三顧の礼-5

「……あ、あれれ? ミズキくんの『気』が、消えている……もしかして、森の中に置き去りにしちゃった?」

 そう。

 追撃に夢中で、完全に忘れていた。いつの間にかミズキと的盧の姿が、忽然と消えていたのだ。



 この時、ミズキは宛へと続く道を逸れて、森の中で迷子になっていた。

 ミズキの責任ではない。程昱を追っていた途中でいきなり的盧が、


「くんかくんか。あっちの方からいい香りがするぜ! 絶世の美少女の予感! ブヒヒヒン!」


 と、脇道に飛び込んでしまったのだ。


「こらっ的盧! 程昱を追いかけて徐庶のお母さんを奪回しなきゃダメじゃないか!」


「程昱はババアの乗った車を置き捨てて一人で逃げるだろうから、問題ねえ。徐庶と趙雲に任せとけ。それよりも俺は森の中の美女を探すぅ! きっと彼女は迷子なんだ! ここで白馬に乗った王子さまが救いに来たら、恋がはじまるぜ!」


「お前は白馬じゃなくてブチ馬だし、白馬に乗ってるんじゃなくて俺を乗せてるほうだろう?」


「あーもうミズキよう。てめーは細かいんだよ、いちいち。劉備玄徳の影武者ならば、もっとドーンと構えていな! ほら、いた! あそこだ! おお、なんと愛らしいお嬢さん。ブルルッ」


 的盧が鼻先で合図した先には、ここはどこ? 十面埋伏の計を仕掛けているうちに迷子になっちゃった……と森の中を彷徨っている小柄な少女が一人。


「って、曹操!? どうしてここに?」


「げーっ、劉備玄徳!?」


 そう。かつて汝南でミズキが引っ捕らえてあわや拉致しかけた、あのちっちゃな姫将軍。

 曹操孟徳だった。


「むむむ。荊州で『軍師狩り・人材狩り』をちゃっちゃとやって劉備の勢力拡大を阻止するためにまずは徐庶のご母堂を拉致するという程昱の策に続いて、万一失敗した場合に追撃を封じる伏兵の策まで見破るだなんて。あんた、いったいどうしちゃったわけ? この行動の素早さ、私の知力についてくる利口さ。劉備とは思えない!」


 だいたい、あんた、なんで汝南で私を見逃したのよ? 馬鹿にも程があるわ、もしかしてニセモノじゃないの? と曹操はむくれている。危うく拉致されかけたトラウマが蘇ったのか、その細い脚はふるふると震えていた。


「おおおお俺は劉備だぜ? この前、きみを見逃してやったのは、関羽を殺すなときみが諸将に命じてくれていたからさ! 義に対して義で答えたんだ!」


「ふーん。怪しいわね。朝廷の貴族連中が企んでいた曹操暗殺計画にも乗らなかったし、相変わらずお人好しなんだから」


「それより、どうして宛にいるんだ? 官渡の戦いでの失点を取り返すために再起した袁紹ともういちど決戦するために、河北に向かったはずじゃあ……」


「ふん。袁紹よりも劉備、あんたのほうが厄介だから荊州での人材狩りを優先したのよ。新野で妙な商売をはじめてどんどん銭を稼いでいるし、人望名声は高まる一方だし……河北に向かった曹操は、影武者の荀彧なんだから。袁紹は私の幼なじみだから騙せないけれど、兵士どもは私を八頭身で長身巨乳の堂々たる容姿の持ち主だと勝手に思い込んでいるから、騙せるのよ! 男ってほんとに馬鹿ばかりね!」


「そうなのか。きみはたしかに小柄だけど、かわいいじゃないか」


 そうとも、攫ってしまいたいブヒヒヒン! と的盧が興奮していななく。


「かっ……か、か、かわいい!? ばばば馬鹿言わないで! どどどどうしちゃったのよ、あんた? 私は漢の帝を傀儡にして天下を簒奪しようとしている乱世の奸雄! あんたは漢王室の復興を目指して負けても負けても七転び八起きの精神で私と戦い続ける天下の義将! 私とあなたは、不倶戴天の敵同士でしょっ! なななによ、突然かわいいだなんて!?」


 曹操は、宦官となったために跡継ぎが絶えた名門・曹家に、親戚筋の夏侯家から迎えられた曹嵩の娘である。曹家も夏侯家も、漢の建国期に高祖劉邦に仕えた功臣の家柄だった。「阿瞞」と呼ばれていた幼い頃の曹操は小柄で童顔なので目立たず、しかも曹家や夏侯家の面々を引き連れて都で暴れ回る不良娘だったが、当代一流の人物評論家から「治世の能臣、乱世の奸雄」と評されたことで一躍有名になった。


 黄巾の乱が起きて天下大乱となり、曹操は立ち上がった。董卓と戦い、青州黄巾族百万を下して自軍に組み入れ、徐州を侵略し、呂布と戦い、長安から亡命してきた帝を自らの州都・許に擁立し、河北の王者袁紹と戦い……と西に東に自ら出兵して合戦を繰り返してきた。


