三顧の礼-2
厠へ行くと称して宴会の席を離れると同時に、蔡一族が繰り出した兵士たちが、槍を手に「待て劉備!」「よくも蔡瑁さまにあんなおぞましい毒を!」「今、厠で蔡瑁さまは地獄の苦しみに!」と続々と追いかけてきた。
ミズキはけんめいに駆けながら厩に飛び込み、愛馬・的盧に「新野へ逃げるぞ!」と声をかけて跨がっていた。
「唐辛子で町興しに成功したというのに、その唐辛子のために命を狙われるとはなあ」
この時、馬小屋を飛び出しながら的盧がいなないた――が、いつもとはいななき方が違う。
「おいおい。ニセ劉備よう。こんな危地に俺さまを巻き込むんじゃねえぞ。なーにが新野へ逃げるぞ、だ。逃がしてくださいませ的盧さま、と懇願しやがれ。蹴り殺してやりたいぜブヒヒヒン」
「お、おおおおお? 馬が喋った!?」
「喋って悪いか。俺は駄馬と違って知能が高いんでな。なにしろ飼い主をわざわざ困らせるのが趣味の的盧さまだ。が、俺の言葉を理解できる人間はおめーくらいだろう。おめえは、この世界のありとあらゆる言葉を操れる特殊能力を持っているらしい」
「俺が? そうか。お前が人語を喋っているのではなく、俺が馬語を解しているのか! 俺はそういう力を付与されているから、この世界で自在に会話できるのか! だが、なぜ俺だけを背中に乗せる?」
「ブルル! おめーを乗せたいんじゃねえんだよ、阿呆ッ! 俺さまはよう、俺さまは、ほんとうは関羽の丸いお尻に敷かれたいんだーっ! 関羽のあのぷりぷりの尻! ぷるぷるの乳! そして、どんな雌馬のたてがみも敵わない美しい黒髪……! し、し、辛抱溜まらん! ブヒヒヒヒイン!」
そういえばこいつ、エロ馬だったよな、とミズキは思いだした。
背後から刺客たちが矢を放ってくるが、的盧が「関羽に種付けしてえええ! ブヒヒイイイイ!」と暴れながらでたらめに走るので、ミズキには幸いにも矢が当たらない。
「つまり関羽が近づいてくると興奮しすぎて、暴れ踊ってしまい、乗ってもらえない、と?」
「関羽だけじゃねー。他の女の子でも同じだ。エロに人も馬もない! 荒ぶる雄馬の本能が騒ぐのよおおお! 俺さまは男の尻なんぞに敷かれるのはまっぴらご免だが、おめーを乗せてやっていれば、赤兎に乗った関羽の尻や揺れる乳を毎日たっぷり拝めるからな。ブルルル! だからおめーに飼われてやっているだけだ、わかったか童貞小僧! 劉備の奥方の寝室で毎晩ぶるぶる震えやがって。それで男か。いつになれば種付けするんだ。雄の生涯ってのはな、雌に種付けするためにあるんだぜえ?」
「う、うるせえよ! 馬と人間とじゃ事情が違うんだ! どんどん追っ手が増えてき
ているぞ。きりきり逃げろ! 的盧お前、馬の分際で、関羽を嫁にでもするつもりか?」
「それは無理だ……俺さま自慢の大筒は、あまりにもでかすぎて人間の娘にはとてもじゃないが……俺さまが関羽に種付けなどしたら、愛する関羽を死なせちまう……おめーの貧相なものとはケタが違うんでな、ブルルル! 私の愛馬は凶暴です!」
「貧相言うな!」
