第n部

第170話 別れ話はまたしても突然に

 高校を卒業して10年の月日が流れた。


 藤間ふじま千颯ちはや。28歳。某メーカーの営業職として勤務。都内のアパートで一人暮らし。10年以上付き合っている彼女あり。


 現在のスペックを並べるとそんなところだ。どこにでもいるような平凡な男に思えるけど、自分なりに頑張っていまの暮らしを続けている。


 とある日曜日の朝。カーテンの隙間から差し込む光に照らされながらベッドの上で寝転んでいると、ガチャっと脱衣所の扉が開いた。


 脱衣所から出てきたのは、白いシャツを羽織ったショートカットの美女。シャワーを浴びたばかりということもあり、全身が火照っていた。


 千颯は寝転んだまま手を伸ばす。


「おいで、愛未あいみ


 そう呼びかけると、彼女は千颯のもとに近寄る。


「お邪魔します」


 布団に潜りこんだ彼女は、まるで猫のように千颯の胸に頬擦りをした。


「ここは世界で一番平和な場所」


 しみじみと呟く彼女の髪を、千颯はそっと撫でた。


 10年以上付き合っている彼女は、言うまでもなく木崎愛未だ。高校を卒業してからも、二人は変わらずに交際を続けていた。


 変わったことと言えば、愛未の髪が短くなったことだ。


 愛未は警察学校に入る直前に髪をバッサリ切った。セミロングからショートカットに変わった時は衝撃を受けたが、いまとなればこっちの方がしっくりくる。


 美人はショートカットが似合うというのはよく言ったものだ。いまの愛未からは美しさのみならず凛々しさも感じさせた。


 擦り寄ってくる愛未を見ていると、愛おしさが溢れ返る。普段はキリっとしている愛未が、自分の前では甘えた猫のようになるのは優越感があった。


「千颯くんに甘やかされながら寝落ちする瞬間がホントに好き」


 夜勤明けに千颯のアパートにやって来た愛未は、眠たげな瞳で呟く。そんな彼女に、かねてから準備していた言葉をさりげなく伝えた。


「それなら一緒に住もうか。そうすれば毎日甘やかしてあげられるよ」


 その言葉を聞いた途端、緩み切った表情が神妙な顔に変わる。愛未は真意を探るように、千颯の顔を覗き込んだ。


 そんな彼女に、この先待っている未来の話をした。


「俺さ、京都に転勤することになったんだ。新しくできる京都営業所で、チームリーダーを任されることになった」


 先日上司から内示があった。半年後に立ち上がる京都営業所で、チームリーダーとして活躍してほしいと。


 この年で責任のある役職を任されることに驚きはあったが、これまで頑張って働いてきた実績が評価されたのだ。千颯は迷うことなく引き受けた。


「それって栄転ってこと?」

「まあ、そうだね」

「そっか、おめでとう」


 愛未はさらっと祝福の言葉を告げる。しかしあまり嬉しそうな表情はしていなかった。不安が過りながらも、千颯は話を続ける。


「だからさ、愛未さえよければ京都で一緒に暮さない?」


 沈黙が走る。愛未の瞳から光が消えたのを感じた。


「それって、私に仕事を辞めろってこと?」


 棘のある言い方をされて怯む。だけどもう、昔のような気弱な態度は見せたくない。


「うん。そういうことになる」


 ベッドに横たわる愛未の背中に手を回し、強く抱き締めながら告げた。


「結婚しよう」


 こんな言葉は、もっとロマンティックなシチュエーションで言うべきなのかもしれない。日曜日の朝に、ベッドで寝転がりながら言うセリフではない。


 だけどこれくらいの気楽さがないと、彼女を困らせてしまう気がした。プロポーズの答えは、何となく察しがついているから。


 予想していた通り、突き放されてしまった。


「ごめん。結婚はできない」


 愛未は意思の籠った瞳で千颯を見つめた。そのまま身体を起こし、ベッドの上で座った。それにつられるように、千颯も身体を起こす。


 向かい合ってから、愛未は事情を明かした。


「私ね、いまの仕事が気に入ってるの。それを投げ出して、千颯くんに付いていくことはできない」


「うん。愛未はそう言うんじゃないかなって思ってた」


 転勤の話を聞いた時点で、愛未との関係性が変わることもある程度覚悟していた。それでも千颯は京都に行く道を選んだ。


 愛未は視線を落としながら言葉を続ける。


「でも、理由はそれだけじゃない」


 愛未の言葉を待っていると、心のどこかで感じていたズレをはっきりと突きつけられた。


「私ね、結婚はしないよ。千颯くんとしないって意味じゃなくて、誰ともしない」


 取り乱すことはない。千颯は落ち着いて愛未の言葉に耳を傾けた。


「こういう話は、何となくお互い避けていたよね。だけどもう、避けては通れないか」

「理由を聞いても良いかな?」


 千颯が尋ねると、愛未はふうっと溜息をついてから答えた。


「幸せな家庭がイメージできないんだ。自分がそういう環境で育って来なかったから」


「過去がどうであれ、幸せな家庭を作ることはできると思うけど?」


「もちろんそういう人だっているよ。だけどさ、私思うんだ。人は自分が持っているものしか他者に与えられない。私は幸せな家庭で育った経験を持っていないから、その経験を千颯くんには与えられない」


