三顧の礼-10


「宛城に集結している曹操軍の将軍の顔ぶれは、主将に曹操がもっとも信頼する従妹の夏侯惇。副将に猛将・于禁と智将・李典というそうそうたる陣容です。夏侯惇と夏侯淵は、曹操の命令を待たずとも独断で軍を動かすことを認められている、いわば曹操の分身。劉備一家で言えば、私と張飛に相当する曹操の『義姉妹』のような存在です。先鋒隊とはいえ、その戦力は曹操自身が率いる本隊に匹敵します。このような時に、趙雲一人に義勇兵集めを任せきりというのは……隆中を訪問している時間はないと思いますが」


「まーた彭侯たちが出迎えてきた。もちもちしていて、美味しそうだなあ。そういえば仙人って霞を食べて生きているんだろう? 孔明も彭侯を食しているのかな……」


「んもう。張飛! 今は豚まんの具のことを考えている場合ではないのですよっ! ミズキを止めてください!」


「まあまあ、関羽の姉貴。速攻で新野に連れ帰ればまだ間に合う。ミズキは三日間の厳しい修行をこなしてきたんだ、いけるいける。あたしなんて、すっかりミズキとの恋にどっぷりはまったクチだし。お互いの脳天に雷が落ちて全身が痺れる、激しい恋というやつだよ」


「な、な、なんですって? 張飛がミズキとそのようなただならぬ関係に!? どういうことです、ミズキ! あなたのお世話は長姉であるこの関羽雲長の役目ですのに!」


「……か、関羽、張飛。とにかく、孔明が出盧するかどうかで、新野と荊州の運命は大きく変わる。申し訳ないが、しばらく待っていてくれ。余人を交えずに二人で語り合いたい」


 孔明を口説いて恋に落とさせるなんて下策は許しませんよと関羽が釘を刺してくる。わかっているよ。ただ、三日間の修行のおかげで、初対面の孔明と二人きりになってもそれほど緊張せずに済みそうだ、ありがとう、とミズキは関羽の手を取り、


「劉備さんから託された二人の未来を切り開くには、孔明の力が必要なんだ」

 と意を決して、ついに彭侯たちに連れられて孔明の庵へと足を踏み入れていた――。



「あら。来ていたの? ようこそ隆中へ。 質素な庵で万巻の書に囲まれながら、のどかな大陽の光のもとで長々と昼寝してしまったわ、ごめんなさい。さっさと起こさないだなんて、間抜けな男ね。私が諸葛亮、字は孔明よ。曹操軍襲来が間近だというのに、愚直にも隆中へ再び足を運んだのだね、劉備玄徳――いえ、違うわね。あなたは劉備ではない。顔形はそっくりだけれども。歴戦の武人・劉備とはまるで髀肉の付き方が違うわ。その太股の細さを見るに、最近になって馬術を覚えはじめたひよっこね。それに、『気』の揺らぎ方が少しだけ奇妙だわ。現世とは異なる異世界から来たのかしら。しかも、未来人。ふふ。それで? あのおっちょこちょいの徐庶に入れ知恵されて、私を口説く修行でも積んできたの? 影武者・劉備玄徳さん?」


「寝ていたのかよっ? しかも、脚と『気』をちらりと見ただけで俺の正体をそこまで見抜くとは?」


「あなたがニセモノだという理由をあと十は提出できるけれど、時間の無駄だから割愛するわ。あなたに私の昼寝を邪魔する度胸がないせいで、ずいぶんと貴重な時間を浪費したわね。さっさと本題に入りましょう」


 二時間ほど待たされて、ようやく対面することができた。

 諸葛亮孔明。

 異形の美少女――徐庶の言葉のとおりだった。たしかに、気位の高い毒舌家のお嬢さまだ。しかし、その神秘的とも言うべき美しさは想像をはるかに超えていた。

 全身を白い道士服で覆っている。背が高く、脚が長い。腰元まで長く伸ばした髪の毛には、ほとんど色素がなかった。日輪の光を反射して、銀色に輝いている。まるで人形のように左右対称で整った顔も、細い腕も、しなやかなふくらはぎも、透き通るように白かった。なによりも、瞳の色が、左右で異なっていた。オッドアイだ。片方の瞳は碧色で、もう片方は紅い。これが、星眼。

