三顧の礼-1
荊州の都・襄陽。
荊州の主・劉表は温和な中年紳士で、大の戦嫌い。中原での曹操と袁紹の激しい天下争いを横目に、襄陽にたくさんの学者を集めて「学術都市」造りにいそしんでいた。そういう鷹揚な男だったからこそ、物騒な劉備を抱え込んだのだとも言えるが、(バレたら終わりだ)とミズキは気が気でない。
それにしても――漢王室が曹操に簒奪されかかっているというのに、王室の血筋を引く荊州の劉表や蜀の劉璋といった劉姓の実力者たちは、平和な地方に割拠して実にのほほんとしている。本気で漢王室のために戦ってきた「劉」は、ほんとうに漢王室の血筋なのかどうか怪しい幽州の元草鞋売り・劉備玄徳ただ一人だったと言っていい。
「よく来てくださった劉備どの。噂では膝元まで手が伸びているとか、うさぎのような大耳の持ち主だと聞いておりましたが、いやいやなかなかの美男子!」
「び、美男子? 俺が?」
「……お世辞だよお世辞」
「一言多いよ、趙雲」
「まあいいや。今日はたっぷりごちそうになるぜ、劉表どん!」
がしっ! と劉表の首に手を回して、「うわははは! 酒だ酒だ!」と傍若無人・天衣無縫に大笑いするミズキ――これが「劉備玄徳の礼儀作法」なのだ。
「おお。噂通りの豪快なお人ですなあ」
宴会の席に招かれたミズキは、孫乾から仕込まれた礼儀作法をけんめいに守って、城内の疑惑の視線に耐えた。脳天気な劉表本人はともかく、劉表の妻・蔡夫人の一族たち――水軍都督の蔡瑁をはじめとする蔡一族は、ミズキがニセモノではないかと疑っている。そもそも本物であろうとも、蔡一族にとって劉備一家は邪魔者なのだ。これまでは、鷹揚な劉表は妻・蔡夫人の言いなりになってきた。が、同じ劉家の一員と称する劉備が荊州に転がり込んできた――しかもこの劉備が、やたらと歴戦の武功を重ねてきた傭兵隊長である。その上、関羽・張飛という化け物のように強い姫武官を従えている。
昔、曹操から徐州を守ると号して義軍を率い徐州の陶謙のもとへかけつけた劉備は、気がつけばその陶謙から「劉備どの。あんたに徐州を託す」と徐州一国を譲られていた。
劉表はまだ老いてはいないが、美食道楽のためかいわゆる高血圧で、いつ倒れるかわからず、そして倒れれば徐州と同じことになりかねない。
しかも、新野に駐屯しているこの劉備は、ニセモノかもしれないのだ!
蔡瑁は、しかし、孫乾から宴会での劉備の礼儀を徹底的に教え込まれてきたミズキがなかなかボロを出さないので次第に焦ってきた。ミズキの背後にはなにやら達人の気配を放っている姫武官の趙雲が立っていて、不意打ちの暗殺などとても無理だった。
その上、お人好しの劉表は、「今宵は飲もうぜ劉表どん。わははは」と劉備になりきったミズキをすっかり本物だと信じて、
「うちには琦と琮という二人の子供がいるのですが、どちらに家を継がせればよろしいでしょうか、劉備どの」
などと荊州を揺るがしている跡継ぎ問題の相談までミズキに持ちかける始末。
「琦は第一子ですが女の子でしてな。今のわしの妻・蔡夫人が産んだ琮は第二子ですが男。蔡瑁たちは、この乱世、男子である琮を後継者に、と言い立てるんですがのう。近頃の中原では曹操とか袁紹とか、普通に女が家督を継いでしかも成功しておるのを見ていると、素直に第一子の琦でいいのかなという気もしまして。ですが、琦は生まれつき身体が弱く……なかなか決められませんで」
迂闊なことを言うとカドが立つ……蔡瑁の(殺してやる殺してやる)視線が気になるミズキだったが、返答しないわけにはいかない。
「お、俺はよそ者だから、劉表どんの家の問題には口を突っ込めないなあ~。は、は、は」
「同じ劉家の一族ではないか。なんなら、わしがにわか病で倒れたら、劉備どのが荊州を継いで二人の幼い子を守ってくれれば。曹操から荊州を守れる人物は、今のわしのもとにはおらんのじゃ。わしが戦嫌いだったせいで、将兵みな実戦経験に乏しくてのう……外敵と戦ってきた歴戦の将軍といえば黄祖くらいじゃが、あれは人徳がのうていかん。しかもあやつは、その昔、孫堅を射殺してしまって孫家に恨まれているからのう」
「いや、それはならない! 新野を守り、曹操を防ぎ止めるのが俺の役目だ、劉表どん!」
わかりました荊州はいただきましょう、なんて言ったら蔡瑁に殺される! ミズキは気が気でない。一瞥して食事をともにしただけで、もう、劉表をその気にさせている。さすがは劉備玄徳、としか言いようがない。厄介な人の影武者になってしまったもんだ。
「お、おお。わが国譲りの誘いを、躊躇なく断るとは! 陶謙どのから託された徐州を曹操から守り切れず失ったことを気に病んでおられるのですな、劉備どのは。噂通り、あなたは義侠。新野の民のあなたを慕うこと、父にすがる子の如し、と襄陽でも評判になっておりますぞ!」
いや違う違う! 蔡瑁の殺意に気がつかないのか劉表どん! あんた、お人好しすぎるよ!
