第160話 波乱の卒業式

 季節が巡り、桜が舞い散る春がやってくる。


 千颯ちはやは受験を終え、無事に第一志望の大学に合格した。愛未あいみも警察採用試験を突破し、この春から警察学校に入ることが決まった。


 無事に進路が決まった千颯たちは、今日卒業式を迎えている。


 3年間通っていた高校を去るのはやっぱり寂しい。透き通ったピアノの音色と共に別れの歌が流れると、感傷的な気分になった。ぼろぼろ泣いている女子生徒を見て、千颯もらい泣きしそうになったが寸でのところで留まる。


 感動的な雰囲気のまま卒業式が終わった。……が、終わった直後に涙が引っ込む事態に見舞われた。


 講堂から教室に戻る途中、千颯は愛未に捕獲される。そのまま手を引かれ、空き教室に押し込められた。


 それからは、あれよあれよという間に押し倒されて、馬乗りにされてしまった。千颯はビクビクと怯えながら愛未を見上げる。


「愛未、待って。本当にやるの?」

「千颯くん、いい加減覚悟を決めたらどうなの?」


 愛未はにやりと不敵に微笑む。その瞳はまるで草食動物を食らおうとしているライオンのようだった。千颯は最後の抵抗をする。


「ねえ、やっぱりやめようよ」

「言ったよね? 卒業式の日にやるって。千颯くんだって承諾したでしょ?」

「で、でも、恥ずかしくて……」

「大丈夫。恥ずかしいのは最初だけだから。慣れちゃえばどうってことないよ」

「そんなこと言ったって……」

「千颯くんはじっとしているだけでいいから。下手に動くと血が出ちゃう」

「血!?」

「痛くしないから安心して。天井のシミを数えているうちに終わるから」


 愛未は千颯のブレザーのボタンに手をかける。そしてポケットからハサミを取り出した。


「大人しくしててね。千颯くん」

「いやああああああああ」


 キランと光る刃先を見た瞬間、千颯はすべてを諦めた。





 パチン、パチン、パチンと、ハサミで切断する音が響く。千颯は両手で顔を覆いながら、事が済むのを大人しく待っていた。


「よし、これで全部かな」


 愛未は一仕事終えたと言わんばかりに、ふうと溜息をつく。愛未の手の平には、じゃらじゃらと大量のボタンがあった。ブレザーのボタンはおろか、シャツのボタンまで外されている。


「うう……何も全部のボタンを取ることないじゃん……」


 前を閉じる術を無くした制服を見下ろしながら、千颯は恨めし気に抗議する。シャツの下にTシャツを着ていたおかげで肌を露出することはなかったが、みっともない状態なことには変わりなかった。