 ほんとうに、この世の人間ではないかのような……。


 徐庶が「女慣れしなきゃまずい」と俺を鍛えた理由もわかった、とミズキは納得していた。孔明は、あまりにも美しく、あまりに神々しかった。外見だけでなく、放ってくる「気」までもが、常人とは違っている。神仙か、そうでなければ異星人だ。このオッドアイに見つめられ続けたら、身も心も奪われてしまいそうだ。


「……ま、まさか、孔明。きみはほんとうに、神仙の一族なのか?」


「さあ、どうかしら。私は人間だけれど、望めば神仙にもなれるわ。どちらの生き方を選ぶかは、私次第よ――私は徐州瑯邪の生まれで、幼い頃は神の山・泰山に預けられて仙術の修行をしていたのよ。『封神』の儀式を行う聖地泰山については知っているわよね? そして、瑯邪は古来より仙術の聖地とも言える神秘の土地。秦の始皇帝に命じられて、不老不死の薬を手に入れるために船団を率いて東の彼方の蓬莱山へ向かった徐福も、瑯邪の術士だったのよ」


「船団を率いて古代日本に来たという伝説が各地に残っている、あの徐福か」


「ええ、そうよ。近頃、呉で道教教団を率いている仙人于吉も瑯邪出身。仙術が盛んな瑯邪では時折、私のような『星眼』を持った異形の者が生まれてくるの。諸葛一族でも、私だけが特別なの。だから泰山で修行させられたのね。漢王朝の腐敗と飢饉に苦しむ愚民どもを導いてあげるために道教教団を率いて一国一城の王になってあげてもよかったのだけれど、やめたわ。私は、野蛮な戦は好きではないの。そもそも戦は私のような可憐な智者の仕事ではないわ。得物を振り回して暴れるしか能のないがさつな武官どもの仕事よ」


「噂通り、毒舌だなあ。誇り高い関羽や短気な張飛に聞かれたら怒られるぜ」


「そんなことよりも影武者劉備玄徳さん。あなたはやはり、未来から来たのね? 異形を誇る私にどこの異民族の血が混じっているか、まるで気にしない」


 ほんとうは影武者劉備玄徳に会うつもりはなかったのけど、あなたが隆中に書き残していった「文章」を一読して、あなたが未来から来た人間だとわかったわ。だから、会ってみることにしあげただけ。あくまでも、未来人と一度語らってみたかっただけよ。絶対に出盧はしないわ、影武者の軍師になんてなるつもりはないの。愚かな期待はしないことね、と孔明は人形のような無機質な表情のまま淡々と告げた。

 ミズキが、孔明に書き残した「文章」は、詩ではなかった。

 もちろん、恋文でもない。


「この私に私自身の『未来』を明かすとは、たいした度胸だわ。さすがは劉備玄徳から関羽と張飛を託されただけのことはあるわね。あなたは劉備玄徳並の大器でなければ、ほんもののうつけ者ね。後者である確率が九割九分。あなたの、ほんとうの名は? 呪をかけたりしないから、正直に教えなさい。私の推測では……」


「隠してもきみにはすぐに見破られそうな上に呪をかけられそうだから、教えるよ! ミズキだ。劉と書いて、ミズキと読む。音読みじゃない。訓読みだ。劉氏とは血縁はない。倭人だ」


「倭国独特の『読み方』? 倭国では漢の文字を、そのように用いるの? なるほど、あなたは劉備玄徳の影武者としてはまるで冴えないけれど、珍獣としては興味深い観察対象だわ。私の奴隷になると誓うならば、彭侯たちと一緒に飼ってあげてもいいわよ? ただし私は引きこもりを続けるために倹約中だから、餌は一日一食ね」


