三顧の礼-6

 張飛が「逃がすか!」と曹操を追撃しようとしたが、関羽が押しとどめていた。


「ここで曹操を討つことは容易い。ですが曹操とは、堂々の合戦で決着をつけねばなりません。それが劉備玄徳の生き方であり、その生き方を踏み外せば亡き兄上の生涯の意味がなくなってしまう。そうですね、ミズキ?」


「ああ。だが、俺が未来から来た影武者だと曹操に知られてしまった。歴史は、俺が知っている道から外れた。曹操は袁紹を滅ぼす戦いを終わらせる前に、荊州へも兵を出してくる!」


 ついに、曹操の姿は森の彼方へと消えた。

 たいへんなことだよこれは、と趙雲が嘆息した。


「みんな、すまない! ほんとうは曹操と袁紹の戦いの決着がつくまで、しばらくの時間があるはずだった。その間に新野で商売に励み、軍資金を稼いで軍を編成。宛を攻め取り、許の都を窺う――その予定だったが、今日、期せずして曹操と再会し、正体を知られてしまった! 徐庶の兄貴を仕官させようとする動きじたいが早すぎる。すでに曹操は、俺が今までの劉備さんとなにか違う、怪しい、と疑って警戒していたようなんだ。だから、河北へ向かったと偽情報を流して、ひそかに人材刈りのために荊州に……曹操は、ただ俺が未来人だからって簡単に裏をかけるような相手じゃない。とてつもなく頭が切れる。俺がいくら歴史を知っていても、あの曹操から先手をたやすく取れるとは思えない」


 ミズキは、けんめいに関羽たちに詫びた。張飛はぶるぶると青ざめている。


「な、な、なんだってえ? あたしはミズキが蔡瑁に襲われたと聞いたから、これから襄陽に攻め込んで蔡瑁の首を盗るつもりだったのに、『影武者劉備玄徳』のからくりが曹操にバレちゃったのか!?  北も南も敵じゃないか。こんな時にはどうすればいいんだ、関羽姉貴!?」


「ううむ。とにかく新野で義勇兵を募りましょう。関羽飯店の熱烈な常連客の皆さんは、きっと参戦してくれるはずです。ですが練度の低い義勇兵が主体では、曹操軍の精鋭には質量ともにとても敵いません……私と張飛、そして趙雲の三人が揃い踏みしたことで劉備一家の『武』は曹操軍にひけをらないものになったと自負していますが、兵の練度の差、そして曹操とその軍師軍団が繰り出す知略が問題です」


「うう。あたしも関羽の姉貴も、猪突猛進だからなあ~。趙雲も利口そうな顔して済ましているけれど、実はそうだよな。あたしたちの同類だ」


「ふふふ。そうだね。私は一身これ胆だけど、知略のほうはねえ」


「張飛、趙雲。このまま曹操軍と戦っては今までと同じ結果になります。いえ、後ろ盾になってくれるはずの襄陽と仲違いしているのでもっと厳しい状況です。われら劉備一家には、劉表陣営に顔が利き、かつ兵法に通じた新たな人材が必要です」


 そう。襄陽では蔡瑁に続いて劉表までが猛烈な腹痛(とおそらく厠での肛門灼熱地獄)に襲われている。ミズキは急いで唐辛子騒動の誤解を解かねばならないのだが、その時間はどうやらない。

 劉表への半ば命がけの弁明はひとまず孫乾に委ねるとして、問題はやはり軍師だ。


 曹操陣営の軍師筆頭・荀彧は曹操の影武者として河北へ従軍しているが、程昱が荊州に。他にも、曹操を騙し討ちしてあわや首を取りかけた謀将の賈詡・曹操軍随一の若き天才と賞されている郭嘉・荀彧のいとこの荀攸など、曹操陣営には大量の軍師がいる。曹操が人材コレクターだからだ。その上、曹操自身が「孫子」の注釈書を書いて孫子の兵法をまとめているという稀代の兵法家なのである。

 ミズキは、徐庶の肩を叩いて、関羽たちを励ましていた。


「だ、だいじょうぶだ、関羽、張飛。軍師なら、徐庶の兄貴がいる! かろうじて曹操陣営に引き抜かれるところを防ぐことができた! この人、見た目は完全にやくざだし、しかも性格は守銭奴でマザコンだが、水鏡先生の門下生で文武両道の軍師。頼りになる兄貴分だ! 相場の四割引で軍師役を頼むぜ兄貴!」


 おお。なにやら胡散臭い殿方だと思いきや、水鏡先生のお弟子さまにして軍師どのだったのですか。よろしくお願いします、と関羽がふるふると緊張しながら徐庶に一礼した、が、徐庶はこの時、徐夫人が乗った馬車に乗って逃げ支度をはじめていた。


「この俺に、素人の義勇兵を率いて曹操軍と戦え、だとおお? 冗談じゃねえぜ! 無理無理無理のかたつむりよ! いいか! 軍師ってものは、まずは兵士の練度を高めることから仕事をはじめるんだよおお! いくら軍師が采配をふるって知謀を絞っても、兵士が手足の如く動いてくれねえんじゃお話にならねえ! 素人連中に槍を持たせればいいってもんじゃねえ。時間がなさすぎらあ!」