 いまや、中原の中心部分はすべて曹操が抑えている。しかし、曹操は民衆から人気がない。漢の帝は人質のようなもので、いずれ曹操が天下を統一した暁には漢王室を乗っ取るだろうことは目に見えていたし、後漢の根本理念だった儒教道徳を鼻先で嗤う徹底した合理主義者だし、漢王朝の腐敗ぶりに憤って蜂起した青州黄巾族と手を組んで彼らを「青州兵」として自軍に組み入れてしまったし、やることなすこと非常識にも程があった。


 漢王朝四百年の歴史も伝統も、曹操にとっては「すでに朽ちていて、世を新しく作り直すために壊さねばならない因習」に過ぎないのだ。黄巾族はもともと「太平道」という新興道教の信者で、漢王朝の腐敗に苦しみ、漢室の世(蒼天)はすでに終わった! と世直しを計った民衆たちなのだが、曹操は青州黄巾族が奉じていたこの太平道への信仰をあっさり認めてしまった。要は平然と黄巾族と組んで、漢に代わる新たな王朝を作ろうとしているのだ。


 しかもその青州兵を率いて、父・曹嵩を山賊に襲わせて死なせてしまった徐州の陶謙を猛然と攻めた際には、怒りにあかせて歴史に残るような虐殺をやらかした。劉備が天下に名をあげたのは、「曹操ちゃん。やりすぎだぜ。親父どのを殺された曹操ちゃんの悲しみと怒りはわかるが、民には関係ねえだろう?」と徐州に義軍を率いて入城し、曹操の侵略を防いだことからはじまった。実際には、呂布が曹操の空き巣を狙って蜂起したから、曹操は徐州から撤退しなければならなかったわけだが――。

 だから曹操は今でも民衆から、鬼のようにおぞましい女将軍だと信じられている。


「私が戦って群雄を倒して天下統一に近づけば近づくほど、民は私を『漢を滅ぼす者』と恐れ、劉備、あんたにすがりつく。袁家の血筋なんかに頼っている袁紹なんて、敵じゃないわ。私にとって最大の敵は、民に愛される『徳』とやらを持っている劉備玄徳。私とあんたは、水と油。項羽と劉邦のような関係よ! 今の天下に真の英雄は二人しかいない。私と、あんたよ! せーっかく左将軍に任じて使いこなしてやろうと思ったのに、あんたが裏切ったのよ! どちらかが倒れるまで、私たちの戦いは続くんだから! もっとも、どちらが勝とうが負けようが、私は徐州で虐殺をやらかして漢王室を簒奪した悪人として歴史に名を残し、あんたは未来永劫、漢の忠臣にして正義の善人だけれどもね! 私はそんな後世の汚名なんて気にしないわ! 人間、死ねば終わりなのだから!」


 曹操は、亡き劉備に「自分にはないもの」を見出していたのだ。つまり「徳」であり、民から愛される資質である。だから一時は劉備を自分の片腕に抜擢しようともした。しかし、手に入れられなかった。超絶の義人として知られる劉備の義妹・関羽ですら。

 漢王朝・四百年。

 かつては栄光を誇った王国も、その寿命はすでに尽きようとしている。悪政に苦しめられた民衆が大蜂起した「黄巾の乱」によって、漢王朝はすでに滅びたと言っていい。


 このままでは乱世が果てしなく続く。

 誰かが、新しい「王国」を築かねばならない。

 曹操は「乱世の奸雄」として、「嫌われ役」――「悪人」の役を自ら引き受けたのだ。

 気丈な曹操はそのような泣き言は決して口にしない。


 しかし、三国志ファンであるミズキは知っている。

 曹操は破格の英雄であり、文武両道の天才だった。「孫子」の兵法書に自ら注釈を入れて後世に残した兵法学者であり、「詩人」としても超一流で、戦場で自らいくつもの詩を残した。ただの暴君などではなかった。漢王朝はすでに壊れている。しかし、実に四百年という長きにわたる王国だったのだ。その形骸は亡霊のように残っている。新たな世を築くためには、いちど真っ新にしなければならない。劉邦が漢を建国する前に、項羽が秦の都を焼き払ったかのように。


「……徐州での虐殺は、青州兵がまだ『黄巾族』時代の荒々しさを保ったまま、軍規を無視して暴れた結果起きたことだろう? きみのせいじゃないよ、曹操。責められるべきは青州兵を正規兵として鍛え上げる前に徐州に攻め込んだことだが、誰だって、お父さんを殺されれば冷静ではいられなくなる。とりわけ、きみのような情感豊かな詩人にとっては……」


「ちょ。な、なに、訳知り顔で私を慰めてるのよ!? どうしちゃったの!? ひ、ひ、人垂らしの本性を発揮して、わ、わ、私を懐柔するつもり? そうはいかないわよ!」


「いや。『大徳』劉備玄徳だって、関羽を殺されたら正気ではいられなくなる。漢王室の復興という生涯の志もすべてかなぐり捨てて、関羽の復讐のためになにもかもを台無しにしてしまう……劉備玄徳と曹操孟徳は、水と油というよりも、同じ鏡の裏表のような存在だ。二人のその感情の大きさ・激しさ・熱さこそが人間である証であり、英雄の資質ってやつさ。俺は、そういう理を越えた人間の英雄が好きだ。あと一歩というところで感情に流されて過ちを冒す姿は限りなく愚かだけれども、だからこそ胸を打ってやまないんだ。『三国志』が国境を越えて千八百年後の未来の人々に愛され親しまれているのは、劉備と曹操という二人の人間の英雄が同時代を生きるという奇跡が起きたからだよ」