「だが! 永遠に結ばれることはなくとも、そっと乳揺れを見守る愛もある! なぜだ。天はなぜこの的盧に素晴らしい大筒を与えながら、女の子を小柄に作ってしまったんだーっ!」
「お前は馬で関羽は人間だろうが! 赤兎とでもくっついてろ!」
ダメだ刺客たちに追いつかれる! ミズキは的盧のたてがみを引っ張って「全力で走れってば!」と怒鳴っていた。
「雄馬は辛いぜブルル。おいミズキ。お前、関羽を嫁にしろ。時々、覗かせろ。俺さまは、関羽の生乳がどうしても見たい! 人間の女の子はいいよなあ。身体の毛が薄くて、白い柔肌が剥き出しになっている。ということはおっぱいも当然、真っ白くて柔らかくて……はあはあ……」
「俺よりももはや相良良晴くんに似てるな、お前」
関羽を嫁にすると誓わねば振り落とす、と的盧が脅しをかけてきた。
「ほ、他の約束ならともかく、それは……本人の了承も得ないと! 俺は、劉備さんから関羽を託されたんだぜ? 馬に脅されて嫁にすると決めました、じゃあ」
「あーそう。俺さまがこれだけ背中を押してやっても、そんなこと言うわけ。じゃあこの檀渓は渡ってやらねえ! 人間の脚で渡れるものなら渡ってみやがれ! ブヒヒヒン!」
檀渓――退路を阻む漢水の急流へと、ミズキは突き当たっていた。
背後からは、矢がひっきりなしに飛んでくる。
「蔡瑁さまは厠で悶絶しておられるうう!」
「劉表さまも腹痛で倒れたあああああ!」
「おのれ劉備玄徳。やはり唐辛子は毒だったのだな! 殺してやるっ!」
「その檀渓は馬でも人でも渡れぬ急流。もはや逃げ場はないぞ!」
そうか! 今日の料理では、張り切りすぎて唐辛子を三倍増しにした分、カプサイシンも三倍! しかも相手ははじめて唐辛子を食べた面々。辛さに免疫がない。だからこれほどの惨状に! ミズキは自分のミスにやっと気づいたが、これは弁明できそうにない……!
的盧は「けっ」とそっぽを向いて、檀渓を前に立ち止まったままだ。
この時。
森の奥。
新野へと連なる檀渓の向こうから、ふらり、と道士っぽい薄汚れた黒衣に身を包んだ男が姿を現していた。長く伸ばした髪はぼさぼさで、片腕を袖の中にしまい込んで隠している。だが、もう一本の腕には、長剣が握られていた。
「誰だ? あんたも、蔡一族の放った刺客か?」
だとすれば檀渓の前後から挟み撃ちにされたことになり、もうミズキに退路はない。
くそっ。劉備玄徳は襄陽で蔡瑁の刺客に襲われ、的盧に乗って檀渓を渡る。これって「三国志演義」でも有名なエピソードじゃないか。俺としたことが! 唐辛子の量さえ間違わなければ切り抜けられたのにと歯がみしたが、その道士は蔡瑁の手の者ではなかった。
「小僧。俺は蔡瑁の家臣じゃあ、ないぜ。荊州の水鏡先生んところに厄介になっている乱世の素浪人よ。名前はいろいろ持っているが、徐庶さまと呼びな」
徐庶!? 劉備玄徳に天才軍師・諸葛亮孔明を推挙した徐庶か! ならば、歴史はまだ「正史」から大きく外れてはいない! 曹操は袁紹を滅ぼして、いずれ荊州に攻め寄せてくるんだ!
