欲しかったもの/温泉旅行編⑤
(※性的描写あり。ガイドラインを逸脱しないように配慮はしていますが、苦手な方はご注意ください)
布がこすれるような音が聞こえて、
部屋の中はまだ暗い。夜明けにはまだ早そうだ。
物音を立てないように注意しながら寝返りを打つ。次の瞬間、信じられない光景が視界に飛び込んできた。
オレンジ色の淡い間接照明だけが灯る部屋の中で、
帯を失った浴衣は、襟元から緩んでいく。はだけた着物からは真っ白なキャミソールが覗いていた。
突然の出来事に千颯はパニックになる。
(待って。なんで脱いでるの?)
これは一体どういう状況だ? 寝ぼけた頭は、すっかり覚醒していた。
いま騒いだら確実に事故が起きる。千颯は寝たふりをしながら様子を窺った。
雅は綺麗に畳んだバスタオルを用意する。一瞬だけチラッとこちらの様子を伺ってから、雅は浴衣の襟元に手をかけた。
(嘘……脱ぐの? いまここで?)
心臓は破裂しそうなほどに大暴れしている。千颯の心中を知る由もない雅は、ゆっくりと浴衣を脱ぐ。すると真っ白なキャミソールが露わになった。キャミソールの下は、見えそうで見えない。
少し開いた襖から月明かりが差し込んでいる。レースがあしらわれた真っ白なキャミソールをまとった彼女は、夜に舞い降りた天使のようだった。気付かれたら、羽を広げて飛んでいってしまいそうな危うさがある。
千颯は起きていることがバレないように息を潜める。
それから雅は、ポーチからゴムを取り出して髪をまとめた。そのまま簡易的なお団子を作る。
薄目を開けながら見守っていると、雅はキャミソールの裾に手をかけた。そのまま上にたくし上げると、上下揃いの下着が露わになった。
これ以上は見てはいけない。本当は見たかったけどなんとか堪えた。ぎゅっと目を瞑りながら寝たふりを続行する。
するすると布がこすれる音が聞こえる。目の前で好きな人が裸になっているという事実だけで、頭がおかしくなりそうだった。
カラカラと戸が開く音が聞こえる。しばらくすると、ポシャンと水音が聞こえた。
そこで千颯は目を開ける。部屋の中に雅はおらず、襖の向こう側から影が見えた。
(なんだ、部屋の露天風呂に入りたかったのか)
ようやく雅が服を脱いでいた理由が発覚した。千颯が寝た隙に、こっそり露天風呂を楽しもうという算段だったのかもしれない。
それにしたって無防備過ぎる。もしこちらが起きていたらどうするつもりだったんだ。まあ、実際起きているんだけど。
詰めが甘い雅に苦笑しながらも、千颯は布団に入ったまま外の様子を窺った。できることならご一緒したかったけど、そんなことをすれば確実に嫌われる。ここは大人しく布団にくるまっているしかなかった。
とはいえ、襖を挟んだ向こう側で雅が風呂に入っている状況は色々マズい。こんなシチュエーションで興奮するなという方が難しかった。
だけどいまは、布団の中でじっと耐えることしかできない。こんなのは拷問だ。悶々としている中、露天風呂から呑気な歌声が聞こえてきた。
「迷子の迷子の千颯くん~。あなたのお家はどこですか~」
突然の出来事で、千颯はぽかんと口を開ける。
(急にどうした? もしかして雅は、風呂で歌を口ずさむタイプなのか?)
雅の歌を聞いたのは初めてだったけど、透き通った優しい歌声だった。歌っているのは、童謡の替え歌だけど。疑問を募らせながらも歌に耳を傾ける。
「お家を聞いても分からない、名前を聞いても分からない~」
流石にそれは見くびりすぎだ。高校時代の千颯くんだって住所と氏名くらいはちゃんと分かる。
「にゃんにゃんにゃにゃーん、にゃんにゃんにゃにゃー、なーいてばーかりいる千颯くん」
やばい、物凄く可愛い。にゃんにゃんは反則だ。千颯は布団の中で悶えていた。
「いっぬっの~、お巡りさん……」
そこまで歌うと、急に止まった。
(どうしたんだろう? その先を忘れたのか?)
