もう誰にも譲らない/オフィスラブ編④

 翌朝。ホテルをチェックアウトしたみやびは、京都に帰るため駅へ向かっていた。人の流れに沿うように、ビルが立ち並ぶ大通りを歩く。


 すると、背後から名前を呼ばれた。


「あれー、もしかして巷で話題の京社長、相良雅さんじゃないですか?」


 一瞬で仕事モードに入る。動画配信で顔出しをしていることもあり、街中で声をかけられることは珍しくなかった。東京だったら人の多さに紛れて気付かれないと思ったけど、甘かったようだ。


 雅は笑顔を浮かべながら、声を掛けられた方向へ振り返る。


「はい、いつも応援ありがとうございます」


 振り返った瞬間、雅は笑顔を引っ込めた。そこにいたのは意外な人物だったからだ。


 黒髪ショートカットに黒のパンツスーツ。カッコよさと色気が共存した女性がそこにいた。この人物を雅は知っている。


愛未あいみちゃん?」


 髪が短くなっていたから一瞬分からなかったけど、かつての面影を残している。意思を感じさせる黒目がちな瞳は、あの頃のままだ。


 名前を呼ぶと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「久しぶりだね、雅ちゃん」

「ほんまやねぇ」


 まさか愛未と再会できるとは思わなかった。なんという巡り合わせだ。


「こんな偶然ってあるんだね。仕事に行く途中で見慣れた後ろ姿を見かけたからもしかしてって思ったら、本当に雅ちゃんだった」

「うちのこと覚えてくれてたんやな」

「当たり前だよ。忘れるわけがない」


 それはいい意味でなのか、悪い意味でなのかは気になる。とはいえ、愛未と再会できたのは素直に嬉しかった。


「元気やった? 警察官になったんやろ?」

「元気だよ。まあ、ちょっと前までは失恋で落ち込んでたけどね」


 失恋と聞いて胸がチクリと痛む。言葉に詰まらせていると、愛未はサラッと事情を明かした。


「私ね、千颯ちはやくんと別れたんだ。ごめんね、せっかく雅ちゃんに譲ってもらったのに、結局私じゃ千颯くんを幸せにできなかった」


 愛未からは悲壮感が滲んでいない。もう未練なんてないような口ぶりだった。


 そっちから事情を明かしてきたのなら、こちらも伝えなければならない。雅は意を決して伝えた。


「うちな、愛未ちゃんに言わなあかんことがあんねん」

「ん? なに?」


 黒目がちな瞳に真っすぐ見つめられる。緊張が走ったが、気を強く持った。


「うちいま、千颯くんと同じビルで働いとる」

「え?」


 愛未の表情から笑顔が消える。放心したように雅を見つめていた。


「ほんまに偶然やで? 偶然千颯くんの会社が、うちの会社と同じビルに入っとったん」


 どんな反応をされるのか恐かった。身構えていると、端的な質問が飛んできた。


「それだけ?」

「え?」

「千颯くんと同じビルで働いているだけ?」


 鋭いところを突いてくる。察しの良いところは相変わらずらしい。


 正直に告げるのは怖い。だけど隠すのはフェアじゃない気がした。傷つけるかもしれないと分かっていながらも、雅はいまの状況を伝えた。


「千颯くんからは好きだって言われた」


 怖くて愛未の顔が見られない。雅は視線を落として反応を待った。


 沈黙が流れる。人の足音、車の音、信号の音がやけに遠くに感じた。気が遠くなるような感覚に襲われる。人混みの中にいるというのに、雅と愛未の二人だけの空間で話しているような気分だった。


 しばらくすると、はなを啜る音が聞こえる。顔を上げると、驚くことに愛未は泣いていた。その瞬間、自分がとんでもない間違いをしたことに気付いた。


「こんなん愛未ちゃんに言うことやないな。悲しい思いをさせてごめん」


 愛未の涙を収めたくて、必死に謝る。すると愛未は大きく首を振った。


「違うの、悲しくて泣いてるんじゃないの」

「そんならどうして……」

「嬉しいの」


 嬉しい。そんな言葉が出てくるのは意外だった。呆然としていると、愛未は涙混じりに続けた。


「私にはできそうになかったから。千颯くんのお嫁さん。正しい家庭の作り方を知らない私じゃ、きっと千颯くんを不幸にする」


 正しい家庭の作り方という言葉から、過去の家庭環境が起因していることが伝わった。愛未は涙ながらに続ける。


「別れてからも、ずっと心配だったんだ。千颯くんがもう二度と恋ができなくなっていたらどうしようって。本当は誰かと一緒にいたいのに、ずっと一人だったらどうしようって心配していたの……」


