第168話 決断の時

 3月23日。千颯ちはやは成田空港にやって来た。


「ここまで着たはいいけど、本当に会えるかな……」


 広々とした空港内に佇みながら、千颯は不安を漏らす。


 空港に行けば確実に会えるだろうと予想していたが、空港内は思いのほか広くて面食らっていた。


 一応、雅母から搭乗する便と出発ターミナル教えてもらったため、見当違いな場所で待つという事態は回避できたが、まだ確実に会える保証はない。


 いまの時刻は9時40分。雅母の情報によればもうじき雅は現れる。


 雅が利用するであろう航空会社のカウンターの傍で、千颯はソワソワしながら待っていた。


 10時を迎える頃、やって来た。

 大きなスーツケースを転がしながら、凛とした佇まいで歩く京美人が。


 姿を見つけた瞬間、千颯は走り出した。


みやび!」


 雅はビクッと肩を震わせる。千颯の姿を見つけると、驚いたように目を見開いた。


「千颯くん、なんでここに……」


 信じられないようなものを見たかのように立ち尽くす雅。


 驚くのも無理はない。空港に駆けつけるなんて映画みたいなことをする奴が、本当にいるとは思わないだろう。


 我ながら馬鹿ことをしていると呆れながらも、ここまでやってきた事情を明かした。


「雅のお母さんから出発の日時を聞いたから」


 雅は呆れたように目を細める。


「何しに来たん?」


 素っ気ない反応をされる。


 この間見た映画では、駆けつけた瞬間ヒロインが涙を流していたが、いまはそんな雰囲気ではない。シンプルにドン引きされていた。


 冷ややかな視線に怖気づいたが、ここで引き下がるわけにはいかない。気を強く持ちながら、千颯は伝えた。


「雅とちゃんと話したくて来た」

「ちゃんと話すって……」


 呆れられていることは分かっていたが、いまさら気にしたって仕方がない。雅と向き合うためにも、本音を明かした。


「手紙、最後まで読んだよ。すごく嬉しかった。俺も雅には感謝している。厄介ごとに巻き込んでごめんね。そして嘘を突き通してくれて本当にありがとう」


 伝えたいのは感謝の言葉だけではない。千颯はさらに感情を曝け出す。


「俺も雅に憧れていた。雅のような優しくて強い人間になりたいってずっと思っていた。俺にとっても雅は理想だから」


 雅は恥ずかしそうに視線を逸らす。


「理想なんて大袈裟や……。でも、ホンマにそう思ってくれとるんやったら、嬉しい」


 胸が熱くなる。雅が好き。その感情が溢れかえった。


 もう隠し通すことなんてできない。千颯は雅を真っすぐ見据えながら告げようとした。


「俺さ、やっと自分の気持ちに気付いたんだ。俺は雅のことが」


 好き。そう伝えようとした瞬間、雅は大きく目を見開きながら叫んだ。


「あかん!」


 喉元まで出かかった言葉を飲み込む。止められたことに驚いていると、雅は動揺しながら告げた。


「それを言ったらあかん。愛未あいみちゃんを裏切ることになる」


 その言葉でハッと我に返る。雅の言う通りだ。軽率に好きなんて口にしてはダメだ。


 それを伝えるのは、ちゃんと選んだ後だ。


 雅と愛未、どっちの傍に居たいのか。


 二人と過ごした日々が走馬灯のように蘇る。楽しかった瞬間も、ドキドキした瞬間も、切なかった瞬間も、全部全部蘇った。


 どちらも大切な思い出で、どっちが幸せだったかなんて比べることができない。


 だけど―――――。











 どっちの傍に居たいか考えた瞬間、あの子の泣き顔が浮かび上がった。


 やっと答えが出た。


 ようやく導き出した答えは、目の前の彼女との別れを意味していた。


 この場に及んでも、一番伝えたかった本音は彼女には伝えられなかった。


 涙が溢れ出しそうになったが、ここで泣くのは自分ではない。千颯は奥歯を噛み締めながら堪えた。


 何も言えない千颯を見て、雅はこちらに歩み寄る。


「ええよ、言わなくても」


 ぐすんと鼻を啜る音が聞こえた。華奢な肩は小さく震えていた。


「うちも言わへんから」


 真っ白な頬に涙が伝う。雅は泣いていた。


「あー、もう……。千颯くんの前では意地でも泣かんとこって思ったのに……こんなとこまで来られたら、あかんて……」


 零れ落ちる涙を隠すように顔を覆う。


「卒業式でキスして……何食わぬ顔で立ち去ろうっていう、うちの計画が台無しやん……」


 胸が締め付けられる。気丈に振舞っていた雅が、やっと本当の自分を見せてくれた気がした。


「あんな本気のキスをされたら、堪ったもんじゃないよ。気付かないふりをしていた感情が一気に引きずり出された」


「そんなん最後までしまっといて! なんでいまになって……」


「ごめん……。だけどもう隠しておくことなんてできなくて、ちゃんと選ばないとって気付いたんだ」


 雅は顔を覆っていた手を下ろし、真っ赤になった瞳で千颯を見つめる。


「けど……言われへんってことは、うちやなかったんやろ?」


 答えを伝えるのはとても辛い。だけど逃げてはいけない。


 千颯は静かに頷いた。


 次の瞬間、雅が目の前まで駆け寄ってくる。そして千颯の胸を何度も拳で叩いた。


「ほんっまにひどい男やわ! どんだけうちを傷つければ気が済むん?」

「ごめん」

「謝っても許さへんわ! アホ!」


 千颯のシャツをギュッと掴みながら俯く雅。涙を何とか止めようとしているように見えた。


「もう……いっそ蛙化したいわぁ」


 切なさが溢れ返って仕方ない。

 イケナイと思いつつも、雅の小さな頭を胸元に引き寄せた。


 雅は驚いたようにビクンと肩を揺らす。


「あかんて、千颯くん」


 逃れようとする雅の頭を押さえる。そのまま咄嗟に思いついた建前を口にした。


「これは抱きしめているわけではありません。壁になっているだけです。可愛い女の子の泣き顔を晒したくないので」


 ぽかんとしていた雅だったが、言葉の意味を理解すると泣き顔にほんの少しだけ笑顔が混ざった。


「建前が言えるようになったんやね」

「おかげさまで」


 壁と言いつつも、そっと雅の頭を撫でる。

 次の瞬間、雅は糸が切れたように泣き出した。


 声を抑えることなく泣きじゃくる姿は、まるで子供のようだった。


 泣きながら罵詈雑言を浴びせられたが、全部が最も過ぎて反論の余地がない。千颯は全部を受け止めた。


 周囲の人々は何事かと言わんばかりにこちらに注目している。千颯はできる限り雅の泣き顔を晒さないように強く抱き寄せた。

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