「いやいやいやちょっと待ってくれ徐庶の兄貴! 恩に着せたくはないが、お母さんを救っただろう? 頼むよ。一戦だけでいいから! とりあえず曹操軍の先鋒隊を新野で防ぎ止めれば、あとは俺たちでなんとかする!」


「甘いんだよ小僧! なんともなるか! 他の相手ならばどうとでも料理してやるが、曹操だけは特別なんだーっ! あいつに勝つことができる軍師なんぞ、大陸広しといえどもそうそういねえ! しかも一人だけじゃダメだ。俺さまに匹敵する軍師が二人はいる! 曹操軍は常に二つの頭脳を動かしているからな! 曹操と軍師という二つの頭脳を! 軍師一人じゃあ、太刀打ちできねえんだよ! あれほど強い呂布の軍師を務めた陳宮が結局曹操に敗れたのも、それが原因だーっ! 大量に人材を集めておきながらまるで使いこなせず内輪もめばかり起こさせている袁紹なんぞ、論外だぜえ!」


 なんですかこの男は。斬りますか? と関羽が青龍偃月刀に手をかけ、張飛はもう蛇矛を徐庶ののど頸に突きつけている。


「斬るな斬るな! 守銭奴でマザコンだけど、それでもこの人が俺たちの運命を変えてくれる鍵を握っているんだ! 徐庶の兄貴! あんたが次に口走ろうとしている言葉を俺が当てたら、この戦につきあってくれるか!?」


「……なんだぁ? 言ってみな!」


「『襄陽の外れ、隆中村に隠棲している諸葛亮孔明のもとを訪れろ。諸葛亮孔明こそは曹操と戦える天下の名軍師だ』――そう言おうとしていたんだろう?」


 当たりだ。ったく、未来人ってのは厄介だぜ。しょうがねえ、俺と孔明とが手を組めばどうにかなるかもしれねえ、と徐庶は頭をかいていた。


「きゃあああ? フケとノミが飛んでいます! ミズキ、なんとかしてください! 私の黒髪にノミなんかが棲み着いたら、ああ、ああああ!」


「俺さまもひとかどの知恵者だが、水鏡先生んところで頭ひとつ抜けている軍師候補生は、臥龍と鳳雛――臥龍とは徐州の瑯邪から荊州へ移住してきた諸葛亮孔明。鳳雛とは龐統士元のことだ。どちらもまだ世に知られていない若い娘っ子だが、曹操がその存在を知ったら俺なんぞほっぽりだしてでもこの二人を真っ先に仕官させるに違いない。それほどの逸材だ――だが、天才ってのは俺さまも含めて変人が多い。孔明は引きこもり癖の持ち主で、どういうわけか隆中に閉じこもって隠者になっている。龐統は放浪癖の持ち主で、どこに行ったのかさっぱりわからねえ。たぶん荊州にはいねえ。龐統は探しようがないが、孔明は隆中の自宅にいる。こいつだけは間違いない。今すぐに雇えるとしたら、孔明のほうだ」


 孔明が正軍師を、俺さまが副軍師を務めれば、この八方塞がりの状況を打開できる可能性が少しは生まれる、と徐庶は大見得を切った。


「臥龍。諸葛亮孔明。ついに登場したな。しかし、女の子なのか。なぜ隆中に引きこもっているんだろう?」


「俺さまが知るかよ。部屋にこもって本ばかり読んでいるらしいぜ。いいか小僧。孔明ってのは、一言一句あまさず本を読んで暗唱する俺みてえな並の知識人とは違う。いい加減な読み方をするんだ。ぱらぱらっと適当に目を通して、役に立ちそうなところだけを読んで、あとは捨てるんだ。書物はしょせん書物。ほんとうに役立つ情報など一割にも満たない。しかしその一割に満たない貴重な情報を見つけ出すことこそが読書、全文を暗唱するなど無駄の極み、ってな。その上、勝手に『あなたはどこそこの太守くらいにはなれるでしょう。あなたはどこそこでこの程度の出世はできるでしょうね。私? そうね、私はいずれいにしえの管仲や楽毅のような偉大な宰相になる予定よ。そういう運命なのよ。ふふっ』などと豪語する。そんなんだから、龐統と俺さまくらいしか友達がいねえ。ヘンな娘だぜ、ありゃ」


 その諸葛亮孔明なる娘はどうも偏屈すぎて居場所がなくなって蟄居しているようですが、ほんとうに必要な人材なのですかミズキ? と関羽が心配顔になったが、ミズキは「自分を春秋戦国時代の名宰相・管仲や楽毅になぞらえて友達を無くす中二病ぶり……正史や演義で見てきた孔明と同じだ! ほんものの孔明だ!」と、むしろ感動と興奮に打ち震えていた。