「うひひ。小僧、お前がほんものの英雄劉備玄徳ならば、その凶馬・的盧を駆って檀渓を渡って九死に一生を得る。が、新野での商売人ぶりを観察していてわかった。お前はニセモノだ。その的盧を斬って捨てれば、祟りは消える。命だけは助かるぜ。つまり、この撃剣使いの徐庶さまが助けてやる」
「なんで斬って捨てなきゃならないんだ!? 断る! 的盧は人間の女の子に発情する度しがたいエロ馬だが、こんなのでも俺の相棒だぞ!」
ほう。まるで迷いなく、馬の命を守ったな。小僧。お前、外見だけでなく中身まで劉備玄徳に似ているな――と徐庶は苦笑いを浮かべていた。
「似てはいない! 内心では、死にたくない、とビビってる! だが、劉備玄徳の『器』を俺は継いだ。いや、継ぐと決めた! ここで死ぬなら、俺にはその資格も能力も天運もなかった。ただそれまでのことだ……! 行け的盧! 檀渓を渡れ!」
矢が嵐のように飛んでくる中、的盧は、ミズキを乗せて檀渓へと飛び込んでいた。
「ブルル。お前の器なんぞ知らんが、この道士野郎の口車に乗らずに俺さまを庇うたぁ、人間にしちゃあ殊勝な心がけじゃねーかミズキ。これからも俺に乗って関羽のおっぱいと尻を拝ませてくれるってんなら助けてやるぜ。だがよ。いつか機会が来たら関羽を必ず嫁にしろよ、いいな!」
「わかった! 機会があれば、な! 相棒!」
「おう。それじゃしっかり手綱を握ってろ。振り落とされるんじゃねえぞ。相棒!」
本気を出した的盧の力は、凄まじかった。
檀渓の急流に飛び込むや否や、流されることもふらつくこともなく、漢水を渡っていく。
蔡一族の刺客たちは「馬であの檀渓を。まさか」「ありえん!」「劉備玄徳には神の加護でもあるのか?」と驚愕したが、丸太を落として無理矢理檀渓に即席の橋をかけ、なおもミズキを追撃してきた。
しかし、長剣を構えた徐庶が、彼らを待っていた。
「気を練る撃剣の術は、女だけの専売特許じゃないぜ。おいニセ劉備。やるじゃない。気が変わった、助けてやる!」
徐庶はもともと、無頼の徒だった。友の敵討ちに加わって人を斬り、故郷にいられなくなって逃走したという筋金入りの侠客だ。
荊州に亡命して大学者・水鏡先生の門下に入った今も、その剣の腕はまったくなまっていない。
蔡一族の刺客たちは、檀渓にかけられた丸太の上で、一対一で徐庶と戦わねばならなかった。そして一対一の状況では、とても徐庶に敵う者はいなかったのだ。
「ほい。ひとり。ふたり。さんにん。いやあ小僧、こいつは高くつくぜ? 一人檀渓に落とすごとに、俺の仕事料もねずみ算式に増えていくってえわけだ。うひ、うひひひひ」
「って、ちょっと待て! 銭を請求するのかっ?」
「当たり前だ。俺はお前の友達じゃねー。こういう仕事で銭を稼いで食ってるのよ。銭だ銭だ。素浪人の俺には、銭がいるんだよおお! ぎゃはは! 新野の蔵が空っぽになるかもな!」
「そんなに稼いでなにに使うんだよっ!?」
「水鏡先生んとこで書生やってると銭が飛ぶばかりなのさ! 俺には、貢がなきゃあならない人がいるんでね! 銭を払わないなら、俺はこの場で蔡瑁に雇われることにするぞ! いいのか小僧!? 払うよなあああ~?」
「エロ馬・的盧の次は、守銭奴・徐庶か……『演義』とはだいぶ違うな……しかし、劉表さんも唐辛子にやられて倒れたというのなら、蔡瑁の俺への疑いはそう簡単には解けない。襄陽との関係はこじれてしまうな……まずいぞ……」
この風狂野郎が貢いでいる相手は「女」だぜブルル、と的盧がミズキに囁いてきた。的盧の言葉は、馬語だ。ミズキにしか伝わらない。
ともあれミズキはここに、九死に一生を得た。
檀渓を馬で渡りきるという奇跡を成し遂げたミズキと、突然現れた剣客・徐庶の剣さばきを前に、刺客たちは「丸太の上での戦いでは、やられる一方だ!」「あの無頼の男を矢で射殺したくても」「すでに劉備は檀渓を渡ってしまった!」「撤退だ」「撤退!」とミズキ暗殺を断念し、襄陽へと引き返していったのである。
痛む頭を押さえながら趙雲が「うう。気がついたら伊籍さんに介抱されていたよ。ごめん、ミズキく……あ、あれれ? 誰、その人?」と白馬に乗って間道を駆けミズキに追いついてきたのは、刺客たちが撤退した直後のことだった。
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