第155話 願い
お茶をローテーブルに並べてから、三人はあらためて向かい合う。それから愛未母は、少しずつ心の内を明かした。
「あんたが言っていたようにさ、私は高校を中退して
そこまでの話は愛未からも聞いている。その先の理不尽な出来事も。
「初めは二人で暮らしていたんだけど、生まれる直前になってそいつが逃げたの。はっきりとした理由は分からないけど、重圧感に耐えきれなくなったのか、他に女ができたのか、そんなところでしょうね。まとまったお金は残してくれたけど、連絡も取れなくなってそれっきり」
「酷いですね……」
「でしょ? 自分の男を見る目のなさを呪ったわ」
愛未母は自虐するように笑ったが、こちらは一切笑えなかった。愛未母は麦茶を一口飲んでから話を続ける。
「向こうは逃げられてもさ、こっちはもう逃げられないの。産んで育てるっていう選択肢しか残されてなかったから。それで一人で育てることになったんだけど、まあ大変で」
愛未母は当時を思い出すように苦笑いをしながら話す。
「分からないことだらけだし、思い通りにいかないことばっかり。勘当同然で家を飛び出したから親にも頼れないし。もう本当に余裕がなさ過ぎて、気付けば愛未に当たるようになってたの。周りはさ、自分で選んだ道だろっていうけど、こんな道は選んでない。他の可能性を全部絶たれて、一本道を歩くしかなかったんだよ」
子供じみた言い方に聞こえるが、きっとそれは本音で話してくれているからだろう。本音で話すというのはそういうことだ。
「愛未には酷いこともたくさん言っちゃった。いま思い返しても、クソみたいな親だったと思う」
ふと隣にいる愛未の様子を窺うと、俯きながらじっと黙り込んでいる。当時の記憶が蘇って思うところがあるのかもしれない。
膝の上でぎゅっと握られている愛未の手にそっと触れる。大丈夫、と安心させてあげたかった。
愛未は驚いたように目を丸くしたが、千颯の顔を見ると安心したように頬を緩ませた。そのまま愛未母の話に耳を傾ける。
「愛未にも酷い態度ばっか取っていたから、こっちへの信頼がゼロになっちゃってさ、どう足掻いても修復不可能なところまで来ちゃったってわけ。いまさら母親ぶってもムカつくだけだろうから、なるべく距離を置いてたの。それがいまの状況」
愛未母は開き直ったように話をまとめた。
要するに、余裕がなくて愛未に酷い態度を取っていたけど、ある程度余裕ができて娘と向き合おうと思った頃には既に修復不可能な状況に陥っていたということか。
自業自得と思ってしまったが、ここでそれを口にするのは相手を突き放すことになる。いまやるべきなのは共感だ。千颯はそのための言葉を選んだ。
「それだけ追い詰められていたってことですよね。苦労されていたっていうのは、何となく想像が付きます」
「同情してくれてんの? 娘から逃げてばっかの毒親に?」
おかしなものでも見るように笑われる。
愛未母が苦労していたのは分かるけど、全面的に同情しているわけでもない。心の内では、愛未を蔑ろにしたことへの憤りを感じていた。
だけど、ひとつだけはっきりと言える事実がある。千颯は本音と建て前を織り交ぜながら、愛未母に伝えた。
「確かにあなたは良い母親ではなかったのかもしれません。だけど完全には逃げてないと思います」
愛未母は驚いたように目を瞠る。そんな彼女に事実を告げた。
「だって愛未はいまここに居るんだから。もし本当に逃げていたら、愛未はここには居ませんよ」
愛未の手をぎゅっと握る。いまじんわり伝わるぬくもりを感じられるのは、愛未母が完全には逃げなかったおかげだろう。
千颯の言葉を聞いた愛未母は、崩れるように項垂れる。茶色い髪をだらんと垂らして、目を擦っていた。肩は僅かに震えている。
泣いているのかもしれない。俯いた状態で、愛未母は途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「君は……本当に……優しいんだね」
心を開いてもらえたように感じた。愛未の言葉を借りるなら、陥落させられたのだろう。
褒めて共感するところまでは到達できた。最後にやるべきなのはお願いだ。
千颯は小さく息を吐いてから、真っすぐ愛未母を見つめた。
「愛未はもうちょっとで独り立ちしようとしています。だけどまだダメなんです。いまはまだ、あなたの助けが必要なんです」
