三顧の礼-8

 隆中から新野へと帰還したミズキたちを待っていた者は、「曹操軍襲来」を知って怯えきっている民たちの懇願だった。彼らの多くは、董卓や呂布、曹操たち諸侯の争いに田畑や家を失い、中原から平和な荊州へと疎開してきた人々である。


「もしも徐州のようなことになれば、われわれは」


「劉備さまをお迎えして栄えはじめたこの新野を、第二の故郷として永住するつもりになりましたのに」


「襄陽の劉表さまは、荊州を学術都市として発展させてくださいましたが、曹操と戦う勇気をお持ちでないお方」


「劉備さま。関羽さま。張飛さま」


「どうか、荊州をお守りください」


 すでに宛城の曹操軍が続々と増強されていて、新野を落とすべく出兵準備にかかっていることを、新野の町の誰もが知っていた。曹操軍の武官軍団を束ねるリーダーとも言うべき、隻眼の姫将軍・夏侯惇が宛城へ向かっていることまで噂となっている。曹操はもともと、夏侯家の出身である。重要な戦には従姉妹の夏侯惇と夏侯淵を用いる。つまり、ただの様子見や脅しではなく、曹操は本気で新野を攻めるつもりなのだ。


 このような情報がたちまち伝わるほどに、宛と新野、お互いの町の距離は近い。

 ミズキに多額の出資をしている商人たちも、


「まさか袁紹を滅ぼすよりも先に、荊州に矛先を向けてくるとは予想外でした!」


「今、関羽飯店が潰れてしまっては、借金がぜんぶ不良債権に……!」


「このままではわれらは貸し倒れになってしまいます!」


「えーい。毒を食らわば皿まで!」


「どこまでも劉備どのに投資しまっせ!」


「軍資金、お貸しします!」


 と、多額の銭に武具、軍馬などをミズキのもとに続々と運んでくる。

 曹操軍は電光石火の進軍速度で知られている。宛から新野へと攻め込んでくるまで、おそらく一週間だろう、と徐庶は予測してる。

 ミズキは「ありがとう。こんどこそ曹操の進撃を防いでみせる。『正史』とは異なる歴史を紡いでみせる。すでに新たな軍師・徐庶の兄貴に力を貸してもらうことになり、さらに今、世から隠れている天下の大軍師に仕官してもらおうと動いているところだ。その人が来てくれれば、曹操と互角に戦える。三日後には必ず新野へとその人を連れてくる」と新野の人々の前で宣言し、劉備一家の主立った面々を集めてただちに軍議に入った。みな、ミズキが影武者だと知らされている古参の「一家」である。


 徐庶は「すげぇ蓄財力だな、小僧! 元祖初代本家の劉備玄徳も商人から銭を調達する『大徳』の侠者だったが、商売っ気がないので敗戦で擦ってばかりだった。が、お前は商売人気質らしい。気に入ったーっ! 俺さまは、てめえに着いていくぜ! そうすりゃあ、がんがん銭が舞い込んでくる!」と見たこともないような銭が新野城の蔵に運び込まれてくるさまを見ながら舌なめずりして大喜び。


「やる気を出してくれるのは嬉しいけれど、銭をちょろまかさないでくれよ?」


「いいか小僧。曹操は果断な姫将軍。袁紹のような優柔不断さはなく、二正面作戦は採らない主義だ。常に各個撃破を目論んでくる。その流儀を曲げて二正面作戦を開始したってことは、お前をここで倒すと固く決意しているに違いないぜ。俺さまたちに残された時間は、おそらく一週間。三日後に孔明を新野に連れてこられなきゃあ、情勢は絶望的になるぜ!」