 曹操は、しばし絶句していた。

 なんだろう。心の臓の鼓動が、激しく高まっている。曹操の詩人としての魂は、生死を分ける厳しい戦場を駆けている時にこそ揺さぶられる。だが、今までどんな戦場でも、これほどの胸の高ぶりを覚えたことはなかった。官渡の戦いで袁紹を破った時でさえ。

 この感情は。もしかして、と曹操は震えた。


「な、な、なに言ってるの……!? あ、あなた、劉備にそっくりだけれど、劉備じゃないわね! わかったわ! 替え玉なんだわ! 汝南ですり替わったのね! だから、私が徐庶のご母堂を人質にとることを『知っていた』んだわ!」


「し、しまった! 喋りすぎてバレたか! ほんものの曹操を目の前にすると、つい、今まで伝えたかった思いをぺらぺらと……!」


「あなた、遙かな未来から来たのね! だったら! 劉備に成り代わって、私に左将軍として仕えなさい! 乱世を終わらせるためよ! 乱世の奸雄として生きなければならない運命を選択したこの私に、『治世の能臣』としての人生を与えたいのならば! 私とともに来なさい! あなたが劉備として反曹操の戦いを続ける限り、私は乱世の奸雄として生きねばならないし、乱世も終わらないわ! まして、未来を知っているあなたが敵となるならば、二人の戦いは果てしのないものに……! それでいいの?」


「……それは……お、俺は劉備さんから関羽と張飛を託されたんだ。たしかに、好きな生き方をして構わないとは言われたが、しかし……」


 曹操が、懇願するような眼差しでミズキを見つめながら、小さな手を差し出してきた。

 ミズキは思わず、吸い込まれるようにその手を取ろうと――。

 が、ミズキはすでに「劉備玄徳」である。

 これまでの劉備玄徳の生涯を全否定する生き方は、選びがたかった。

 曹操が正しいのか。劉備が正しかったのか。いや、やはり二人ともこの漢王朝が終焉しつつある乱世に「必要」な英雄だったのだ。新たな世界を開こうと戦い続けた革命家・曹操と、愚直に漢の復興という志に殉じた「大徳」劉備。この国の「歴史」は、この相容れない価値観を背負った二人の英雄の「戦い」によって、切り開かれたのだ――。


「……手を……取って、くれないの? ならば、あなたは私の敵よ。あなたを倒して、そして滅ぼすわ」


 そんな悲しそうな目で俺を見ないでくれ曹操、とミズキはなぜか泣きたくなった。

 そして。


「兄上えええええ! お助けに参りました! やや、曹操!? どうしてここへ? まさか、赤兎を取り戻しにっ?」


「幽州の流れ星・張飛益徳見参! どーして曹操がこんな森の中にいるのか知らないが、捕らえちまえ!」


「やっと見つけたよ。こんなところで道草していたんだねえ~」


「劉備一家の軍師・徐庶さまも参上! お前が曹操かーっ! って、ちっちゃいな……かわいいじゃねえか……じゃなかった! よくも俺さまのおかんを拉致しようとしたなあ! 許さねえ、お尻ぺんぺんしてやる!」


 あまりにもミズキの帰りが遅いので心配してミズキを探していた関羽、張飛。さらには徐夫人を奪回した趙雲と徐庶が、駆けつけてきた。

 そうだ。俺はもう、劉備玄徳なんだ。曹操の手をここで取ることはできない。いずれ手を取りあう時が来るとしても、それは、二人の英雄の「戦い」に決着がついたその時だ。


「曹操。俺の本名はミズキだ。劉秀一、それが俺の名だ。いつか、『治世の能臣』の人生を、きみに」


 ミズキから身を離すように森の中を走りながら、曹操は、


「程昱! 合体よ! 私を拾い上げなさい!」


 と叫ぶと、馬を駆って迷子になった曹操の回収に戻って来た程昱の肩へと昇り、


「決めたわ! 袁紹との最終決戦は後回しよ! この曹操にとって、劉備こそ倒すべき最大の敵! ただちに兵力を二分し、荊州遠征を開始するわ!」


 と「南下開始」を宣言していた。ミズキに対する、宣戦布告である。


「曹操さま。それほど劉備が気に入ったのデスか?」


「き、き、気に入ったんじゃないわよ程昱! 逆よ逆! せっかく仕官を誘ってやったのに、蹴り飛ばされたのよ! むかつくのよ! 私に仕えない英雄なんて要らないわ、邪魔っけよ!」


「……初恋デスね。ふられたのデスね。ですが、戦に勝って捕らえれば、機会は訪れるデス」


「はあ? そそそそんなんじゃ、ないんだからーっ!」


「ですが、泣いてマス」


「泣いてないっ!」

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