 不服そうな千颯だったが、愛未はさも当然と言わんばかりに告げる。


「こうでもしないと、誰かからボタンを強請ねだられるかもしれないからね。千颯くんの所有物は誰にも渡さない」


「俺のボタンなんて誰も欲しがらないよ。大体、ボタンをくださいなんて古典的なアプローチをする女子っていまどきいる?」


「いないとも言い切れないでしょ? 念には念を入れておかないと。あ、その胸についてる花も没収です。あと校章も」


「分かったよ。持ってけ泥棒」


 千颯は花と校章を自ら外して、愛未に献上した。愛未は満足そうに受け取ると、千颯から強奪した一式をポケットにしまった。


 そこでようやく馬乗りの状態から解放されて、自由の身になる。千颯は深々と溜息をつきながら廊下に出ようとした。


「まったく……こんな姿を見られたら、みんなからなんて言われるか……」

「モテモテだなって思われるんじゃない?」

「むしろ虐められているんじゃないかと疑われそうだけどね!」


 扉に手をかけた時、愛未は「あ!」と何かを思い出したように声を上げる。振り返ると、愛未はその場にしゃがみ込んで千颯のズボンに手をかけた。


「もしかして男の子の制服って、ズボンにもボタンついてる? それも外さないと」

「いやいやいや! 勘弁してよ! そんなことしたら帰れなくなるから」

「でも、狙われるかもしれないし……」

「ズボンのボタンを欲しがる変態なんているわけないでしょ?」


 ズボンのボタンだけは何とか死守する。愛未も流石に帰れなくなるのはマズいと判断したのか、そこだけは見逃してくれた。


 前がすっかり涼しくなってしまった制服を見下ろしながら、千颯は教室に戻る。その隣を愛未が歩きながら、何気なく話を振ってきた。


「ホームルームが終わったら、中庭で写真撮るんだよね」

「うっわ、そうだった……。ということは、この状態で写真が残るのか……」

「良い思い出だね」

「……もう、そういうことにしておくよ」


 千颯は深々と溜息をついた。


 すると愛未は不自然に立ち止まる。どうしたのかと振り返ると、愛未はうろうろと視線を泳がせながら尋ねた。


「その後はさ、千颯くんの家に行くのでいいんだよね?」


 千颯も立ち止まる。愛未が何を言おうとしているのかは、すぐに理解できた。顔が熱くなるのを感じながら、千颯は頷く。


「うん。そっちの覚悟はとっくにできてるよ。昼過ぎに帰れば、誰もいないはずだから邪魔も入らないと思う」


「そっか。なら安心だね……」


「うん。ちゃんと準備もしたし、予習もしてきたから」


 そう漏らすと、愛未はふふふっと吹き出すように笑う。


「予習ってなに?」


 問い詰められたことでさらに顔が熱くなる。余計なことを口走った自分を恨みながら、全力で両手を振った。


「いまのはナシ! 忘れて!」


 慌てて撤回するも、既に言ってしまった発言をなかったことになんてできなかった。頭を抱えながら悶える千颯に、愛未は妖艶な笑みを浮かべながら近付く。それから耳元でそっと囁いた。


「私も準備してきたよ。千颯くんが好きそうな、黒の下着を付けてきたから」

「なっ……」


 とんでもない告白をされてクラクラする。放心する千颯をおかしそうに眺めながら、愛未は言葉を続けた。


「私、知ってるんだよ」

「知ってるって、何を……」


 まじまじと見つめられながら、にやりと笑われた。


「千颯くんはさ、清楚な女の子が好きなんじゃない。清楚に見えて実はエッチな女の子が好きなんだよね?」


「うあああああああ! なぜそれを!?」


 千颯は頭を抱えて項垂れた。

 一年以上付き合っていたことで、性癖もしっかり見抜かれてしまったようだ。


 *・*・*


 教室に戻ると、水野みずのから呆れたように声をかけられる。


「千颯、どうしたのその制服……」

「ちょっと未来の警察官に所持品を押収されてね」


 意味が分からないと眉を顰めていた水野だったが、ポケットに手を突っ込んでじゃらじゃらと音を鳴らしている愛未を見て全てを悟った。


「女性関係ではとことん信用されてないんだね」

「そのようで……」


 不本意ではあるが、紛れもない事実だった。


 ホームルームが終わると、荷物を持って中庭に移動する。クラス写真を撮り終えた後は、卒業生と在校生が入り交じり、別れを惜しんでいた。


 千颯は会う人会う人に制服のことを突っ込まれる。その度にいたたまれない気分になった。きっとこの日の出来事は、卒業してからも面白おかしく語り継がれることになるに違いない。まったく不本意な話である。


 そんな中、バスケ部の西ちゃんからも冗談めかしく声をかけられる。


「千颯! 記念になんかちょーだい!」


 いまの千颯の惨状を見て、まだ物品をむしり取ろうとする精神に驚愕した。千颯は目を細めながら力なく首を振る。


「もうズボンのボタンくらいしか残ってないよ」

「いや、それは普通にいらないや……」


 ドン引きされたような視線を向けられる。自分から言い出したものの、万が一ほしいと言われたらどうしようかと思ったから、遠慮されたことでホッとした。


 しかし西ちゃんの発言を愛未は聞き逃さなかったようで……。


「西さん、あなたは最後の最後までウロチョロと」

「ひいいい!」

「いい機会だから、最後にじっくりお話し合いをしましょう」


 愛未は黒い笑みを浮かべながら、西ちゃんのポニーテールを掴んで連行していった。


 憐みの視線で二人を見送っていると、意外な人物に声をかけられる。


「千颯くん」


 振り返ると、穏やかに微笑むみやびが居た。


 雅と話すのは夏休み以来だ。久々に間近で見たけど相変わらず可愛い。色素の薄い大きな瞳で見つめられると、思わず頬が緩んだ。


「どうしたの、雅」


 わざわざ話しかけてくれたことに嬉しさを隠しきれない。意図せずとも甘い声色になってしまったのは、もはや不可抗力だろう。


 千颯が尋ねると、雅は笑顔を浮かべたまま用件を伝えた。


「渡したいものがあるから、ちょっとこっちに来てくれへん?」

「渡したいもの?」


 千颯が首を傾げていると、隣にいた水野から背中を押される。


「行ってあげて」


 それはお願いをするような言い方だった。


「うん。分かった」


 戸惑いを感じながらも頷くと、雅は安堵したように目を細めた。


「ありがとう」

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