしまうわけだろう?」


「そ、そうね……そういうことよ。この先の歴史で劉備が曹操に抵抗しなければ、五胡十六国時代状態のほうがこの世界の『標準』になってしまい、再統一は夢のまた夢となり、漢という人類が産んだ巨大な文明は地上から消えてしまうかもしれないわ……」


「だろう? だが! 劉備玄徳という旗のもとに関羽、張飛、孔明の力がひとつとなって、漢王室を復興させられれば! 俺は劉備さんじゃないし漢人ですらないが、劉備一家の面々の運命を変えるために孔明を補佐することならばできるはずだ! なにしろ、孔明よりも俺のほうがより先の未来までを知っているんだから!」


「い、いいから手を離して。だが断る、帰りなさい、と私が言ったら問答無用で押し倒すつもりなのね! い、痛い!」


「事を計るは人にあり、事を為すは天にあり、と孔明は言ったな。未来人の俺をその『天』として用いろ。どのような無茶な策だって構わない! 天下三分の計に限らず、なんだって! 俺を『駒』として使いこなしてくれ、孔明!」


「……ちょ。待って。いつの間に私のお腹の上に乗っているの!? あ、あ、あなた、わ、わ、私を、お、お、押し倒して……! ああもう。やっぱり徐庶があなたのような童貞の子供におかしなことを吹き込んだのね! 孔明は大人びているけれど実は生娘だから押し倒せば言いなりになるとかなんとか、野蛮なサル知恵を……! あの馬鹿、ミズキと一緒に火計に巻き込んで殺してやるから!」


「ち、違うよ! 押し倒してないよ! 孔明がずりずりと逃げるから、離すまいと肩を押しているうちに、自然とマウントポジションの態勢に……俺ってブラジリアン柔術の心得があるから……ご、ごめん」


「また未来語で誤魔化す! 『出師の表』で明らかなように、一時の感激で出盧すれば私の生涯は悲惨なことになるのよ。それはそれでまっぴらご免だけれど、こうして男に押し倒されて手込めにされて連れ去られるなんて考えられる限り最低最悪の展開だわ。泰山に祭壇を築いて、星に祈って祟り殺すわよ! 私の身体から離れなさい!」


「うーん。離したら、そのまま逃げられそうで……」


「どこまで愚かなの、愚かさの際限がなさすぎる! 逃げるに決まっているでしょう! い、いいから、離して! こんな形で私の感情を揺さぶってどうするのよ! 議論では勝ち目がないからって、性暴力で私をたばかろうとしてもそうはいかないわよ! はあ、はあ……お、重い……どいて、どいてっ!」


「ちちち違うよ、誤解だ。徐庶の兄貴だって、そんなエロ指南はしていない! ま、まあ、でも、さすがに強引すぎだな……熱くなりすぎた、ごめん。諸葛亮孔明と天下国家について語り合っていると思うと、つい。へ、ヘンなことはしないから、話を終えたら身体を離すよ。それまで逃げないでくれよ?」


 あなたはどれほどこの時代が好きなの? たいして頭が良さそうにも見えないのに、いやむしろ馬鹿の類いなのに、千八百年前の異国の「出師の表」などをあなたはどうして覚えているの? ヘンな倭人ねあなたお前は、と孔明は「かぷり」とミズキの手首に噛みつきながら呆れていた。


「いてて。そうだなあ。どうも、遺伝子に刻まれているっていうか……日本人は『三国志』が好きでたまらないんだ。なにしろ、日中戦争の最中に吉川英治は『三国志演義』を日本人向けに独自に再構成して小説『三国志』を書いていた。そしてそれがベストセラーになった。どうして当時の敵国を舞台とした歴史小説を連載・出版できたのか不思議なんだけれど、それほど国民的に人気があったんだろう。俺の時代では、三国志時代の物語はマンガになったりゲームになったりして、いよいよ盛んになっている。物心ついた時にはもう、俺は『三国志』の愛読者になっていた。なにしろ、この時代は日本の戦国時代と並ぶ人気ジャンルなんだ」


「ぺっ。汚らわしいものを口に入れてしまったわ……」


「自分で噛んでおいて!」


「それより、倭国と戦争ってどういうこと? はるばる大海を越えて? 未来の倭国はそれほどの強国になるの? あなたは侵略の尖兵? いえ、この間抜けな表情はやっぱりただの『外れの英雄』よね。でもいいわミズキ、もっと異国の歴史の話をしなさい。やはり、未来話は面白いわ。屈辱的な態勢だけれども、聞いてあげる」


「ヨーロッパと日本とどちらから行く? ヨーロッパ史はかなり長いぜ。ギリシャ、ローマ、ゲルマン人のフランク帝国、さらにその先――ヨーロッパ文明が日本列島に到達した時代の日本は戦国時代まっただ中で、ヨーロッパではスペイン・ハプスブルク家の全盛期だ」


