二人だけの思い出/温泉旅行編②

「はあああ。海と空を一望できる超絶景の露天風呂……なのになんで一人で入っているんだろう」


 部屋に荷物を置いた後、二人はすぐに大浴場に向かった。当然のことながら一緒に入れるわけもなく、雅とは一度別行動を取ることになった。「じゃあ、またあとでな~」とウキウキしながら女湯に入る雅を見送りながら。


 大浴場の露天風呂は、眺めも湯加減も何から何まで最高だ。おまけに先客はおらず独り占め。だけど一人というのは味気なかった。


みやびと一緒に入れたらなぁ)


 一人になると、ついふしだらな妄想してしまう。高校時代の千颯ちはやだったら、そんな妄想をするだけで顔を真っ赤にして罪悪感に苛まれていたが、いまとなってはそこまで狼狽えることはない。


 見て触れたいと思ってしまうのは当然の心理だ。本気で惚れている相手なら尚更。


(もう出よう。一人でいると余計なことばっかり考えちゃう)


 のぼせる前に千颯は風呂から上がった。


*・*・*


 浴衣に着替えてからスマホを開くと、なぎからLIENが入っていることに気付く。


『雅さんによろしく。お土産もよろしく』


 ちゃっかりお土産まで催促してくる妹。言われなくても買うつもりだったけど、わざわざ催促されると何だか腹が立った。それでも結局買うんだけど。


 千颯は館内にある土産物屋で、日持ちするお菓子を見繕った。


(郵送で送ればいっか)


 わざわざ東京まで渡しに行くのは面倒くさい。レジで会計を済ませてから、郵送の手続きも済ませた。


 凪は2年ほど前に結婚しており、千颯が京都に来る少し前に子どもを産んでいた。兄よりも先に人生の駒を進めているというわけだ。


 凪から突如「私、結婚するねー」と宣言された時は、藤間家一同騒然としたのを覚えている。恋人がいることは知っていたが、結婚の気配は一切匂わせていなかったから衝撃を受けた。


 紹介されたのは、千颯とは面識のない男性。年上で頼りがいのある人だった。凪の我儘に振り回されるだけでなく、時にはビシッと喝を入れてくれるようなしっかり者だ。


 婚約者が初めて藤間家に訪れた時、「まあ、あなたにだったら妹を任せてもあげてもいいですよ」なんて偉そうなことを言ったら、にっこり笑った凪に廊下に引きずり出されて、思い切り蹴飛ばされた。「調子に乗んな」なんて罵倒されながら。


 リビングに戻ってから「調子に乗ってスイマセン」と謝ると、「面白いお兄さんですね」と笑われた。以来、なんだかんだで仲良くしてもらっている。


 凪の結婚式では号泣した。それはもう、凪からドン引きされるほどに。


 手のかかる妹が結婚するのは、嬉しいような寂しいような複雑な気分だった。だけど、ドレス姿の凪がいままで見たこともないくらいの幸せそうな顔をしているのを見て、ああ、これで良かったんだとしみじみ感じた。


 そんな幸せいっぱいな妹夫婦に感化されてしまったのは言うまでもない。だからこそ、かつて付き合っていたあの子に結婚を迫るような発言をしてしまったんだと思う。それがお別れに繋がる言葉だと、心のどこかで気付いていながら……。


 あの子と別れた直後は、あまりの喪失感にどうにかなってしまうのではないかと思った。10年付き合った彼女を失うのは相当辛かった。引き留める術はなかったのかと後悔したのは一度や二度ではない。


 だけど時間が経つにつれて彼女と過ごした日々は少しずつ思い出へと昇華していった。いまはもう、未練は残っていない。


 この世界のどこかで、幸せに生きていてほしい。それだけをひっそりと祈っていた。


 部屋に戻ろうとしたところで、ロビーに雅がいるのを発見した。風呂上がりの雅は、藍色の浴衣を着ている。


 旅館特有の薄手の生地の浴衣。それは高校時代に雅が着ていたものよりも、ずっと生地が薄かった。


 そのせいか、何となくエロイ。胸のすぐ下で結ばれた細い帯を引っ張ったら、あっという間にはだけてしまいそうな危うさがあった。そんなことは絶対にしないけど。


 綺麗にまとめられた髪は解かれている。まとめ髪の時は分からなかったけど、意外と長さがあり、背中の真ん中まで毛先が伸びていた。触れたら心地よさそうなサラサラとした髪に、思わず見惚れてしまう。