 徐庶がなおも「孔明が必要だぜ」と繰り返すので、張飛は「またか」と呆れ顔に。


「どうしてそこまで孔明にこだわるんだよ。仕事もせずに家に引きこもってる困った娘じゃないか」


「孔明自身の軍師としての知謀も必要だが、孔明は徐州瑯邪の名士出身でな。荊州では水鏡先生を通じて劉表や蔡瑁、さらには英俊揃いの馬一族とも面識がある。荊州の名士たちを動かすならば、まずは孔明を抑えなきゃならねえ。水鏡先生はほんとうの世捨て人だから絶対に出仕してくれないが、孔明ならば可能性がある……龐統が見つかれば、先に龐統を出仕させれば済む話なんだがよ。龐統は生まれながらの荊州名士の一族だからな。要は、汝南から流れてきたよそ者の劉備一家だけじゃあ荊州は動かせないってことよ」


「水鏡先生のツテがそれほど荊州で重要というのなら、徐庶、あんただって水鏡先生の弟子なんだろ?」


「自慢じゃないが俺さまは人を殺して荊州に逃げ込んできたお尋ね者の侠客だぜ。少々学問を修めたからって、荊州の名士たちがまともに付き合ってくれるわけがねえ。それこそ水鏡先生の塾で俺の相手をしてくれた同級生は、不思議ちゃん入ってる孔明と龐統くらいでよ。うへへへ」


 自慢するようなことか! と張飛はまた呆れたが、関羽はおおむね理解した。

 曹操の人材がこれほどに充実しているのも、元はと言えば荀彧が仕官したことがはじまりだった。名門出身で「王佐の才の持ち主」と評価が高かった荀彧は、中原名士としての豊富な人脈を持っていた。だから、程昱や郭嘉、荀攸といった実力も名声もある名士たちを次々と曹操に推挙できたのだ。夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪と古参の家臣は武官ばかりだった曹操陣営は、荀彧を手に入れたことで一気に有能な軍師たちを抱えて文武ともに突出することができた。

 曹操にとっての荀彧が、ミズキにとっての孔明なのだ。


「襄陽の劉表どのや蔡瑁たちは、唐辛子の件でミズキをいまだに疑っています。このこじれた関係を至急修復するためにも、荊州名士に顔がきく孔明が必要というわけですね。了解しました。どのようなことでも協力致しましょう、徐庶どの」


「関羽ちゃんは話が早い。それじゃ、さっそく作戦を開始するぜ。孔明を出盧させるための必勝の策を発動する! それは――『三日で童貞のミズキを恋愛の達人に育成する』計画だーっ! 仮想孔明を相手に逢瀬を重ねて、ミズキに『女慣れ・恋愛慣れ』してもらう! むろん、孔明になりきれる娘はいないから、何人かで役割分担してもらうぜ! 修行は三つの部門に分ける! 知識人の恋愛に欠かせない『書物・詩』の修行! 会話をはずませ親密感を高める基本中の基本・『会食』の修行! そして最後の一押しとなる『求婚』の修行だ! 三日しかないんだから、荒療治だっ!」


 な、な、な。結局、ミズキを女衒にする修行ではないですか! と関羽は思わず青龍偃月刀を手に取りかけたが、「どのようなことでも協力致しましょう」と言ったばかりだと気づいて、我慢した。


「徐庶の兄貴。いくら孔明が女の子で、俺が男だからって、いったん恋愛から離れたほうがいいんじゃないか? そこに固執すると失敗する気がする……純粋に仕官を乞うたほうが孔明には響くんじゃあ……」


「そりゃ正攻法のほうが長い目で見ればイケるかもしれねえが、なにしろ圧倒的に時間が足りねえんだよ! 俺さまを信じろ! さあさあ、劉備一家の姫武官に姫文官の皆さん! 我こそはミズキの修行相手に! と名乗り出る忠義の者はいねえか!」


 まずは、真っ昼間からひょうたんを担いで酒を飲んでいた簡雍が、


「『会食』ならあたしに任せな。女との会話の妙を、ミズキに教えてやんよ。なに、ミズキはウブな坊ちゃんだけれども見てくれは玄徳に瓜二つなんだから、凄まじい女たらしの素質が眠っているに違いねえ。あたしにはわかるのさ、ヒック」

