三顧の礼-4

 だがこの時すでに、徐庶の母親のもとに曹操軍の将兵たちが向かっていた。

 新野よりも宛のほうが、村に近い。

 なぜ無名の徐庶の母親に曹操が目を付けたのかは、まだ定かではない――。

 しかし義侠の男・徐庶を女手ひとつで育てただけあって、徐夫人もまた老いてますます剛毅だった。


「なんだい、あんたたちは? 野良仕事の邪魔をしないでくれんかね!」


 帰った帰った、しっしっ、とひるむことなく兵士たちを追い払おうと塩を撒いてくる。


「厄介なばあさんだな。ふん縛って拉致しましょう」


「兵は神速を尊ぶ、と曹操さまもつねづね仰せだしな」


 血の気が荒い男兵士たちの頭を、ぽかん、と殴る姫軍師がいた。

 なんだああ? と男兵士たちが睨もうとすると、姫なのに自分たちより背が高い。すげええ、脚なげええ! と男たちは生唾を飲んだ。

 曹操が誇る「軍師コレクション」の一人、程昱。

 かつて曹操が徐州に攻め込んだ隙を呂布に突かれて空き巣狙いをやられた時には、留守居役として荀彧とともに呂布の侵攻を阻むという大功を挙げている。もしも荀彧と程昱がいなければ、徐州攻めの折に曹操は呂布に滅ぼされていただろう。


「……手荒なまねは慎むのデス……われわれは徐庶どののご母堂を、宛で歓待するのデス」


 命令に従わぬ者は斬るデス、と程昱は肉切り包丁を両手に構えて兵士たちをどやしつけた。軍師なのに、程昱は張飛並みに血の気が荒い。飢饉で兵糧が不足した時には、「曹操さまを餓えさせてはならないデス」と自ら山賊と化して村荒らしをやったこともある。曹操に過去、何度も何度も「劉備を捨て置くととてつもない強敵に育ちますから、駒として使いこなそうだなんて悠長な考えは捨てて、早く劉備を殺すデス」と劉備暗殺を進言し続けてきたという実績の持ち主でもある。


「新野で劉備の名声が高まっているデス。このまま捨て置けば、荊州の名士たちが劉備に仕えはじめるデス……今は袁紹との戦いの最中デスから新野を攻め潰す兵力はありませんが、荊州の『人材』を刈り取っておくことはできるデス……水鏡先生の門下生のうちの俊才を、一人一人青田刈りして曹操さまの軍師軍団に入れるデス。まずは、母親を奪われたら血の涙を流して土下座降伏してくるに違いない、徐庶デス。熱烈なおかん好きを隠しているつもりが隠せていないあの男の間抜けぶり……ぷぷぷぷぷ」


 宛周辺の諜報を担当している程昱は、徐庶が母親に送った手紙を手に入れていたのだった。


「のっぽのお嬢さん。あたしを捕らえて、うちの息子を無理矢理仕官させるつもりかい? やめときな! ありゃあ、あたしがいなきゃあなにもできないヘタレ野郎だ。あたしを人質にとられたら、びびってすっかり骨抜きになっちまって、無駄飯食いと化すよ。まったく、呆れ果てるほどに馬鹿息子だからねえ」


「骨抜きになってもいいのデス。お人好しでアホの劉備といえど、ひとたび軍師を得れば、関羽と張飛の武に知を加えて臥龍天に昇る勢いとなるデス。劉備陣営で活躍されるくらいならば、曹操さまのもとで一生飼い殺しにするデス」


 そんなのありかい。元直は筋金入りの馬鹿だが、あたしがあいつの足かせになるなんてまっぴらご免だね。この、糞女があ! と徐夫人が山椒入りの水をぶっかけて攻撃してくるが、程昱は男兵士たちの身体を容赦なく盾にして防ぎ止めた。ぐわあー、ぎゃああー、と人間の盾にされた兵士たちは目を押さえて悲鳴をあげているが、程昱は顔色ひとつ変えない。


「これからは野良仕事はやめていただいて、馬鹿息子とともに末永く贅沢三昧な暮らしをしていただくデス。お連れするデス」

 程昱が馬車に徐夫人を押し込んで「出発デス」と手を掲げた、その時――。




「待った待った待ったああああ! 幽州の義侠! 劉備玄徳ただいま参上! 徐庶の兄貴を仕官させる手間を惜しんで、ご母堂を誘拐しようとは、ちょっとばかり仕事をはしょりすぎってもんじゃないですかあああ!」


