三顧の礼-7

 隆中は実に草深く、のどかな田舎村だが、その風光明媚ぶりはミズキにとってはあまりにも「異界」感に溢れている桃源郷だった。天上には巨石が立ち並び、足下には清流が流れ、そして長い竹が孔明の屋敷を覆い隠している。あたかも、山水画に描かれたかのような――。


「ここはまるで神仙の世界だ。徐庶の兄貴。孔明は道教の術士なのか? ただの軍師候補生の庵じゃないぞ、これは」


 劉邦の覇業を補佐した漢の軍師・張良は、漢に天下を統一させたあと、仙人になると言いだして政治の世界から引退してしまったという。張良は乱世を平定する天下統一事業には惹かれたが、ひとたび乱世が終わって治世の時代となってからは、現世に興味を失ったらしい。


「孔明は怪しげな道士でもあり、厳格な法家主義者でもあり、妙ちくりんな工作に凝っている発明家でもある。その上、万人に一人という『星眼』の持ち主で、天文をよく読みやがる。人間の運命を予言するんだ。多才多芸の風変わりな奴なんだよ。その上、皮肉な毒舌家で性格は尊大ときた。まあ、俺さまくらいの風狂でなきゃあ、孔明には怖くて近寄れねえ」


「そうか。『星眼』ってなんのことかよくわからないけれど、孔明は星から人間の運命を読めるのか――まさしく、天下の奇才だな」


「あの『星眼』を見たら、ぶったまげるぜ。たいていの男はそれで調子を狂わされちまい、そのまま孔明の弁舌に巻き込まれて流されちまう」


 妖怪が棲み着いていそうなところですねミズキと関羽がいぶかしみ、張飛は「怪しいよ! 孔明って九尾の狐かなにかじゃないのか?」と怯えている。


 ミズキが「ともかく一刻を争う事態なんだ。行くぞ」と門を叩くと、音もなく扉が開き、そしてミズキの腰くらいまでしか背丈がない奇妙な従者たちが「人間さん。孔明のお屋敷へようこそ」と笑顔でミズキたちを出迎えてくれた――が、この従者たち、明らかに人間ではない。目もふたつ、鼻もひとつ、口もひとつだが、なにやら饅頭が生き物になったかのような……肌はもちもちだし、顔の半分くらいが大きな目に占められているし、妙にカン高い声の響きも人間の童子の声とは違って、風変わりだった。


 どうやら、精霊のようなものらしい。

 関羽が「か、かわいいですね」と思わず精霊を一匹抱き寄せ、頭を撫ではじめた。


「小僧。こいつらは孔明が使役している森の精霊『彭侯』だ。あいつ、友達少ないから、こういう連中を遊び相手にしているんだ。しかも、だ。人間の従者を雇うと給金が発生するが、こいつらは人間に頭を撫でてもらって木の実でももらえればそれで大喜びして家事を手伝ってくれる。つまり、銭をケチっている――孔明め。どうやら一生引きこもるつもりだぜ、これは」


「精霊って……人間に悪意を持たない妖怪のようなものか?」


「ま、大自然の『気』から生まれいずる半生物ってところだ。正体は木々や花や草が持つ『気』そのものだよ。森の木々のうちには、長年生きているうちに、意識を持つに至るものがいる。そいつが彭侯さ。その本質は植物だからよ、人間の世界には関わってこない連中だ」


「それって、本来は人間の目に見えるようなものじゃないだろう? どうやって実体化したんだ?」


「孔明がそういう術を用いているんだろうさ。こいつらは戦闘力皆無だし、人間に対して悪意もない。人畜無害だから気にするな」


「……本来ならば人の目には見えない森の精霊を、式神のように使役しているということか……そういえば、式神を使役する日本の陰陽道も、もともとは孔明の奇門遁甲術が元祖だったという。諸葛亮孔明は、ほんとうに神仙なんじゃないのか。人間業じゃない、というかもはや人の世界じゃないぞ、ここは」


「まあ、そういう得体の知れない娘だよ。ったく、こんなところに引きこもっていたらあっという間に人生終わっちまうぜ……おい従者たち。孔明はいるか? 新野の劉備玄徳を連れてきた。火急の用件なんだ、会わせろ。昼寝していたら起こしてこい」