「誰が飼われるか!」


 孔明は、ミズキが書いた「文章」を、天使のような透き通った声で、読み上げていた――。



 臣亮もうす。

 先帝、創業いまだ半ばならずして、中道に崩そせり。

 今、天下三分し、益州は疲弊す。

 これ誠に危急存亡の秋なり。

 しかれども侍衛の臣、内に懈らず、忠志の士、身を外に忘るるものは、けだし先帝の殊遇を負うて、これを陛下に報いんと欲するなり。

 誠に宜しく聖聴を開張し、以て先帝の遺徳をあきらかにし、志士の気を恢弘すべし、宜しくみだりに自ら菲薄し、喩をひき義をうしない、以て忠諫の道を塞ふさぐべからず。



「この『臣亮』とは、私のことね。つまりこの文章は、未来の私が主君に当てて書いた文章。創業いまだ半ばならずして死んでしまう『先帝』とは、劉備玄徳。『天下三分し益州疲弊す。これ誠に危急存亡の秋なり』とは、私がこの隆中で考えていた漢王室復興のための策――『天下三分の計』が劉備将軍のもとで実現し、中原の覇者・曹操、益州に寄った劉備玄徳、呉の孫家の三者が天下を三分して三国鼎立が成立したことを示しているというわけかしら?」


「……そうだ。生真面目な関羽にはこの『出師の表』の内容がまるで理解できなかったらしいが、それも当然だ。『天下三分の計』を知っている者は、策を立てることになる孔明自身と、未来から来た俺しかいないんだから」


「『益州疲弊す』――わが天下三分の計の大要は、益州に劉備玄徳を割拠させつつ、呉の孫家と同盟を結んで共闘し、大陸の臍たる荊州から関羽を出撃させて中原を奪回するというもの。つまり、劉備玄徳は益州を手に入れるが、肝心の荊州を失陥するのね。荊州を失陥したとなれば、関羽は生きてはいないでしょうね。張飛も、劉備玄徳も……三人ともに志を果たせずに死ぬのね。桃園結義の誓いを果たすかのように、次々と、義兄妹を追うように……だからこそ、軍を率いて戦うなどまっぴらご免なこの私が、益州の軍を率いて戦う羽目になるのね。つまり、私が編み出した天下三分の策は、破綻する。ほんとうに暗黒の未来だわ。よくもまあ、こんな未来を私に突きつけてきたわね。酷い男ね、あなたは。こんな真似をして、私に仕えてもらえると本気で思っているの? おめでたすぎるのではない?」


 ミズキは「ほんとうに悪いことをしたと思っている。こんな悲しい未来を、こんな悲壮な『出師の表』を、孔明、きみ自身に読ませるだなんて。でも、これくらいのことをしなければ、ニセモノの俺がきみに会ってもらえるとは思えなかったんだ」と孔明の前に膝をついて頭を下げていた。


「……ふふ、今のは冗談よ。私は、最初から『天下三分の計』が破綻を来して『出師の表』を書く羽目になる自分の未来を知っていたわ。あなたのしょっぱい未来知識なんかに、この天下の奇才・諸葛亮孔明が動揺させられるはずがないでしょう?」


「えっ? 最初から、知っていた?」


「ええ、そうよ。私の『星眼』は、星の瞬きから人々の運命を読むことができるの。この私自身の運命も――劉備玄徳の運命も――関羽、張飛の運命も――あなたに『出師の表』を読まされずとも、私が出盧して劉備に仕えればどうなるかくらい、すでに知っていたわ。幼い頃から。徐州で暮らしていた頃から」


