彼はまだ気付いていない/オフィスラブ編⑤
月曜日。客先での商談を終えた
今日もかっちりスーツを着こなしている。眼鏡はもうしていなかったけど。
千颯の隣には先日エレベーターで会った若い男がいた。きっと直属の部下なのだろう。
千颯は仕事モードの顔で、部下と何かを話している。高校時代には見せることのなかった頼りがいのある表情を見て、「ああ、そういう顔もできるんやなぁ」と感心してしまった。
立ち止まって二人の様子をぼんやり眺めていると、不意に千颯と目が合う。すると仕事モードの顔をちょっとだけ崩して、穏やかに微笑んだ。
そのまま部下にバレないように小さく手を振る。その仕草を見て、胸がぎゅっと締め付けられた。
(またや……。またうち、千颯くんにドキドキしとる)
スーツのせい……と言いわけするのは、流石に無理がある気がしてきた。
*・*・*
仕事終わり。エレベーターに乗ろうとすると、千颯と出くわした。いまは一人だ。
「あ! 今日は2回も雅に会えた。ラッキー!」
千颯は子供のように笑った。雅は視線を逸らしながらエレベーターに乗り込む。
「はしゃぎ過ぎや」
本当はこっちだって嬉しいのに、素っ気ない態度を取る。千颯は一瞬だけ残念そうに目を細めたが、すぐに切り替えた。
「一緒に帰ろう」
「……うん」
そのお誘いには素直に従った。もう少し千颯と一緒にいたかったから。
駅までの道のりを並んで歩く。こうして二人で歩いていると、高校時代に一緒に下校していた時のことを思い出す。
あの頃は、他愛のない話をしながら笑い合っていたが、いまはそんな余裕はない。雅が黙っていると、千颯が話を振ってきた。
「そういえば、金曜の夜はさ、俺割と恥ずかしいこと言ってたよね」
「千颯くんは、好きな人の成分で出来てるって話」
「そうそれ。思い出すと痛いなぁ。真夜中のテンションって怖いわ」
千颯は自らの発言を恥ずかしがるように頭を抱えていた。その反応はちょっと可愛い。
「ええやん。千颯くんの語録に入れておけば」
「俺の語録って何!? そんなに名言連発してないと思うけど」
「そやねぇ。他に何かあるかなぁ」
「思い出さなくていいから!」
思わず笑ってしまう。今日は自然と会話ができた。
気が緩んだせいか、足元が疎かになる。地面のちょっとした溝にヒールが引っかかって、グラっとよろけてしまった。
「ひゃっ!」
「危ない!」
倒れそうになったところを、千颯に抱き寄せられる。コトンと千颯の胸に倒れ込んだ拍子に、ふわっと男物の香水の匂いを感じた。
こんなのは高校時代だったらあり得ない。大人の色気にやられてクラっとしてしまった。
千颯は雅の肩に手を添えながらこちらを見下ろす。
「大丈夫? 気を付けなよ。ヒールが高すぎるんじゃない?」
事故とはいえ、通常では考えられないほどに距離が縮まり、軽くパニックになる。それにも関わらず、千颯は余裕そうだった。
千颯の温もりと匂いに包まれていると、ふと先日の愛未の言葉を思い出した。
『いまの千颯くん、夜の方も結構上手いよ。だから雅ちゃんも満足できるはず』
カアアと顔が熱くなる。愛未はなんてことをバラしているんだ。いくら元カノだからって、言って良いことと悪いことがある。
愛未への憤りを感じていると、千颯は心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫、雅?」
至近距離で目が合って、バッと千颯から離れた。
「平気や、気にせんといて!」
そのまま千颯を置いて、スタスタと歩き出す。
愛未のろくでもない発言に呆れる一方で、ほんの少しだけ気になってしまう自分もいた。
「待ってよ、雅」
後から追いかけてきた千颯は、雅の手を掴んだ。そのまま指を絡ませる。
「捕まえた」
いつものように穏やかに微笑む千颯。その笑顔を見ながら、雅はろくでもない想像をしてしまった。
こんなに優しそうに笑う男が、そういう場面になったらどんな表情をするのか……。想像した途端、お腹の下あたりがほんの少し疼く感覚になった。
雅はその場で立ち止まる。
「千颯くん」
「ん? なに?」
「ええよ」
「何が?」
「だから、一緒に温泉に行っても」
「え?」
千颯は口を開けてポカンとしている。
「本当にいいの? なんで急に?」
なんで、なんて正直に明かせるはずがない。咄嗟に適当な理由をでっち上げた。
「たまにはうちも息抜きしたいなぁって思ったんや」
千颯はいまだに信じられないと言わんばかりに固まっている。ついこの間は行かないと断ったのだから当然の反応だ。
初めは驚きの方が強かったが、徐々に嬉しさがこみ上げてきたようで、
「そっか、わかった! じゃあ後で宿の候補を送るね。いやぁ、楽しみだなぁ」
千颯は子供のようにはしゃいでいた。無邪気な笑顔を見ていると、ちょっと後ろめたい気分になる。
もちろん、そういう目的で誘いを受けたわけではない。婚前交渉は禁止というのは過去に千颯にも伝えている。ただ、いまとなれば絶対というわけではないけど……。
万が一、そういう展開になったとしても、千颯とだったら後悔はしない気がした。
ここ最近の出来事で分かったことがある。
千颯を見ているとドキドキしてしまうこと、ほかの誰にも渡したくないと思ったこと、千颯とだったらそういうことをしてもいいと思ったこと、それらを全部ひっくるめると、いまの感情に説明がついた。
(うちは千颯くんのことが好きなんやなぁ)
見上げると夜空には金色の満月が浮かんでいる。雅は繋いだ手とは反対側で月に手を伸ばした。
「今日は月が綺麗やなぁ」
千颯もつられて夜空を見上げる。それから何の気なしに頷いた。
「うん。そうだね」
やっぱりこの男は何も分かっていない。そういうところは変わっていないらしい。
この気持ちが通じるのは、もう少し先になりそうだ。
◇◇◇
最後までお読みいただきありがとうございました!
「面白かった」「他の番外編も読みたい」と思っていただけたら、★で評価いただけると嬉しいです。
♡や応援コメントもいつもありがとうございます。
次回からは雅から愛未にバトンタッチして「ちはいみ編」がスタートします。
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