バシャンと水音が聞こる。物音を立てないように気を付けながら様子を窺っていると、小さな呟きが聞こえた。
「うちでええんかな……」
その言葉を聞いた瞬間、歌が止まった理由が判明した。多分雅は、あの子のことを思い出してしまったのだろう。
もし過去を何一つ知らない状態で雅と出会っていたら、悩むことはなかったのかもしれない。元カノの存在はただの情報として捉えるだけで、受け流せたと思う。
だけど雅は全部知っている。千颯があの子をどれだけ好きで、大事に思っていたのかを。10年という月日をあの子に捧げていたことも全部知っている。だからこそ、比べてしまうのだろう。
そんな思いをさせてしまうのは本当に申し訳ない。
雅がいい。
本当はいますぐ露天風呂に駆け出して、そう叫びたかった。だけどそんなことをするわけにはいかない。息苦しさを感じながら、布団の中でじっと耐えていた。
しばらくすると、バシャンとひと際大きな水音が聞こえた。風呂からあがろうとしているのかもしれない。
千颯は再び、ぎゅっと目を閉じる。カラカラと戸が開くと、控えめな足音が聞こえた。
イケナイと思いつつも、うっすらと目を開ける。部屋の中にはバスタオルを巻いた雅が佇んでいた。
早く服を着てくれ、と念じていると、あろうことか雅がこちらに近付いてきた。慌てて目を瞑る。
目を閉じているから何が起きているか分からないが、顔の辺りで風を感じる。起きているか確かめるため、顔の前で手を振っているのかもしれない。ここでバレるわけにはいかない。千颯は必死に寝たふりをした。
次の瞬間、何の前触れもなくソレは起こった。
「好き」
千颯はぱちっと目を開く。頭上からこちらを見下ろしていた雅は、ハッとしたように息を飲んだ。千颯が突然目を覚ましたことに驚いているのだろう。
「雅、いまなんて?」
聞き間違いではないことを確かめるべく、追求する。心臓の音は外にも聞こえそうなほどに激しく鼓動していた。
「なっ……なにも言っとらん! 夢でも見とったんちゃう?」
「いや、はっきり聞こえた。好きって」
「そんなん言っとらん。聞き間違いや」
「そんなはずはない」
「すき焼きって言ったんや。夕飯のすき焼きが美味しかったって」
「ああ、もう、往生際が悪いなぁ」
千颯は雅の手首を掴み、布団に引き寄せる。体勢を崩した雅は布団の上に倒れこんだ。その拍子に、バスタオルがはらりと剥がれた。
一瞬肌が見えたが、すぐに掛布団を引き寄せて身体を隠す。こちらを見上げる瞳は、僅かに潤んでいた。
「千颯くん、あかんて。お布団が濡れちゃう」
「そんなのはどうでもいい」
雅は風呂上がりの濡れた身体で布団に包まっていることを危惧しているようだけど、そんなのはもはやどうでもいい。雅を逃がさないように布団の上で両手首を掴みながら追求した。
「好きって言ったよね?」
「言っとらん」
「素直に白状しないとキスするよ?」
そう脅迫をすると、雅は目を見開きながらわなわなと震えた。しばらくは視線を泳がせながら悩む。
しばらくはだんまりを決め込んでいたが、追求からは逃れられないと悟ったのか、小さな声で白状した。
「言いました……」
胸の内がくすぐられるような感覚になる。嬉しさでどうにかなってしまいそうだった。
10年かけてようやく好きって言葉を聞けた。本音をひた隠しにする雅からこの言葉を引き出すのは容易ではなかった。
だけど、やっと叶った。
仕草や表情で好意は何となく伝わってきたけど、言葉にされた時の安心感は計り知れない。独りよがりだった片想いから、ようやく両想いになれた気がした。
それでもまだ心は満たされていない。もっと満たしてほしくて、千颯はもう一度引き出そうとする。
「ねえ、もう一回言って」
不意打ちで言われた言葉だけじゃなく、真っすぐ目を見て言われたかった。
「やだ」
「そこを何とか」
「あかん、恥ずかしい」
眉を顰めながらそっぽを向く雅。彼女から本音を引き出すのは、本当に容易ではない。
好きという言葉を引き出したくて、千颯は胸の内に秘めた弱さを明かした。
「本当はさ、ずっと不安だったんだ。余裕があるように見えるかもしれないけど、実は全然そんなことはなくて、迷惑に思われてるんじゃないかって心配で……。ただでさえ、高校時代は散々雅を傷つけてきたから」
好きにさせてやると意気込む自分がいる一方で、いまさら無理だろと後ろ向きになる自分もいた。雅と再会したばかりの頃は前者の方が優勢だったけど、最近は後者に傾き始めていた。
だからこそ安心したかった。愛されていることをちゃんと自覚して、堂々と雅の隣を立っていたかった。
弱気な千颯の心を知った雅は、小さく首を左右に振る。
「迷惑なんかやない」
色素の薄い瞳は、真っすぐ千颯を見据えていた。少しの間が空いた後、雅は意を決したように告げた。
「うちは千颯くんが好き。人の気持ちに寄り添える、優しい千颯くんが大好き」
