突然のお誘い/オフィスラブ編①

これは千颯ちはやみやびが温泉旅行に行く少し前のお話――。




「はあああ? 何考えとるん、あの男はっ」


 京都の中心地にあるオフィスビルの3階で、相良さがらみやびはスマホを片手に叫んだ。突如社長が大声を上げたことで、スタッフたちは一斉にデスクに注目する。


 いまの時刻は12時10分。昼休み中とはいえ、突如叫び出すのは不可解な行動だった。


 不審がるスタッフを代表するように、副社長の倉科くらしな由紀ゆきが雅に近寄る。


「社長、どうされました?」


 呆れたようなニュアンスで呼びかけられると、雅は慌てて笑顔で取り繕った。


「ごめんなさい! お気になさらず!」


 周囲に笑顔を振りまくと、何事もなかったかのようにサンドイッチを齧る。由紀は依然として不思議そうな表情をしながらも、自分のデスクに戻っていった。


 周囲の様子を伺いながら、雅はもう一度スマホを開く。そこには、雅を取り乱すのに十分に値するメッセージが映っていた。


『今度泊りで温泉に行かない? 行きたい場所があるんだ』


 送り主は藤間ふじま千颯ちはや。3ヶ月ほど前に再会してから、連絡を取り合うようになっていた。


 食事や映画のお誘いならまだしも、温泉はない。付き合っているとも断言しがたい状態で温泉に行くなんてありえない。一体何を考えてるんだ。


『行くわけないやろ』


 雅が返信すると、すぐにシュンとした犬のスタンプが返ってきた。素っ気なく断ったものだから、がっかりさせてしまったのかもしれない。


 一瞬千颯に同情してしまったが、すぐに考えを改める。


(泊まりなんて絶対あかん。良からぬ事が起こるに決まっとる)


 相手が女友達だったら意気揚々と「行く」と返事をしていたが、今回はそうではない。自分に好意を持っている男からの誘いだ。下心があって誘ってきているに違いない。


 そう考える傍らで、千颯がそれだけの目的で誘ってきているとは思えない自分もいる。というのも、千颯の距離の詰め方は、雅が想像していた以上にゆっくりだったからだ。


 再会した当初は、高校時代には見せなかった押しの強さに驚かされた。ご飯に行こうだの、デートしようだの矢継ぎ早に誘われて、ちょっとパニックになった。


 ようやく巡り巡ってきたチャンスを逃さない。そんな意気込みすら感じさせた。


 だけど押しの強さを感じたのはそれっきりで、以降は急いで距離を詰めるような素振りはなかった。仕事終わりに食事に行った時も、本当に食事をしただけ。


『じゃあね、雅』


 帰り際に呑気に笑いながら手を振る姿は、高校時代と何一つ変わらなかった。


 だけど油断は禁物。その翌週に約束した休日デートでは、何らかのアクションに出るかもしれないと警戒していた。


 だけどその日もカフェでお喋りしただけ。『この後俺の家に来る?』なんてお誘いを受けることもなかった。


 以降もずっとそんな感じだ。普通に楽しく過ごして、サラッと解散して終わる。


 別に期待しているわけじゃないけど、正直拍子抜けした。お互いもう大人なんだから、もう少し緊張感のある空気になったっておかしくはない。


 相手が高校時代の千颯だったら、単純に踏み出す勇気がないのだろうと片付けられたが、恋愛経験を積んできたいまはそれは考えにくい。


 多分、踏み出しすぎないようにブレーキをかけられているのだろう。こっちの恋愛経験のなさを見透かされたような気がして、なんだかちょっと恥ずかしい。


 とはいえ、何もしてこないというわけではない。デートの別れ際、千颯から不意に手を繋がれることはある。


 物寂しそうな眼差しで指を絡められると、息が止まりそうになる。本当に心臓に悪かった。


 そんな付かず離れずの状態だったから、いきなり温泉に行こうと誘われたのは驚きだった。一気に距離を詰められて、どうしていいか分からない。


 雅だって千颯のことをもっと知りたいし、一緒に旅行したら楽しいだろうとは思う。だけどそれ以上のことが脳裏に過って……。


(あかんあかんあかん)


 雅は椅子から立ち上がって不埒な考えを追い払った。温泉、泊まりというワードは強烈過ぎる。どうしたってよからぬことを考えてしまった。


(頭冷やすために外の空気吸いに行こ)