「ぎゃあああああああ、おかんが、おかんがほんとうに曹操に攫われているうううううう! なんてこった! ミズ……いや劉備よう! おかんを救い出してくれたら、俺さまは生涯てめえに受けた恩義を返すために代金三割引で働くぜえええええ! だから、なんとかしてくれええええ! オロロオオオオン!」


「……さすがは曹操。打つ手打つ手が早いねえ~。軍師を大勢抱えているから、各方面で同時にいろいろな謀略を展開できる。でも、うちの大将は心眼が開いているからね――今までのようなわけにはいかないよ、程昱」



 荒ぶる凶馬・的盧を乗りこなす影武者劉備玄徳・ミズキ。

 母親を誘拐されてブチ切れている撃剣使い・徐庶。

 そして盲目の美少女武官・趙雲。

 新野へと入城せずに村まで駆けに駆けてきた三人が、ぎりぎりで間に合ったのだった。

 意表を突かれた程昱は、


「……あのお人良しの劉備が……私が繰り出した、この邪悪なる策を見破るとは……ありえないデス!?」

 と一瞬だけ表情をこわばらせたが、なにしろ程昱も血気さかん。


「ええ~い。ここで会ったがなんとやらです劉備玄徳! 要はお前が死ねば解決デス。今日こそ殺すデス! 者ども、やるデス!」

 と、男兵士たちをけしかけた。


「俺ら、なんだかやられ役の気がする……」


「じょ、徐庶とかいう奴、血の涙を流して長剣を振り回している……しかも、大猿のように吼えているぞ! に、人間をやめている! 勝てる気がしねえ!」


「おい、紅一点のあの子。あれは関羽飯店で大人気の、噂の趙雲子龍ちゃんじゃないのか? その武は関羽・張飛に匹敵するという! だとしたら全員殺られるぞ!」


 もちろん、彼らは「やられ役」となる運命だった。

 ドン。ゲッ。バコッ。

 早く関羽のおっぱいが見てぇのにババアの面倒なんぞみさせられるのかよ! ぶるるっ! と荒ぶる的盧の脚に蹴られ、奇声を発しながら兵士たちを追い回す徐庶に長剣の鞘でぶん殴られ、そして趙雲が無言で繰り出す涯角槍を受けて突き飛ばされ。

 その上、三人のうちではいちばん弱そうだった劉備すら、


「劉備玄徳らしい二刀流の剣はまだまだ難しいな。だが、槍ならば師匠に叩き込まれてだいたい覚えた!」


 やけに強くなっている。

 その上、的盧が激しく荒ぶるものだから、こちらからの劉備への攻撃は通らない。

 しかし、三人に挑んだ男兵士全員がたちまち戦闘不能に追い込まれたその時には、程昱は馬車を駆って徐夫人とともに村から逃げていた。程昱は彼らをとっさに囮にしたのだ。

 程昱と徐夫人を乗せた馬車は、すでに森の中に入り込んでいる。


「あの程昱のことだ。森の中に埋伏の兵がいるかもしれないが、躊躇している場合じゃなさそうだな!」


「クエエエエエエエ! あの、のっぽ女めええええ! 味方の兵士全員を餌として蒔いて、俺さまのおかんを宛城へ連れ去るつもりかあああ! 絶対に許さああああん! 小僧、伏兵なんざ気にするなああ! 俺さまが全員叩き斬ってやる、追いかけろおおおおおおお! 追いかけないと俺さまはここで闇落ちして魔王になるぜえええ!」