 普段とは違う姿を目の当たりにして、ちょっと嬉しくなった。声をかけようとしたが、耳元にスマホがあることに気付いた。電話をしているようだ。


「ええ、かしこまりました。そのように手配いたします」


 仕事モードに入っているのか、丁寧な口調で応対している。その姿を見て、立派に社長をこなしているんだなぁと感心していた。


 電話を切ると、雅も千颯の存在に気付く。


「あっ、千颯くん。ちょっと仕事の電話しとったわ」

「大丈夫? 何かトラブルでもあった?」

「そういうわけやない。休日でも関係なく仕事の連絡が来るだけや」

「そうなんだ」


 大変だね、と言いかけて咄嗟に言葉を飲み込んだ。ここで同情するのはちょっと違う。雅はいまの仕事を楽しんでいるのだから。


「頑張ってるんだね」


 そう声をかけると、雅は驚いたように千颯の顔を凝視する。それから、ふわりと頬を緩めて微笑んだ。


「うん、頑張っとるで。千颯くんに負けたくないからね」

「おっと、それじゃあ俺はもっと頑張らないと」

「そやでー。気い抜いてたらどんどん差がつくでー」


 茶化すような口調で言いながら、雅は楽しそうに笑った。それから旅館の外を指さす。


「そういえば、外に足湯があったんやけど、行ってみる?」

「足湯?」

「うん。足湯に浸かりながら海を一望できるらしいで」

「最高じゃん」

「やろ?」


 海を眺めながら足湯に浸かるなんて最高だ。隣に雅が居るなら尚更。そこに夕日というシチュエーションが加われば言うことなしだ。


「行ってみようか」


 千颯は手を差し出す。一瞬驚いていた雅だったが、恥ずかしそうにしながらもその手を握った。


*・*・*


 海風を感じながら二人は足湯に浸かる。目の前には地平線の彼方まで海が広がっていた。


 水面はキラキラと輝いている。その上空では、オレンジ色の夕日が差していた。オレンジ色から紺色にグラデーションがかかる空は、いつぞや見た朝焼けを思い出す。雅はいまでも覚えているだろうか?


 運のいいことに先客はいなかった。だから二人だけでまったりした時間を過ごしていた。


「気持ちいね」

「そやなぁ」

「夕日も綺麗」

「そやなぁ」


 まったりしているせいか、著しく語彙力が低下している雅。そんな姿も可愛らしかった。


 浴衣から覗いている脚を見ると、ドキッとしてしまう。白くて、細くて、滑らかで、多分触れたら凄く気持ちいいんだと思う。


 とはいえ、ジロジロ見ていたらまた白い目で見られそうだったから、直視するのはやめておいた。


 雅は湯に浸かった足を伸ばしながらしみじみと呟く。


「ええなぁ、こういうの。最近は旅行とか行かれへんかったから楽しいわぁ」


「そうなんだ。休日は家でのんびりしてることの方が多いの」


「そやねぇ。掃除したり、洗濯したり、ご飯作ったりしてたら、いつの間にか休みが終わってる」


「なんか分かるなー、それ。雅って全部きっちりやってそうだから」


「そやねん。うち凝り性やから、全部時間かかるんよ」


 家事に奮闘する雅を想像すると、何だか笑える。きっと休みの日は部屋の隅から隅まで掃除をして、洗濯機は服の種類別に分けて何度も回して、料理は出汁から取って作っているに違いない。それなら家事で一日が終わるのも頷ける。


 もし一緒に暮らすことになったら、自分が家事を引き受けよう。そうすれば雅に自由な休日を与えられる。多分、うんざりするほどダメ出しをされることも想像できるけど。


 そんなことを想像しながらこっそり笑っていると、雅から意外な質問が投げかけられた。


「そういう千颯くんはどうなん? 旅行とかよくしてたん? ……その、愛未ちゃんと」


 ここであの子の話題を出されるのは意外だった。探りを入れられているのだろうか?


 確かにあの子とは旅行もした。休みを合わせるのが大変だったから、たくさんとは言えないけど、特別な思い出を作ってきた。


 だけど、そんな話を目の前の彼女にするつもりはない。


「言わない」


 千颯は黙秘した。その反応を見て、雅は驚く。


「なんで? うちが傷つくから?」

「それもあるけど、それだけじゃない」

「どういうことなん?」


 色素の薄い瞳でじーっと見つめられているのを感じながら、千颯は自分なりの考えを伝えた。


「あの子と過ごした時間は、俺とあの子だけのものだから。それを他の人に話すのは違う気がする」


 二人の思い出は、胸の中だけにしまっておけばいい。人に話して、あれこれ詮索されたくなかった。相手が雅だったとしても。


「そっか……」


 雅は視線を落とす。お湯の中から細い脚を上げると、パシャっと水滴が飛び散った。ガラス玉のような水滴は、雅の浴衣の裾を濡らす。


 嫌な気持ちにさせてしまったことは分かっている。だけどそこは譲るつもりはなかった。


 それに誰にも話していない二人だけの思い出があるのは、この子に対しても同じだ。


「雅との思い出だって、あの子には話してないよ。学校をサボって原宿デートしたことも、渡月橋の近くでカフェ巡りをしたことも、ポケットの中で手を繋ぎながら初日の出を見たことも、卒業式でキスをしたことも。それは全部、俺と雅だけのものだから」


 雅は顔を上げる。驚いているのは先ほどと変わりはないが、その瞳には光が宿っていた。


「意外とちゃんとしとるんやね。感心したわぁ」


 いまはもう、寂しそうな顔はしていない。ちょっとは見直してくれたのかもしれない。雅の気持ちを確かめたくて、冗談めかしく尋ねてみる。


「好きになった?」

「どうやろなぁ」


 相変わらず素っ気ない。千颯はわざとらしくガックリ俯いた。


「ほんっとに好きって言わないなぁ」

「そんなん簡単には言われへんよ」

「あーあ、京美人を落とすのは大変だぁ」


 落ち込む千颯を見つめながら、雅はクスクスと笑っていた。

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