「……まさか孔明。それでは……徐州時代の劉備さんに、未来を予言した少女は……まさか?」


 そうか! 劉備さんに未来を教えた少女とは、孔明だったのか! ミズキは目を見開いていた。


「なんなの、あなたは。その話を劉備から聞いておきながら、私だと気づけなかったの? やっぱり底抜けの馬鹿ね。いい? 『運命』は劉備玄徳を徐州から追い落とし、荊州へと敗走させることになる。そして、その時、私もまた戦乱を避けて学問の都・荊州に隠遁している。二人は荊州で巡り会い、私は三度も隆中を訪ねてきた劉備に仕えて『天下三分』を説くことになる。でも、それでは遅い。なにもかも手遅れなのよ。革命の申し子・曹操が袁紹を倒して中原の覇者となってからでは、漢王室の復興などは夢のまた夢となってしまうのよ。だから……私は徐州で出会った劉備に、定められた道とは違う運命を選択させてあげよう、と思ってしまったの。関羽と張飛が破滅する未来を、秘密の奥義を用いてそっと教えたのよ。彼が、本来の運命とは異なる道を選べるように。でも、まさか、その結果、彼が自分の命を削ってまで……あなたごときを召喚するだなんて。劉備は己の生涯を賭けて、『外れの英雄』を呼んでしまったのね」


「……そうだ。そういう、人だ。『正史』では、天下統一を成し遂げられなかった劉備さんは死ぬ間際に、孔明、きみに『自分の子が不出来ならば、孔明、きみ自身が蜀漢の皇帝になれ』と遺言を託して逝くような人だ。きみは劉備さんに運命を予言して、彼の運命を変えようとしたんだろうが、劉備さんにとっては、自分の命なんかよりも、妹たちのほうがずっと大切だったんだ。情の人であり、義侠の人だ。だから『三国志』に詳しい未来人の俺を召喚して、関羽と張飛を託していったんだ。俺はあの人から、二人の運命を変えて欲しい、と頼まれた」


「……なんてことを……果てしなく愚かだわ……そして、はた迷惑だわ……ならば結局、私が劉備玄徳を殺したも同然だわ。私が未来を予言しなければ、少なくとも彼は白帝城までは生きられたというのに……」


「……孔明」


「まだ水鏡のもとにいた頃だったわ。ある夜、私は天文を見ていた。大きな星が墜ちるのを見た。まもなく、劉備玄徳が汝南で死んだらしいと知った時、私は、異能を用いて人の運命を変えようとしたことを後悔したの……運命は、予言などでは変えられない。それどころか、かえって彼の命を縮めてしまった。だから私は、生涯にわたってこの隆中に隠遁すると決めたのよ。人の世では、私のような異形の存在など、星眼の異能など、害悪でしかないのよ。これからは決して予言などするまい、策など用いるまい、劉備玄徳の喪に服するのだと……そう、決めたの」


 それで水鏡先生のもとを去って仕官もせず隆中に引きこもったのか、とミズキは察した。


「いや。孔明、劉備さんの死はきみのせいじゃない。それに、関羽と張飛の死を目の当たりにした劉備さんが悔恨の念につかれ、無謀な外征に失敗し、蜀漢を事実上滅ぼしてしまうという悲劇的な結末よりも、まだずっと救いがある。だって、関羽も張飛も、生きているじゃないか! 希望は、受け継がれたんだ!」


「ふうん? 希望が? あなたのような戦の素人に? 異世界から来た倭人の少年に? そもそも漢王室を復興して、あなたになんの得があるのかしら? 『未来』から来たのならば、漢王室がまもなく滅びることくらい知っているでしょう?」


「損得の問題じゃない。俺は劉備さんから二人の運命を託されたんだ! もちろん俺には力なんてない。だが、諸葛亮孔明がいる。そして、隆中でこうして会えた」


 要の荊州を失い、益州に閉じ込められた孔明が絶望的な北伐を開始する際に劉備の遺児・劉禅(阿斗)に捧げた「出師の表」には、なお、続きがある。

 劉備の死を悼み言葉を失ってしまったかのように羽毛扇で顔を隠している孔明に代わって、ミズキが「出師の表」の続きを朗読しはじめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る