 ついに、諸葛亮孔明のもとを訪れる時が来たのだ。


「関羽。張飛。趙雲。新野へ戻っている時間が惜しい。今すぐ隆中へ行くぞ! 徐庶の兄貴は道案内役を頼む!」


「こ、こちらから行くのですか? 新野へ出仕させれば済むと思いますが……曹操軍がもうすぐ攻めてくるのですよ。いつまでも新野を留守にし続けているわけにはいきません」


「そうだよミズキ。それに、襄陽に近い隆中に今ミズキが向かうのは危ないぞ。せっかく振り切ってきたところなのに、蔡瑁がまた刺客を放ってきたらどうするのさ」


「襄陽には孫乾を送って弁明してもらう。だが、たしかに誰かが新野で留守番をしなければまずいな……関羽飯店の出し物もあるし」


「また商売の話ですかっ! 私たちを芸姫だと思い込んでいませんか、ミズキ!」


「関羽のチャイナドレス姿が目に浮かんで仕方ないんだよ~」


「ほんっとに、嫌らしいんですから! んもう。こういうところさえなければ……あ、いえ。なんでもありません」


「なんだよ。あたしのチャイナドレス姿は目に浮かばないのかよ。不公平だぞ」


「ふふ。襄陽でやらかした私が新野で留守番を務めるよ。関羽と張飛はミズキくんの護衛役をお願い。二人が侍っていれば、安全だよ」


 即断即決。趙雲が、徐夫人の乗った馬車を守りながら新野への帰途に着いた。

 しかし、隆中への道案内役に就いた徐庶のこの言葉が、関羽と張飛を激怒させることになった――。


「孔明はほんとうに偏屈で気位の高いご令嬢なんだぜ。小僧がいくら理屈を説いたって孔明は動かないだろう。最低でも三度は通わなくちゃならねえ。そして小僧には、そんな時間はもうない。だが、あの神仙とも見まがう孔明にも弱点がある――ここだけの話、あいつ、美人なのにあんな面倒な性格だから男とつきあったことがねえんだ! 処女なんだ! 俺さまが教えたことは内緒だ! ミズキ! 孔明を口説いて惚れさせちまえ! 嫁にしろ!」


 口説いて惚れさせろって、徐庶の兄貴。俺だって女の子とつきあったこともなければ口説いたこともないんだ、無茶言うなよ! とミズキは青ざめ、関羽は逆に真っ赤になっていた。


「な、な、なんとふしだらな! それではほんものの女衒ではありませんか! ミズキ、絶対に許しませんよ!」


「あたしも反対っ! 亡き玄徳兄貴は、ミズキに関羽とあたしを託したんだぞ! もしもその気になったら、関羽かあたしか、どちらかを嫁にしろ、いっそ二人とも嫁にしてもいい、と! そしてミズキは稀代の料理人! 嫁になるなら、あたしだ! 夫婦仲良く豚まんを蒸してささやかな日々を――」


「待ちなさい張飛。いつ誰がそんなことを決めたのですか。ミズキは捨ておけば銭に目が眩んでほんとうに女衒になってしまうだらしない殿方です。しかし阿斗さまが成長するまでは、きっちりと影武者劉備玄徳のお役目を務めてもらわねばなりません。ですから、この関羽雲長がミズキの面倒をみなければならないのです! み、み、ミズキはスケベなので、独身のままではどこの誰に誘惑されて骨抜きにされるかもわからないですし、私自身がミズキを婿に迎えることも辞さず、です! いわば私は兄上からミズキの許婚に任じられたのです! 妹といえども、この役目は譲れませんよ!」


「なんだとぅ、関羽? 姉貴風を吹かせてミズキを独占するつもりかっ!? それを言うなら、あ、あたしだってミズキの許婚だろ? 一騎打ちでミズキの支配権をどちらが手に入れるか決めるか!?」


「ふ、二人とも、落ち着いて……支配権って、俺は馬とか猫じゃないんだから。劉備さんはたしかにそういうことを口走ったかもしれないけれど、ああいうでっかい遺言を残していくのは劉備さんの癖みたいなもので、本気で俺に二人を娶らせるつもりは……まあ、あったかもしれないけれど……れ、恋愛ってのは、俺の世界では自由恋愛が基本だったから! 許婚なんて因習は」


「黙りなさい! 孔明を口説いて嫁にして仕官させようなどという下劣な策を用いれば、ミズキ、あなたと孔明をともどもに斬ります! 仮にも劉備玄徳たるもの、そのような女衒めいた真似は許しませんっ!」


「関羽。あたしはなんだか悪い予感がする。孔明に関わったら、あたしたち三人の関係が荒れそうな……もうさあ、孔明抜きで戦おうよ! 今までだってそうしてきたし、趙雲も徐庶もいるからどうにかなるだろ!」


 女の嫉妬だ。聞き流せ聞き流せ。行くぞ行くぞ。いいか小僧。孔明は異形だが超絶の美少女だぜ、てめえのほうが一発で恋に墜ちるかもな、と徐庶は二人の姫武官がわーわー騒いでもどこ吹く風。

 かくして一行は、休む間もなく隆中村へと急行したのだった。

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