 小さく溜息をつきながら雅はオフィスから出た。


*・*・*


 8階、7階、6階、とエレベーターが降りてくるのを待つ。チカチカと点滅する数字を目で追っていると、3階で止まった。


 扉が開いて乗り込もうとした瞬間、問題の男が乗っていることに気付く。数名が乗り込んでいるエレベーターの奥に千颯もいた。思わず雅は固まる。


 向こうもすぐにこちらの存在に気付き、小さく会釈をした。他人行儀な態度を取っているのは、傍に部下がいるからだろう。


「乗らないんですか?」


 開けるボタンを押していた若い男に声をかけられる。そこで雅は慌てて笑顔を取り繕った。


「乗りますっ」


 そのまま千颯とは対角の位置を陣取った。チラッと背後に視線を送る。それだけで心臓が暴れまわって仕方ない。


 こんなに取り乱しているのは、千颯がスーツを着ているのが悪い。制服のイメージしかなかった千颯が、スーツを着ているのに見慣れないから戸惑っているだけだ。きっとそうだ。


 そのうえ今日は、眼鏡までかけている。それも良くない。高校時代は眼鏡なんて一度もしていなかった癖に。


 大人っぽくてカッコいい……なんて思ってしまった自分に気付き、カアアと顔が熱くなった。


(これはあれや、ギャップにやられてるだけや。千颯くんにときめいてるわけやない)


 頭の中で言いわけをしていると、不意に千颯と目が合う。するとふわっと控え目に微笑みかけられた。


(なんなんその笑顔! 反則や!)


 もう、どうにかなってしまいそうだった。


 1階に到着すると、先頭から順々にエレベーターから降りていく。最後に降りようと待っていると、千颯が若い男に声をかけた。


「佐藤くん、先に降りてて」

「え? なんでです?」

「いいから」


 不思議そうな顔をしながらも、佐藤と呼ばれた男はエレベーターから降りていった。そうなると、エレベーター内には雅と千颯の二人きりになる。気付いた時には、扉が閉まっていた。


(なんや、この状況!?)


 冷静を装いつつも脳内ではパニックになっていると、千颯が申し訳なさそうに声をかけてきた。


「雅、さっきはごめん」

「……なにが?」

「だから、急に温泉行こうなんて誘って」


 そこで千颯が先ほどのLIENの件で謝っていると気付いた。雅は慌てて話を合わせる。


「流石にそれはあかんて。そんなん言われても困る」

「そうだよね。困るよね」


 千颯は先ほど送られてきた犬のスタンプのようにシュンとしていた。フォローをしてあげたいけど、適切な返しが思い浮かばない。気まずい空気を埋めるようとすると、どうでもいい話題を上げていた。


「というか、なんやの、その眼鏡」

「これ? ブルーライトカットだけど?」


 千颯は眼鏡を気にしながら指先でフレームを押し上げる。そんな些細な仕草さえもカッコよく見えてしまうから、もう重症だ。


「カッコつけやな」


 つい素っ気ない反応をしてしまう。「カッコええなぁ」なんて褒めてあげればスマートなのに、いまはとてもできそうにない。千颯のことを意識する前だったら、何の気なしに口にできただろうに……。


「そっか、雅には不評だったか」


 千颯は残念そうに眼鏡を外した。


 別に外す必要なんてなかったけど……なんだか申しわけない。気まずさで視線を落とすと、千颯はふと思い出したように尋ねた。


「そうだ雅。今週の金曜って空いてる?」


 予定を確認すると、すぐに埋まっていることに気付く。


「あかん。金曜は東京出張や」

「そっか、残念」


 またしても残念そうな顔をさせてしまった。でもこればっかりは仕方がない。


「また誘うね」


 千颯は爽やかな笑顔でそう告げると、エレベーターの開くボタンを押した。


「じゃあまた」


 控えめに微笑みながら、千颯はエレベーターから降りていった。そのまま先ほどの若い男と共にエントランスから出て行った。


 取り残された雅は、重い足取りでエレベーターから降りる。


 ここ最近、千颯にドキドキさせられっぱなしで、ペースを乱されている。こんなのはいつもの相良雅ではない。


 こんな風に千颯を意識したのは高2の文化祭以来だ。あの時の感情が少しずつ蘇ってきている。


 一度冷めきった感情が再熱するなんて想像すらしていなかった。この気持ちにはとっくの昔に決着を付けて、ほとんど思い出すこともなかったのに。


 だけどあの時の感情が蘇ったからと言って手放しで喜ぶわけにはいかない。その先に味わった痛みは、いまでも鮮明に覚えているから。


 あんな思いをするのは二度とごめんだ。傷つきたくない。


 だからこそ、千颯の感情を受け止めきれずにいた。


◇◇◇


ちはみや番外編がスタートしました。1日1話更新、全5話予定です。

本作はカクヨムコンにエントリーしています。「そういえばまだ評価してなかった」という方は、この機会にぜひ★で応援頂けると嬉しいです!

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