後桃園結義-9

 ミズキが「劉備さん。あなたの志は、俺が――!」と盃を空けた時には、すでに劉備の魂は、天に還っていた。安らかな寝顔だった。「後桃園結義」は、間に合ったのだ。

 劉備の臨終とほぼ同時に、趙雲が飛び込んできた。趙雲は寝室に入ると同時に劉備の死を感じ取り、「……劉備くん……」と痛ましげな表情を浮かべて固まってしまった。


 趙雲も、劉備を実の兄のように慕っていたんだな……関羽と張飛をこれ以上悲しませまいと耐えていたミズキが、思わず泣きそうになった。だが、泣いている場合ではなかった。なぜならば。

 趙雲が感情を押し殺し、武人としての「任務」を遂行したからだった。


「汝南へと曹操軍が攻め入ってきた。兵数も増強されているよ。この要塞ではとても保たない。もしも曹操に投降するのならば、今しかないよ。劉備くんが息を引き取ったと曹操に告げれば、皆殺しは免れるだろうし、関羽と張飛は将軍として取り立てられるはず。でも、もしも劉備くんの意志を継いで曹操と戦い漢王朝を復興する夢を捨てないというのならば、急いで落ち延びないと」


「なんだって!? 官渡で大敗した袁紹を捨てて、汝南まで曹操が……!?」


 信じられない! とミズキたちは寝室から飛びだして、物見櫓に登っていた。

 曹操軍だった。

 もう、要塞の目の前まで迫っている。

 しかも、関羽を追撃してきた時と比べて数倍の大兵力になっている。

 なんという電撃作戦。この「速さ」こそが曹操の強さの秘密。見た目のちっちゃさや、武人としての非力さという不利を、曹操の知謀・軍略は圧倒的に凌駕する次元にあるらしい。ミズキは震えた。


「趙雲。たった今、ミズキに影武者となっていただきました。表向きは『われらが主君・劉備玄徳』として接します。兄上は、曹操との戦いを継続するもしないもわれらの自由とお考えでしたが」


「ここで兄貴の志を捨てられるか! これほどそっくりな影武者が現れた以上、戦うに決まってるだろっ! さもなきゃミズキは関羽姉貴のおっぱいを揉んだ罪で肉まんの具だ!」


「……やっぱり、そういうことに、なったんだね。私も最後まで付き合うよ。でも、今は多勢に無勢だよ。逃げよう。この要塞に火を掛けて、劉備くんの遺体を燃やしてしまわないと……」


「趙雲、なにを言っている。そんな真似ができるか。こっちには影武者がいるんだ。このまま堂々と兄貴の弔い合戦だ!」と張飛が怒鳴り、関羽が「兄上の密葬もせず、ご遺体を焼き払っていくだなんて、とてもできません」と涙ぐんだ。趙雲も、厳しい言葉を口にしながらもその声は悲しみに震えている。


「……残念だけれど、劉備くんを密葬する時間は、もうない……劉備くんの死を気取られてはならない。それに、実際の指揮は関羽と張飛に任せるとしても、ミズキくんに総大将役を務めてもらうのは時期尚早。まずは、影武者として劉備くんになりきる修行をさせないとダメだよ。乗馬の訓練はもちろん、漢風の宴会での作法などを覚えてもらわないとね。今のままじゃあ、すぐにニセモノだとバレちゃうよ」


「理屈では、そうかもしれませんが」


「兄貴の遺体を焼いて逃げるだなんて、悔しい……妹失格だ……」


「……劉備くんの望みは、きみたち二人の妹に『生きて』もらうことだったはずだよ。だから、落ち延びよう。臥薪嘗胆、だよ」


「趙雲、一身これ胆なり」という劉備の言葉が、後世に残っている。趙雲は飄々としているが、冷静沈着。しかし、無感情というわけではない。むしろ内心では激する性格なのだ。その趙雲が、劉備の死という衝撃的な事態を前に、悲しみにくれている関羽と張飛を救おうと自ら汚れ役を買って出ているのだ。ミズキは、そんな趙雲の肩を「ぽん」と叩いていた。


「どんなに厳しい修行でも耐えてみせる。きっと、劉備さんの立派な影武者になってみせる。だから、今は脱出しよう――でも、どこに?」


 そう。

 袁紹陣営にはもう戻れない。官渡で勝った曹操の領土が拡大し、袁紹の領土と汝南の間に挟まっていて、逃げ道を完全に塞いでいるのだ。

 ましてや、すでに曹操の所領と化している徐州へ戻るなど、夢のまた夢である。

 この窮地を脱するために、劉備陣営では貴重な二人の文官――孫乾・簡雍が息を切らせて物見櫓に昇りながら具申してきた。


 孫乾は、幼い女の子で、曹操とは真逆のおっとりした雰囲気。いわゆる「妹」系だった。

 簡雍のほうは劉備と同い年くらいの少女だが、酒癖が悪いらしく、「ああ……幼なじみの玄徳が死んじまうなんて……最悪だ……あたしはもうおしまいだ……」と昼間から酔っ払っている。


「かかか簡雍、愚痴っている場合じゃないですよ。この孫乾に策がありますぅ。劉備さまの逃げ足の速さの秘訣は、孫乾にあり! もう袁紹さんの陣営には戻れませんが、劉備さまの死を伏せておけば、荊州の劉表さんのもとに亡命できます! 同じ劉一族、ですから! 実は影武者だとバレるまでは安全です!」


「ミズキ。孫乾に任せておけば、亡命を認められるはずです。彼は泣き落としが上手いのです。命乞いの達人なのです」

 と関羽がうなずく。彼? この孫乾って子、男の娘だったのか? と確認する暇はない。


 この孫乾が簡雍とともに先行して荊州へ入ります! いつもの調子で泣き落としてきまあす! 劉表さんとの対面までに、乗馬と礼儀作法を覚えておいてください! と孫乾はカン高い声で叫びながら、ミズキたちの前から風のように消え去っていた。「なんであたしまで。玄徳に最後の別れくらいしたかったぜ。ったく、乱世だなあ」と愚痴りながら簡雍も孫乾を追っていく。

 続いて、ミズキ、関羽たち主力陣も要塞から脱出した。

 もうぎりぎりまで曹操軍が迫っている。躊躇している時間はなかった。

 無人となった汝南の要塞が、炎に包まれていく。


「……兄上……お許しください。必ずや影武者ミズキとともに曹操と戦い、漢王室を復興させ、そして阿斗さまをもり立てて参ります。ご免……!」


「くそっ。あたし自身が死ぬよりも、兄貴に先立たれるほうがずっと辛い……さんざん大風呂敷を広げられるだけ広げて、勝手にくたばるだなんて……兄貴の馬鹿野郎……でも、泣いている場合じゃない! いいか、決死の逃避行になるぞミズキ!」


「行こう、ミズキくん。きみの背中は、私が守るよ」


「ああ。関羽。張飛。そして趙雲。今はまだ馬にもろくに乗れない俺だけれど、よろしく頼む!」


「んだよミズキ。兄貴が死んだんだぜ、遺体を焼いちまったんだぜ、もっと泣けよーっ!」


「俺だって泣きたいさ! だが号泣するのはあとだ、張飛! 曹操の追撃は厳しいぞ!」


 この度胸は、あるいは兄上に匹敵するかもしれません、もしかすると兄上が最後に遺された「影武者策」は上策だったのかも……と関羽は赤兎の後ろにミズキを乗せながら呟いていた。

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