 徐庶がせっついたが、彭侯たちは「くすくすくす」と笑うばかりだった。


「こらっ! 食べ物みたいにぷにぷにしやがって。早くしないと、饅頭の具にするぞ!」


 張飛が脅しても、脳天気な彭侯たちは、


「孔明は」


「留守なのです」


「あいにく、釣りに出かけてしまったのです」


 と笑うばかり。

 孔明は身体が弱いし、龐統のような旅行好きではなかったはずだが……と徐庶がうなっていると。

 孔明の幼い妹・諸葛均が、ぞろぞろと着いてくる彭侯軍団に「阿組は厨房! 呍組はお風呂場! さあさあ頑張ってお掃除お掃除!」と命じながら、駆け寄ってきた。まだ七歳くらいの幼女だが、けっこうしっかりしている。この子もどこか妖精めいているが、こちらはれっきとした人間の女の子だ、とミズキは諸葛均の頭を撫でようとした。


「やめてください誘拐魔ですか? 触らないでください変態!」


「しまった、毒舌幼女か! 俺は変態じゃない!」


「お姉ちゃんが、幼女の頭を撫でようとする男はみな変態だって言ってましたよ!? あーっ。おかん好きの徐庶さん! お久しぶり!」


「均ちゃん。おかん好きは秘密だって言ってるだろう! 相変わらずものの見方が歪んでいるお姉さんに会わせてくれねえか?」


 諸葛均は箒を振りながら、


「お姉ちゃんは今朝になって、急に釣りに出かけちゃった。珍しいこともあるもんだよね。あ、でも、お姉ちゃんは長旅が苦手だから、外泊は三日が限界なの。この屋敷からあまり長時間離れていると、耐えられないんだって。だから三日後に戻ってくる、って言っていたよ」


 とにこやかに答えた――彭侯たちが教えてくれた事情とだいたい同じである。


「ほんとに留守なのかな? 孔明って奴は家から出てこないんじゃなかったのか。どうして今日に限って不在なんだよ。妙だぞ。屋敷に火をつけてみればわかるんじゃないか?」


「ちょ、張飛。こんな幼子を困らせるようなことを言ってはなりません。って、どうして彭侯さんを縄で縛っているのですか?」


「ああ。やっぱりこいつら、饅頭の具にぴったりな気がして。きっと美味だよ。関羽飯店で売り出してみようかなって……」


「いけません! その子は猪や豚じゃないんですよ。孔明どのの従者ですよっ!?」


「ふふ。この子たちは食べられないよ、張飛。たぶん、解体なんてしたら煙のように消えて元の『木』や『草』に還っちゃうからね。孔明がこの子たちに、どうぶつとしての姿形を与えているんだよ」


 どうぶつじゃない! 森の精霊! と怒った彭侯たちが趙雲に襲いかかったが、縫いぐるみのような柔らかい手足の持ち主で、小さな歯もへにゃへにゃだ。攻撃力はなかった。くすぐったい、と趙雲は困ったように微笑んでいる。


「留守なのは確からしいな。いずれにしても、いきなり訪問して会ってくれるような相手じゃなかった。孔明はもしかしたら俺たちが隆中へ来ることを察知して、身を隠したのかもしれねえな……自分を出盧させたいのなら、しかるべき修行くらいしてこい、と言いたいのかもな。まったく、気むずかしい奴だ」


 徐庶が、ぼさぼさの頭をかきながらミズキに筆を渡していた。


「三日後に出直すとしよう、小僧。置き手紙代わりに、なにか詩を書いていけ。やっぱりよう、あの天下の奇才にして偏屈娘の孔明とサシで語らおうっていうのなら、詩くらい詠めないと相手にされねえぜ。読んだ乙女が思わずときめく素敵な詩心を見せれば、孔明の気を引けるかもしれねえ。まあつまり、恋文だな」


「詩? 『源氏物語』の恋愛みたいだなあ。風流人・知識人の男女の恋は、詩からはじまるってわけか……でも、俺は詩なんてぜんぜん知らないぜ!?」


 徐庶どの! まだミズキに、孔明を口説かせて恋愛関係に持ち込もうとしているのですか! やめてくださいっ義兄妹の絆を破壊しないでください! と関羽が再び怒りだしたが、趙雲に「まあまあ。詩は名士のたしなみだよ。自己紹介の挨拶みたいなものだから」と取りなされて、かろうじて引き下がった。

 ミズキは悩んだ。参ったな、俺が暗唱できる詩といえば高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」くらいしか……。


(なにが面白くて駝鳥を飼うのだ。動物園の四坪半のぬかるみの中では、脚が大股すぎるじゃないか。頸があんまり長すぎるじゃないか。雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるじゃないか。腹がへるから堅パンも食うだろうが、駝鳥の眼は遠くばかりみているじゃないか。身も世もない様に燃えているじゃないか。瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまえているじゃないか。あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいているじゃないか。これはもう駝鳥じゃないじゃないか。人間よ、もう止せ、こんな事は)