ミズキが内心青息吐息となっているすぐ横では、(は、早くも殿が劉備に荊州を譲りたいと言いだした! 出会って三分で国譲り! 恐るべきは劉備の人徳! このままでは荊州を横取りされる)と青ざめていた蔡瑁が、
(むむむ。この趙雲という姫武官、できる。刺殺は無理だ。よろしい。ならば毒殺だ)
と立ち上がり、ぽんぽんと手を叩いて「移動厨房」を宴会の席へと運ばせた。
「劉備どのの経営する関羽飯店は大繁盛だそうですが、襄陽も負けてはおりませんぞ。この蔡瑁が、劉備どのをもてなすために即興で荊州料理を振る舞いましょう――本日の食材は、『亀』! 劉備どのの長寿を願って……!」
むろん、食材に毒を仕込んでいる。わが毒料理を、劉備と趙雲にだけ食わせれば……ふ、ふ、ふ。
趙雲が、つんつん、とミズキの背中を槍で突いてきた。
毒を盛るつもりだよ、と忠告してくれたのだ、とミズキはすぐに気づいた。だが、毒殺を阻止する手段はすでに準備済みである。
「あいや! 料理はこの劉備玄徳の得意芸でしてな、蔡瑁どん! わっはっは!」
趙雲が大量の唐辛子を乗せた「食材台」をがらごろと引っ張ってくるのと同時に、ミズキは素早く立ち上がって蔡瑁の厨房を占領し、
「歓待を受けているばかりじゃ、心苦しい。中華四千年の歴史を変える究極の『四川料理』! 俺が手ずから料理した唐辛子の煮汁を、劉表どんたちに振る舞わせてもらうぜ!」
と新野から運んできた食材を用いて「四川料理」をてきぱきと調理開始。
厨房を奪われた蔡瑁は(しまった)とほぞを噛んだが、早い者勝ちである。しかもミズキは包丁を手にしている。
「劉表どん。蔡瑁どん。完成だー! こいつが関羽飯店名物の唐辛子スープ! しかも、唐辛子三倍増(当店比)! 辛いが、一度口にしたら癖になるから味わってくれ! 身体が丹田の奥から温まって、胃腸の働きも活発になるぜえ!」
まずはミズキ自身が毒味がてらにスープを飲みはじめた。
劉表は「ほおお。見事な腕前」と感服しながら、唐辛子スープを食した。辛い! 辛すぎる! なんだこの辛さは! と全身から汗が噴き出したが、なぜかこの激辛ぶりが心地良い。
「これほど汗をかいたのは久々ですぞ劉備どの! たるんでいた五体が目覚めたような! まるで戦場に立っているかのような!」
「そうだろうそうだろう。唐辛子には痩せる効果もあるんだぜ劉表どん。あんたは、ちょっとばかり痩せなきゃあ。長生きしてくれよ。わはははは」
が、蔡瑁は、おそるおそる一口スープを口に入れると同時に、「ぐはっ」と口から炎を吐いてその場に突っ伏していた。
「あれっ? さ、蔡瑁どーん!? そりゃ辛いだろうが、ちょっとばかり大げさだぜ?」
「……お、おのれ劉備……これは、毒殺料理……唐辛子の辛みで、殿を殺すつもりだったのだな……は、腹が……腹が痛い……この後、厠がおそろしいことになる予感……! 許さぬ!」
蔡瑁は、辛さに極端に弱い「甘党」男だったらしい。
うおおおおおおと悶絶しながら、タンカで運ばれていった。
と同時に、趙雲のもとに、いっせいに蔡一族の面々が押し寄せてきて、
「趙雲子龍ちゃんは、実に美しい!」
「ぜひともうちの息子の嫁に」
「わが家へ嫁に来ていただきたい」
と趙雲を取り囲んで酒を強要しはじめた。趙雲は「いや、私はお酒は」と遠慮し続けたが、蔡瑁がタンカで退場してくれて暗殺の危機は去ったと安心したミズキが「まあまあ。生真面目なのもいいけれど、断り続けるのも失礼だ。この時代の酒はアルコール度数が低いし、一盃くらいなら」と飲ませてしまった――ほんものの劉備なら、必ずこうする。
だが、この一盃で趙雲は完全に泥酔し、「ふわあ……」と床に倒れて眠り込んでしまった。
し、しまった! 完全無欠キャラの趙雲が、ここまでアルコールに弱いなんて!? とミズキが慌てていると、劉表に仕えている伊籍という若い男の文官が、
「劉備どの。蔡一族は、劉備どのが唐辛子で劉表さまや蔡瑁を暗殺しようとしたと思い込んでおります。今のあなたは丸腰。ただちに厩へ。急ぎ新野へとお逃げください」
とミズキにそっと耳打ちしてくれた。伊籍は、「荊州は学問と文化の国。劉備一家の武力なくして荊州は守れない」と信じる劉備シンパだったのだ。まったく、どこに行っても味方がいるんだから劉備さんはすげえや、とミズキはつくづく思う。
(かたじけない! しかし、趙雲を捨ててはいけない。俺の武の師匠なんだ)
(趙雲どのはしばし、この伊籍がお守りします。目覚めればただちに劉備どののもとへ駆けられるでしょう)
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