心の中が満たされていく。それどころか、許容量を超えて溢れ出した。
こうなってしまっては、もはや自分の中だけでは処理しきれない。溢れ返った愛おしさを注ぎ込むように、雅の唇にそっとキスをした。
しっとり柔らかくて、心地いい感触が伝わる。一度離して様子を窺うと、雅はびっくりしたように目を丸くしていた。突然のことで驚かせてしまっただろう。
「ごめん、急に」
咄嗟に謝ると、雅はふるふると首を振った。その反応で拒絶されているわけではないと分かる。
受け入れられていると知り、もう一度唇を重ねる。先ほどの触れるだけのキスとは違って、少し長めに触れ合った。
薄目を開けて反応を確かめると、雅は感覚に浸るように目を閉じている。その姿に余計に刺激された。
優しくしなければという気持ちはあるけど、溺れさせてあげたいという欲求も湧き上がる。もっと距離が近くなるように、雅の後頭部に手を添えてから再びキスをした。
チュっと軽い音を立てながらキスを繰り返すと、脱力したように口元が緩む。そこで舌を忍ばせて、深くキスをした。
もう何も考えられなくなるくらい溺れてしまえばいい。いっそのこと、このまま窒息したって構わない。
だけど流石にそこまでは許してもらえなかった。肩を掴まれて、強引に引き剥がされる。雅は浅い呼吸を繰り返しながら、熱の籠った瞳でこちらを見つめた。
「嘘つき」
「なにが?」
「白状したのにキスした」
「俺は白状しないとキスするよって言ったんだ。白状したらキスしないとは言ってない」
「そんなん屁理屈や!」
ズルい大人を責め立てるように、雅は千颯の胸を叩く。その反応も可愛くて仕方がない。雅はこちらを咎めるように目を細めながら抗議を続けた。
「それに、あんなんうちの知ってるキスやない」
「あんなんって」
「その……中まで入れるなんて……」
雅は恥ずかしそうに両手で顔を隠した。キスひとつでこんなに初々しい反応が見られるとは思わなかった。
「あれだってキスだよ。大人のキス。もしかして初めてだった?」
さりげなく尋ねると、今度は掛け布団で顔を覆ってしまった。そのまま言葉にならない悲鳴を上げる。その反応がおかしくて、千颯は吹き出すように笑った。するとやや潤んだ瞳で睨まれる。
「そや。こんなん初めてや。こんなふしだらなことをするんは千颯くんくらいや」
「ふしだらって……」
思わず苦笑してしまう。雅の恋愛経験は、千颯が想像していたよりずっと浅いのかもしれない。それは千颯にとっては喜ばしいことだ。
「そっか、俺が初めてなんだ。嬉しい」
嬉しさが表情から滲み出ている千颯を見て、雅は恥ずかしそうに顔を歪める。相当動揺していたのか、言いわけするように雅は本音を明かした。
「全部千颯くんが初めてや。キスをしたいと思ったのも、男の人と泊りで出掛けてもいいと思ったのも、そういうことをしてもいいと思ったのも、全部全部初めてやし、こんな風に思ったのも千颯くんだけや」
ああ、もう雅には敵わない。そんなことを言われたらもう我慢なんて利かなくなる。千颯は掛布団を一気に引き剥がした。
「ひゃっ……」
驚き悲鳴を漏らす雅。一糸纏わぬ姿になった雅を強く抱きしめた。
「ごめん。本当はもっと余裕のある態度で接したかったんだけど、もう我慢できそうにない」
「我慢できそうにないって……」
「嫌だったら、途中で止めてもいいから」
結婚するまで手を出さないというルールを守るつもりだったのに、目の前の彼女を見ていたらそんな理性も吹き飛んでしまった。
雅は石のように固まったまま、おずおずと尋ねる。
「途中って、どこまで?」
「それは雅が決めていい。ちゃんと拒まれれば踏み留まれると思うから。いまの段階で無理だっていうなら、引き剥がしてくれてもいい」
逃げ道はちゃんと作っておく。強引にはしたくなった。ちゃんと雅の意思を尊重してあげたかった。
それでも雅からは拒絶されなかった。動けなくなっているだけかとも懸念したが、そうではない。雅はおずおずと千颯の背中に腕を回した。
「ええよ」
「え?」
「その……しても……」
許可された。嬉しさが溢れ返って抱きしめる力を強めた。
「ありがとう。けど、本当に嫌だったらちゃんと拒んでね。そうじゃないと」
「と?」
その先を促すように尋ねられる。千颯は雅の耳元に顔を埋めながら、欲にまみれた本音を明かした。
「最後までしちゃうと思うから」
結局のところ、優しいだけの王子様なんてどこにも存在しない。好きな相手を前にすれば、誰だって欲にまみれた雄になる。
その姿を見て、蛙化してしまう人がいるのも頷ける。多分それも、危機を回避するための人間の本能だから。
それでも彼女は欲望も含めて全部受け入れてくれた。その瞬間、本当の意味で通じ合えた気がした。
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