 と名乗り出たが、徐庶は「い、色っぽい姉ちゃんだな。俺さまの好みだ……」とときめきながらも、


「オイオイオイオイ。孔明は酒を飲まない。昼間から酔っ払ったりするかっ! 不合格!」


 心を鬼にしてダメ出しした。このあたりの公私混同しなさぶりはさすが軍師、とミズキはちょっと徐庶を見直したが、


「簡雍ちゃん。この軍議が終わったら俺さまと会食しねえ? なあいいだろー」


 と簡雍を口説きはじめたので、ダメだこりゃ、女の子へのだらしなさは的盧とどっこいどっこいだ、と暗鬱たる気分に。


「ミズキちゃんを男にするなら、私と甘ちゃんが適任者だねっ! 人妻の経験値と魅力を注ぎ込んで、三日三晩かけてミズキちゃんを玄徳ちゃんのような立派な女たらしに育ててみせるよ! 任せて!」


「……ほんとうは玄徳さまの喪に服していなければならないのですが、劉備一家が滅びるか否かの瀬戸際ですから、仕方ありませんわね。なにも怖がることはないのでしすよ、ミズキさま。すべて、私たちが手取り足取り教えて差し上げます」


 元気はつらつな麋竺と貞淑な甘夫人が「ミズキを男にする係」になると名乗り出てきた。

 関羽が「ダメですよ!」と思わずお茶を吹き、張飛が「そ、そ、そんな修行までするのかよっ?」と頬を染めた。ミズキも(えええええええええ)と思わず鼻血を吹きだしそうになったが、徐庶は「いやいやいや、新婚初夜の修行はやらなくていい! 小僧に女の色を覚えさせたら、しばらく女に溺れる! 孔明だって、偏屈だが男経験がないウブな娘だから、どうなっちまうかわかったもんじゃねえ! 孔明の心さえ掴めればいいんだ! まもなく曹操との戦がはじまるんだ、今はそれどころじゃねえ!」と麋竺と甘夫人の申し出を却下した。


「……ただ、俺さまだって鬼じゃねえ。旦那を失って身体が夜泣きして火照っているっていうのならよ、この徐庶さまに抱かれてみないか? ご婦人方。うへ、うへへへへ」


「なに言ってるのよ? こいつ縛っちゃおう、甘ちゃん」


「そうですねえ。この殿方には、おいたをしないように教育が必要ですわね」


「あっちょっと待って! ご婦人方、俺さまを縛らないでーっ! いやああああ、なんだか新しい道が開けるような気がするのーっ! ミズキ、見ていないで止めろーっ! あっ、やっぱり、止めなくていい! だんだんこの拘束感が快感に……!」


 ダメだこの人、人妻に縛られて興奮している。ほんとうにこの徐庶を引き留めたことで「正史」は変わるのだろうか。だんだん疑問になってきたミズキであった。


「ぼぼぼ僕が仮想孔明役を務めますよ! 僕は殿方と交際した経験がありませんから、孔明さんにいちばん近いはずですぅ! お、お願いしますミズキくん。優しくしてください……ぽっ」


「って、孫乾は男の子だろっ! 襄陽の劉表さんのところへ使者として早く向かってくれ! このままじゃ襄陽からも攻められて挟み撃ちにされる!」


「そ、そのお役目は怖いです~! ミズキくんといちゃいちゃしているほうが……いいなあ……」


「い、いいから行って、行って! 俺まで新しい道に目覚めてしまう! きつい役目だけど、全面土下座外交の大任を委ねられるのは孫乾だけなんだ! 頼むよ!」


「あああん。残念ですぅ。それではこの孫乾、襄陽にお使いに行って参ります~!」


 なんだよ。こいつこんなかわいい顔して男なのかよ。紛らわしいな……気が弱そうでいちばん口説きやすそうな子だな、と目をつけていたのに……失望させてくれるぜ……と徐庶が後ろ手に縛られたまま舌打ちした。