「わかったわかった。これから請け負ってもらう仕事料、一律五割引な」


「おいミズキ。がめついんだよ、てめーっ! 俺さま以下の守銭奴だぜ! 三割だ!」


「こっちは、対曹操戦のための軍事費が要るんだよ……それじゃ間を取って四割だ。的盧、頼むぜ! 向こうは人質を乗せた馬車、こっちは騎馬兵だ! まだ追いつける!」


「あの程昱とか言う性悪なねーちゃんを捕まえたら俺さま、程昱のおっぱいでぱふぱふしていいか? ブヒヒヒン!」


「……的盧の鼻息が荒いのが気になるけれど、行こう。森の伏兵対策ならば、この常山の趙雲子龍にお任せ、だよ」


「そうか。仮に姿を消した伏兵が潜んでいても、その『気』を感じ取れるんだな、師匠は! さすがだ!」


「そういうこと。これで襄陽の失敗は帳消し。関羽に叱られずに済むねぇ。飛ばすよ~」


 三人は、いっせいに馬を駆って森の中へと飛び込んだ。

 荒れ狂う徐庶が先頭を突っ走り、続いて趙雲。最後尾にミズキ。

 やはり、伏兵はいた。

 狡猾さで名高い程昱の得意技「十面埋伏」。

 森の至るところから次々と伏兵が襲ってくるが、


「この徐庶さまを相手に、舐めた真似しやがってええええ! てめえらの血は何色だあああ~! 曹操め、まったく虫が好かねえーっ!」


 修羅と化した今の徐庶に敵うわけもなく、どこから伏兵が沸いてきても徐庶は問答無用、野獣の反射神経で鞘を振り回して伏兵たちを薙ぎ倒していく。

 もはや前しか見ていない徐庶の死角となっている背後を取ろうとした伏兵は、その後ろを進む趙雲に、


「えい」


 と涯角槍で急所を一突きされて気を失い、転がっていく。

 趙雲は、相手を見ていない。「気」を感じると同時に、視線を明後日の方向に向けたまま正確かつ高速な槍術で伏兵を迎撃する。

 その鉄壁の防御ぶりは、完璧なものだった。

 前に修羅モードの徐庶、後ろには常山の趙雲子龍。

 森という絶対的な地の利を活かした程昱の伏兵の策は、非常識な二人によって突破されていた。

 十面埋伏の計、破れたり!


「……あ、ありえないデス。あやつら、まるで、この森という危地に恐怖を感じていないデス……? しょうがないデス。かくなる上は、程昱最終奥義。徐夫人を乗せた馬車を切り離して単独で逃げるデス。これで先頭を走る徐庶を足止めできるデス――再見!」


 策は時には破れるもの。程昱は策に固執しない。車ごと徐夫人を置き捨てていったのだった。


「うわあああああ、おかああああん! よくぞ、ご無事でええええええ!」


 オロロオオオンと涙を流しながら、徐庶は乗り捨てられた車から降りてきた母親・徐夫人と感動の再会――。


「うるさいよ、この不良息子が! いい加減に働きな! あんたが仕官もせずにいつまでも遊び暮らしているから、あたしがこんな難儀な目に遭うんだよ!」


 ……のはずが、徐夫人は怒髪天を衝く怒り顔で息子の脚を払い、顔面を踏みつけ、股間へ容赦なく蹴りを入れた。


「ふぎゃっ! ぐえっ! うぐううう! 許してくれ、許してくれ、おっかさあああん! 働く! 働くから機嫌を直しておくれえ~! ああ、趙雲ちゃんのような美少女にこんなザマを見られて、俺さまはもう恥ずかしくて荊州を歩けねえ!」


「くす。私は見えてないからだいじょうぶだよ~」


「元直! あんたはちょっとばかり曹操軍の兵士たちをボコったが、あの程度で死んだ奴ぁいないだろう。さっさと曹操のもとに仕えるんだね! あそこがいちばん銭がある!」


「いや、おかん、それはできねえ! 俺さまはミ……いやいや劉備玄徳に生涯返せない恩を受けた! 俺さまは守銭奴の遊び人だが、これでも侠だ! おかんを救ってくれた劉備に死ぬまで仕えることにしたぜ! だがな、割引率は三割だ!」


 そんな理由で、劉表んところに寄生している弱小勢力に? おかん離れのできない息子だねえ……と徐夫人は呆れたが、放蕩息子が「俺、無職をやめて働くから」と生まれてはじめて言いだしたのだ。ここで止めたら、またニートに戻るかもしれない。


「ふん。あたしゃ、曹操んところで贅沢三昧のほうがよかったがね。元直。お前がそう言うんなら、そうしな。お前の人生さ」


 これでついにミズキくんは軍師を得たわけだ。劉備一家はじまって以来の快挙だよ、と馬上で趙雲はにんまり微笑んでいた。が、ここでやっと気づいた。


「……あ、あれれ? ミズキくんの『気』が、消えている……もしかして、森の中に置き去りにしちゃった?」


 そう。

 追撃に夢中で、完全に忘れていた。いつの間にかミズキと的盧の姿が、忽然と消えていたのだ。

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