「そんな風に決めつけなくても」


「ううん。自分のことは自分が一番分かってるから。私は素敵な妻にも母親にもなれない」


 きっぱり言い切る彼女からは覚悟を感じた。


「それにね、過去のことだけが理由じゃないんだ。私はね、自分の人生にだけ責任を持てる生き方がしたいの」


「自分の人生にだけ責任を持つ生き方?」


「そう。誰にも縛られない自由気ままな生き方」


 そう話す愛未は、自由な猫のようだった。


 思い返せば、結婚に関連する話題はことごとく避けられてきた。そういう話を持ち出すと、愛未は気まずそうな表情を浮かべながら、さりげなく話題を逸らしていた。そんなやりとりを繰り返してきたから、彼女には結婚願望がないのだと察した。


 それでもプロポーズをしたのは、万が一の可能性に賭けたからだ。そしていま、賭けに負けた。


「そっか、愛未がそういう考えながら結婚は諦めるよ。俺も結婚にはこだわってないし、遠距離恋愛でも構わない。京都と東京なんて新幹線で2時間だから、会おうと思えばいままで通り毎週会える」


 そう告げると、愛未は鋭い眼光で千颯を捕えた。きっと仕事でもそういう目をしているのだろうな、と想像してしまう。


「嘘」


 はっきりと否定されて苦笑いしてしまう。愛未は言葉を続けた。


「千颯くんは結婚したいんでしょ? 自分の家族を持ちたいんだよね?」


「俺の考えなんてお見通しってわけか。やっぱり刑事さんの目はごまかせないね」


「刑事だからじゃないよ。彼女だからお見通しなの」


 それから愛未は、間違いを指摘するかのように千颯の言動を振り返った。


「千颯くんさ、結婚したら子供は三人欲しいよねーとか何の疑いもなく言ってたよね。あれってさ、地味にストレスだったんだよ」


「……ごめん。深い意味はなかったんだ」


「うん、だから問題なの」


 愛未は悩まし気にふうと溜息をつく。


「千颯くんの見据える未来と私の望む未来は、全然違うんだよ。どっちかが妥協しないと一緒にはいられない。でもそんなのは幸せじゃない」


 きっぱりと言い切られると、何も言えなくなる。それから愛未は静かに告げた。


「千颯くん、お別れしよっか」


 迷いなんて微塵も感じさせないような言い方だ。まるでいつか終わりが来ることを予期していたかのような。


「別れたくないって泣いて縋ったら、考えが変わる?」

「ないね」

「ですよね」


 別れる選択肢しかないと知って、深く溜息をついた。そんな千颯の頬に、愛未がそっと触れる。


「大丈夫。千颯くんは私が居なくても幸せに生きていけるから。どこかで結婚願望のある女の子を捕まえて、さっさと結婚しちゃいな。いまの千颯くんなら寄り取り見取りでしょ」


「昔はあんなに束縛が激しかったのに、いまは随分ドライなんだね」


「やめてよ、昔の話を持ち出さないで」


 愛未は笑いながら目を細めた。


「千颯くんにはさ、この10年で十分過ぎるほどの愛を貰った。だからもう、私は平気だよ」


 その言葉で愛未と過ごした日々を思い返す。この10年は決して平坦な道ではなかった。


 愛未が警察学校に入ったばかりの頃は会えない日々が続いてやきもきしたし、会ったら会ったでお互い不満をぶつけて喧嘩になることもあった。


 千颯が社会人になってからは余計に会えない日々が続き、寂しさを感じていた。


 それでもお互い歩み寄って10年続けてきた。流石に高校時代のような燃え上がる恋はしていないけど、暖かな陽だまりのように彼女を愛していた。それを失うのはやっぱり寂しい。


 沈んだ表情をしている千颯に見かねて、愛未がある話を持ち出す。


「昔ね、誰かさんが言ってたの。推しにはずっと笑顔でいてほしい。美味しいご飯を食べて、あったかいお布団で寝て、幸せに暮らしていたらそれでいいって」


 誰かさんの正体は明かしてくれなかったけど、推しなんて言葉を持ち出す人物には心当たりがある。


「その言葉の意味が、10年経ったいまようやく分かったよ。多分それが究極の愛なのかもね」


 ぎゅっと胸が締め付けられる。愛未ではない、誰かさんのことも思い出しながら。

 しんみりした空気を振り払うように、愛未は明るく笑う。


「せっかくだし、最後に一回シとく? 燃えるよ~、きっと」


 この場に及んでそんな提案ができてしまう愛未はやっぱり強い。その強さに惹かれていたのだと強く実感した。


「遠慮しとくよ。そんなことしたら決心が鈍る」

「そっか、ざーんねん」


 愛未は肩を竦めながら笑う。それから千颯の肩に手を添えて距離を縮めた。


「それじゃあ、これで我慢するよ」


 愛未は唇に軽く触れるだけのキスをした。もどかしくてもう一度してしまいたくなったが、何とか堪える。


 身を離した愛未は、まるで聖女のように穏やかに微笑んでいた。


「幸せになってね、千颯くん」

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