 ダメだダメだ。ぜんぜん恋愛の詩じゃない。動物園に閉じ込められている駝鳥のかわいそうさを嘆く詩じゃないか。書いているうちに鬱になりそうだ。それに、この孔明の屋敷にたむろしている小さな森の彭侯軍団は、動物園の駝鳥と違ってみんな楽しそうだし……。こいつら、ちびっこいから、広々とした屋敷を快適そうに駆けているし、脚は短いし、三頭身で首は短いし、餌の木の実を美味しそうにかじっているし、でっかい目はきらきらと星のように輝いていて、ぶっちゃけなんにも悩んでいなさそうだ。


 人間の友が訪れなくても、人間の世に出て軍師として生きなくても、彭侯たちと一緒に隆中の森に引きこもって隠者として生涯を終えるほうが、超絶の智者・孔明にとっては幸せなのかもしれない。地に落ちて泥にまみれる人間としてではなく、汚れを知らない神仙としてその生を全うするほうが……。

 ミズキは、隆中から出て劉備に仕えたのち、孔明がどれほど苦難の生涯を歩んだかを知っている。「正史」の通りに孔明を人間の世界に引きずり込んでいいものかどうか、逡巡した。


 だが、ミズキはもうミズキでありながら同時に劉備玄徳でもある。

 漢王室を復興するという劉備の夢。そして、劉備から託された関羽と張飛の運命。

 やはり、諸葛亮孔明という「人間」が、今のミズキには必要なのだ。


「そ、そうだ。詩じゃないけれど、孔明絡みで知っている文章がある。でも、これを孔明に読ませてしまっていいものかどうか」


「なんだと。孔明絡みの文章だと? そりゃいい。お前の孔明に対する本気さを訴えられる! さっさと書け!」


 しかたがないな、とミズキは筆を握り、白い壁に「置き手紙」代わりの文章をすらすらと書いていった。不思議だ。日本語訳文しか覚えていないはずなのに、俺の手は今、原文の「漢文」を書いている。ミズキが付与されたバイリンガル能力は会話・聞き取り能力だけでなく、読み書き能力までカバーしてくれているらしい。

 時折涙ぐみ、詰まりながら、ミズキはその文章を壁に書き続けた。すべて、覚えている。何度も何度も、繰り返して読んできた。読むたびに、涙が止まらなくなった。

 関羽にも張飛にも、それどころか徐庶にも、ミズキが書き付けている「文章」の中身がさっぱりわからなかった。


「ミズキ? これはいったい、なんの詩なのですか? 初めて目にしました。まるで理解できません」


「詩なのか? 詩じゃないだろ、これ」


「おいおいおいおいおい。小僧。なんだあ、これは? ぜんぜん恋文になってねーぞ! こんなクッソ堅苦しい文章で、どうやって孔明の心を動かすつもりなんだ?」


 趙雲が「誰か音読してよー」と困っているが、張飛は「ごめん、難しくて読めない……」と打ちひしがれ、関羽は「うーん。趙雲をもってしても解読は無理でしょう……それに、読みあげるにはあまりにも長いです……ただ……どこかもの悲しげな……悲壮な……それでいて、とても優しい、文章ですね」と首を傾げている。

 ミズキの筆が終わりに近づくとともに、徐庶は、はっと目を見開いて膝を打っていた。


「おいおいおいおい。小僧。これは、もしかして。お前~? いいのか? 俺さまの予想が当たっているとすれば、お前は、思いっきり未来を……」


「……書き上がった。孔明に対して申し訳ない気もするが、他に孔明の心を動かす道を思いつかなかった。俺が未来人だということも、俺がずっと三国志の世界に憧れてきたということも、劉備さんの遺志を継いだということも、この文章を読んでもらえればきっと孔明に伝わる」


 かくして、ミズキは隆中をいったん後にして、新野へと戻ることとなった。

 商人たちからさらなる軍資金を募り、義勇兵をかき集め、調練し、曹操軍の襲来に備えねばならないのだ。

 はたして再び隆中に来ることができるかどうかも、わからなかった。

 が、ミズキには確信があった。「運命」というものがほんとうにあるのならば、劉備玄徳と諸葛亮孔明は必ず、出会う。それが二人の運命なのだから、と。


「諸葛均ちゃん。三日後に劉備玄徳がまた来ると、お姉さんによろしく伝えてくれ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る