愛未母は顔を上げる。目を擦ったせいか、メイクが崩れて目元が少し黒くなっていた。目が合ったのを確認したから、千颯は頭を下げる。
「あと半年でいいんです。高校を卒業するまでの半年間、愛未を保護してくれませんか?」
水野に言われた半年という期限を持ち出す。長いようで短い期間。それくらいだったら、ギリギリ耐えられるはずだ。
千颯は頭を下げながら続ける。
「苦労してここまで頑張って来たんです。だから巣立っていくのを最後まで見届けてあげませんか?」
こんなのは泣き落としに近い。鬱陶しいと跳ねのけられるかもしれない。だけど愛未母の善意を信じて、必死でお願いをした。
「半年……」
愛未母は小さく呟く。その言葉が耳に届いた瞬間、ふわっと風を感じた。
隣に視線を送ると、愛未も頭を下げていた。千颯の手をぎゅっと握りながら、机に頭が付きそうなほどに頭を下げている。
「お願いします。あと半年、私を保護してください」
愛未も母親と向き合おうとしている。緊張しっぱななしだった心が、ほんの少しだけ和らいだ。
頭を下げる二人を見て、愛未母は呆然とする。ダメ押しだと言わんばかりに、千颯は顔を上げて愛未の手を引いた。
「あと半年でいいんです。その先は……」
愛未はふらっと体勢を崩して、千颯の胸に倒れこむ。その肩をそっと抱きながら告げた。
「俺が愛未を守ります」
こんなのはプロポーズだ。だけど、そう捉えられても良かった。
胸の中で身を寄せる愛未が、驚いたようにこちらを見つめる。盛大にカッコつけているにも関わらず、心の奥底では蛙化されたらどうしようと怯えているのだから、やっぱり自分は小心者なのかもしれない。
千颯の意気込みを聞いた愛未母は、涙を滲ませながら小さく頷く。
「分かった。3月まではここに居てもいい」
その言葉で、千颯と愛未はホッと表情を緩めた。
「ありがとうございます」
千颯が頭を下げると、愛未も続くようにして頭を下げた。
こんな風に子供の方から保護してくださいと頭を下げるのは間違っている。保護責任を怠った愛未母には、罰を与えてもいいのかもしれない。
だけど愛未を半年間保護してもらうという目的を達成できるなら、手段なんてどうでもいい。甘くて優しい言葉で説得できるなら、それに越したことはない。
多分、
*・*・*
話し合いを終えると、二人はアパートを後にしようとする。愛未の荷物を取りに帰るため、一度千颯の家に戻ることにした。
「お邪魔しました」
リビングにいる愛未母に声をかける。すると、どこか明るさを含んだ声が返ってきた。
「そーいえば、君、名前なんだっけ?」
「千颯です」
「んー、千颯っちねー」
あだ名を付けられてしまった。なんだか急に距離を縮められた気がした。
苦笑いを浮かべながらも玄関の扉に手をかけると、不意に愛未が振り返った。そのままリビングに居る母親に尋ねた。
「ねえ、お母さん。聞いてもいい?」
お母さん。愛未が彼女のことをそう呼んでいるのを初めて聞いた。千颯は反応を窺う。少し間があった後、リビングから返事が聞こえた。
「なに?」
隣にいる愛未は、震える声で尋ねる。
「なんで私に愛未って名付けたの?」
この状況でそんな質問をするのは意外だった。驚きながらも耳を澄ませていると、愛未母の本音が聞こえてきた。
「あんたには、私のようになってほしくなかったから。誰かから愛される未来になってほしい。だから、愛に未来って書いて愛未にしたの」
愛未の瞳が潤む。脱力したように、玄関にペタンと座り込んだ。
千颯は慌てて視線を落とす。愛未は口元を覆いながら肩を震わせていた。
大丈夫? と声をかけようとしたが、そんな言葉は不要だった。愛未はどこか嬉しそう笑っていた。
「なんだ、千颯くんと同じだったんだね……」
◇◇◇
ここまでをお読みいただきありがとうございます!
本作はカクヨムコンに参加しています。
「続きが気になる!」「千颯、カッコいい!」と感じたら、★★★で応援いただけると幸いです。
♡や応援コメントもいつもありがとうございます。
余談ですが、書き留めているストック分はすでに完結したので、本作は完結保証となっています。(バックアップも取っているので毎日更新できるはず……!)
途中でエタることはないのでご安心ください。
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