「ふうん。ローマ帝国が滅びたその先の未来まで知っているの? さすがの私も、そこまでは見通せないわね。ハプスブルク家とはなに?」


「西ローマ帝国が滅亡したあと、春秋戦国時代のこの大陸のようにばらばらに分裂したヨーロッパの大部分を、戦争ではなく婚姻政策によって手に入れた華麗なる一族だよ。ハプスブルク家の一族は、スイスの弱小貴族でありながら神聖ローマ帝国の皇帝となり、さらに隣国の王族との結婚を繰り返すことで、オーストリア、ボヘミア、ハンガリー、ミラノ、ナポリ、そしてスペイン・ポルトガルの王公となったんだ。その王朝は六百年以上続いた。『戦いは他のものに任せよ、汝幸いなるオーストリアよ、結婚せよ』――」


「……なるほど、婚姻政策で国盗り。その発想はなかったわ。面白いわね。実に興味深いわね。もっと、話しなさい。聞きたいわ」


 孔明が、思わず押し倒されていることを忘れてミズキの頬に手を伸ばした、その時だった。


「関羽! 見ろ! ミズキが孔明に誘惑されて貞操を奪われかけている! あ、あ、あの女~! たしかにまるで神仙のような絶世の美女だが、ミズキの許婚はあたしと関羽なんだからなっ! ミズキを助けないと!」


「待ちなさい張飛! どうして手に松明を掲げているのですか? まさか孔明の屋敷を燃やすつもりじゃないでしょうね!」


「燃やすに決まってるだろっ! この隆中の怪しげな雰囲気にミズキは飲まれているんだ! ミズキを正気に戻すためには、火攻めあるのみだ!」


「いけません張飛! そもそも松明を投げ込む程度ではきっちりとは燃やせませんよ、油をたっぷりと巻いてから火を放たねば!」


「そっか、さすが関羽の姉貴だ! よし、まずは油を屋敷の四方に巻いて、そして一気に東西南北から火を放つっ!」


「ダメです張飛! 火を燃やすには、風向きも重要なのですよ! 今は東南の風が吹いています! 決して東南の方向から火を付けてはダメですよ、一気に燃え広がってしまいますから! 東南はダメですよ!」


「あっ、なるほど! そうか! さすが関羽の姉貴! 東南の風に乗せて火を放てばいいのか! やっぱり関羽雲長は知恵者だな!」


 あまりにもミズキの帰りが遅いので心配して庭園に入っていた張飛が、完全に誤解して大激怒。孔明の屋敷に火を放とうと暴れれば、関羽は「やめなさい、いけません」と言いながら次々と効率的に屋敷を焼き払う方法を張飛に吹き込むのだった。


 彭侯たちが「やめて~!」「孔明、たいへん~!」と孔明の部屋へとわらわら逃げ込んできたために、孔明とミズキの会見は水入りとなってしまった。


「ああ、しまったああ! たしかに『演義』では短気な張飛が切れて放火しはじめる頃合いだった! し、し、しかも、なにか誤解されているような……」


「見るからに怪しげな容姿の私が童貞のミズキをたらし込もうとしているように見えているのでしょうね。人間というものは、見たいものしか見えないもの。そして、内心恐れていることを勝手に恐れるの。張飛には、私がそれほど絶世の美女に見えているということよ。ミズキを取られると思い込んで火をつけはじめたんだわ。ふふ。ざまあないわね。あがけ、あがけ。あがきなさい! うふふふふ」


「高笑いしてる場合か! 張飛だけならばともかく、関羽が止めるふりをして効率よくてきぱきと指示を出しているのがまずい! あちち、あちち! 本格的に燃えはじめた! とりあえず待避しないと!」


「……やはり、縁が無かったということよ、ミズキ。私を出盧させることはもうあきらめなさい。関羽と張飛があの調子では、私を陣営に加えた時点で大波乱が起きて劉備一家は破綻してしまうわ。理解しがたいけれどあの二人はどうも、どういうわけかあなたを男として意識して慕っているらしいわ。男女の情が絡むとなれば、義兄妹の関係よりも厄介そうだわ」


「りゅ、劉備さんが、二人と結婚してもいい、なんて微妙な遺言を遺すから……とりわけ関羽はああいう義理堅い性格だから、大まじめに受け取っていて」


「関羽と張飛を捨て置けば、二人とも生涯劉備の喪に服して夫を取らないだろうから、死ぬ間際に気を回したのね。まったく。劉備玄徳の深情けにも困ったものね」


 孔明は「仕官はお断りするけれど、二度も隆中を訪ねてくれた礼はしてあげるわ。襄陽の劉表に、私から手紙を送って弁明しておいてあげる。襄陽が敵に回らなければ、徐庶に軍師役を任せておけばしばらくはどうにかなるわ。でも、いつまでも曹操軍から新野のような小城を守るのは無理よ。あなたは優しすぎて武人には向いていない。影武者役は切り上げて、商人として生きたほうがいいわ――私はやはり、この隆中で残りの生涯を終えるわ。これ以上、私の余計な能力のせいで人の運命を悪しき方向に変えたくはないの。そうするべきなのよ……」と言い残し、隠し扉を開いて部屋から姿を消すと、彭侯たちに命じてミズキを屋敷から放りだしていた。非力な彭侯たちも、二十匹を越えるとそれなりの力となるのだ。

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