 愛未は鞄から取り出したハンカチで涙を拭う。それから清々しいほどの笑顔を浮かべた。


「でもそっか。雅ちゃんにもう一度恋ができたんだね」


 安堵したように大きく息を吐く。それから深々と頭を下げた。


「千颯くんのこと、よろしくお願いします」

「愛未ちゃん……」

「雅ちゃんにだったら、安心して任せられる。千颯くんのこと、幸せにしてあげてください」


 その言葉からは、溢れんばかりの愛を感じた。千颯への感情は、過去のものとは思えないほどに。


「愛未ちゃん、もしかしていまでも千颯くんのこと」


 みなまで言わずとも伝わった。そしてあっさりと肯定された。


「もちろん好きだよ。多分この先もずっと好き。それだけは変わらない」

「だったら」


 復縁すればいい。そう言いかけた唇を、そっと指先で制された。


「それ以上は言わないで」


 そんな態度を取られたら何も言えなくなる。愛未はもう、復縁の意思はないように思えた。


 雅が戸惑っていると、愛未はにやりと笑いながら話した。


「千颯くん、結構いい男になってたでしょ?」


 唐突な問いかけに戸惑う。一瞬言葉に詰まらせたが、すぐに頷いた。


「そやな。高校時代と比べると、見違えるほどカッコよくなった」

「ふふっ、私が10年かけて調教したからね」

「調教って、凄い言い方やなぁ」


 物々しい言い方に思わず笑ってしまう。だけど調教と言われてしっくり来ている部分もある。いまの千颯がカッコよく見えるのは、愛未の助力があってのことだろう。


「いまの千颯くんなら、雅ちゃんにも自信を持っておすすめできるよ」

「おすすめって、なんや商品みたいやな」


 本人がいないのを良いことに言いたい放題だ。だけどこういうガールズトークも結構楽しい。


 すると愛未は、悪だくみするようににやりと笑った。


「そうだ。イイコト教えてあげる」

「イイコト?」

「うん、ちょっとだけ耳貸して」


 素直に耳を貸すと、愛未からこそっと囁かれた。その内容があまりに過激で、雅は思わず顔を真っ赤にした。


*・*・*


 その後も愛未と少し会話を交わしてから別れた。せっかくならお茶でもしてゆっくり話したかったが出勤前だからそういうわけにもいかないらしい。駅前で「ばいばい」と手を振りながら別れた。


 雅はいま、新幹線に乗っている。頭の中では、先ほどの愛未の言葉が巡っていた。


 自分では幸せにできないと言っていた愛未。雅に言わせてみれば、そんなのは誤解だ。


 過去がどうであれ、幸せな家庭を築くことはできる。お互い話し合えば、解決策も見つかるような気がした。


 高校時代のように自分が間に入れば、二人の関係を取り持つことができるかもしれない。愛未はいまでも千颯のことが好きなのだから、復縁した方が幸せだろう。


 千颯だって、愛未の想いを知ったらきっと……。


 ふと、千颯と愛未が寄り添う姿が脳裏に過る。その瞬間、言いようもない嫌悪感に襲われた。胸を掻きむしりたくなるような切なさも押し寄せてくる。


 昨日好きだと伝えてくれた千颯が、愛未に愛を囁く姿を想像すると堪らなく苦しくなった。


 二人に話し合いの機会を設けて、お互いの誤解を解くことは多分できる。だけどそれをしたいのかと考えると、躊躇ってしまう。


 愛未と再会するまで、こんなことを思うことはなかった。だけどいまは、はっきりと言える。


 もう、手放したくない。復縁なんてさせてあげたくなかった。


(ずるいなぁ、うちは……)


 新幹線に揺られながら、雅は溜息をつく。だけど不思議と頬は緩んでいた。


 本当に欲しいものはもう譲らない。優しさを切り捨てて、欲しいものを掴む覚悟を持てたことに、ちょっとだけ誇らしく思えた。

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