 そこに徐庶のおかん・徐夫人までもが、


「かーっ! 小娘どもはすっこんどれい! 男経験においては、あたしの右に出るものはいないよ。このあたしがミズキきゅんの初物を奪ってやろうとするか。ふぉっふぉっふぉっ」


 と割り込んできたので、徐庶は縄を引きちぎって「おかんはもう、あがってるだろうがーっ! やめてくれ! ミズキの小僧に年老いたおかんを寝取られるなんて、想像しただけで憤死しそうだ!」と徐夫人を抱きかかえ、蔵へと閉じ込めねばならなかった。


「……で、結局誰が仮想孔明を務めるのです、徐庶どの? 『書物・詩』の修行。『会食』の修行。『求婚』の修行。ぜんぶで三人必要だと仰いましたが、まだ一人も決まっていません」


 時間がないというのに、いっこうに話が進まない。さすがは自由闊達な劉備一家です……今までもこんな感じで気がついたら曹操にやられてきました……まるで成長していない……関羽がため息をつく。


「そうだな。孔明とはぜんぜん似ていねえが、男を知らない乙女が三人、残ったな……『書物・詩』の修行は三人のうちでいちばん学がある関羽。『会食』の修行はろくに文字が読めなさそうで芝居もできなさそうな張飛に。そして『求婚』の修行はお芝居が上手そうな趙雲。求婚場面の練習には、高い演技力が必要だからな。三人で義勇兵の徴募と訓練を分担しつつ、一日交替でミズキの修行に参加してもらう。これでいいだろう!」


「わ、私は武人です。詩なんて詠めませんよ? ですが、張飛にはたしかに、この役目は無理そうですね」


「失礼だな。完全に消去法じゃないか! あ、あたしだって、求婚場面の芝居くらい、で、できるよ! ……う、う、うああああ……! ダメだ、想像しただけで恥ずかしくて暴れたくなってきた!」


「新婚初夜の練習までやってもいいんだよ、くす。私はたぶん、色を覚えても溺れたりしない性格だからね」


「こらっ趙雲! お前、どさくさ紛れにしれっとミズキを奪っていくつもりだな!? お前は昔からそういうちゃっかり屋なところがあった! 兄者からミズキの許婚に任命された女の子は、あたしと関羽だからな!」


「張飛。ただのお芝居ではミズキの恋愛力は育ちません。私は彼の許婚ですし、『本気』でいきますよ。この修行の途中で私とミズキとの間にほんものの恋の炎が燃え上がっても、恨みっこなしですよ」


「ああ。こっちだって同じだ!」


「あ、あのさ。関羽、張飛? 許婚の奪い合いみたいな話になっているんだけど、それは遺言の拡大解釈だと思うぜ……? たしかに俺は劉備さんから二人と結婚しても『いい』とは言われたけど、結婚『しろ』とは言われていないはずだ。た、たぶん」


「ひとたび兄上の遺言を受けておきながら、今更なにを言うのですミズキ!」


「み、み、ミズキとあたしが恋に墜ちるなんて想像もつかないけれど。孔明なんてポッと出の娘に取られるくらいなら、この三日間で決着をつけてやる! あたしを選ぶか関羽を選ぶか、ふたつにひとつだ!」


「だんだん関羽と張飛との許婚話が既成事実化してきている気がする。二人とも、やたら張り合いたがるんだから。あくまでもこの二人を『義妹』として遇した劉備さんは、やはり慧眼だったんだな……」


「ふふ。徐庶どのはすっとぼけているけれど、優秀な軍師だね。この二人に『求婚』修行を担当させたら、たいへんなことになりそうだよ」


 そういうことに、なった。

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