第154話 歩み寄る
部屋に案内されると、三人でローテーブルを囲む。向かいに座る愛未母は苛立ちを滲ませたように頬杖をついていた。
隣に座る
「それで? 話ってなんなの?」
いきなり本題を切り出される。どこから話を始めようかと迷っていると、愛未母は冷めた表情でこちらを見つめた。
「大体検討はつくけどね。愛未を追い出したことで話があるんでしょ?」
「まあ、そうですね……」
「ろくでもない母親だって罵るつもり?」
愛未母はフッと小馬鹿にするように笑う。その態度で不快指数が高まった。
その通りだよ、と言ってやりたかった。だけどそんな言い方をすれば喧嘩になるに決まっている。直接対決を避けるためにも、苛立ちは胸の内に収めた。
冷静になれ、と頭の中で念じる。同時に、あの子の姿を思い出した。
もしもいま、この場に
だけど雅はここにはいない。自分の力で何とかしなければならなかった。
正直、怖い。やり方を間違えれば、先ほどのように怒りを買って本当に殴られるかもしれない。人から殴られた経験のない千颯には、振り上げられた拳は死を覚悟するほどに恐ろしかった。
怖いけど、このまま黙り込んでいるわけにはいかない。もう戦場に来てしまったのだから。
戦い方は教えてもらった。あとは臆せずに立ち向かうだけだ。
本音と建前を上手に使い分ける。きっと雅だったら、そうやってこの場を対処するはずだ。
心を落ち着かせるように小さく息を吸う。そしてあの子の喋り方を思い出しながら、千颯は口を開いた。
「そうじゃありませんよ。俺はただ、お礼を言いたかっただけです」
愛未母はポカンと口を開く。
「は? お礼?」
隣に座っていた愛未も、ギョッとしたように千颯を見つめる。驚く二人を前に、千颯は笑顔を作る。あの子の完璧な笑顔を思い出しながら。
「愛未を産んでくれて、ありがとうございます」
まずは感謝の言葉で歩み寄る。こちらに敵意がないことを証明したかった。
雅からは褒めて共感すると教わったが、現時点では愛未母を褒める要素は見当たらない。だけど、感謝の言葉なら口にできた。
産んでくれてありがとうという言葉は、ただの建前ではない。愛未母が産むという選択をしたからこそ、いま愛未がここに居るのだから。
「愛未から話は聞きました。高校を中退して愛未を産んで、一人で育ててきたんですよね?」
男に逃げられたという部分はあえて触れずに話した。余計な刺激を与えたくなかったからだ。
千颯の言葉を聞いた愛未母は、苛立ったように舌打ちをする。
「そんな話までしてたのかよ……。そうだよ、その通りだよ。なに? 馬鹿にしたいわけ?」
威圧的な態度を取られて肝が冷える。動揺を悟られないようにゆっくりと息を吸う。それからもう一度、あの子の姿を思い出した。
雅だったらどう返す? そう置き換えて考えると、自然と言葉が出てきた。建前と本音を織り交ぜながら、千颯は話を続ける。
「馬鹿にするなんてとんでもない。いまの俺たちと同じくらいの年でその選択をしたのは凄いことです。あなたが大変な思いをしてきたからこそ、いまの愛未があるんだと思います」
以前、
しかし想像でしか語れない薄っぺらい言葉は、簡単に振り払われてしまう。
「あんたに何が分かんの?」
こちらを睨みつける愛未母。威圧的な態度ではあるが、声が少し震えているのを見逃さなかった。
もう少しで感情を引き出せる。そんな予兆を感じながら千颯は言葉を続けた。
「確かに俺にはあなたの苦労は分かりません。だけど、愛未といま一緒に居られるのは、あなたのおかげだということは分かります」
眉を顰める愛未母に、千颯は完璧な笑顔を見せた。
「俺は愛未のことが大好きなんです。愛未には何度も助けてもらいました。そんな素敵な女の子を育ててくれたあなたには感謝しているんですよ」
精一杯の感謝と白々しい嘘を織り交ぜながら伝える。
感謝の言葉は、ただの社交辞令というわけではない。愛未母がもっとろくでもない人間だったら、愛未はとっくに居なくなっていたかもしれない。それこそ、千颯と出会うよりずっと前に。
愛未と出会えたことには素直に感謝をしている。だけど、いまの素敵な愛未を目の前の女が育てたとはどうにも思えない。
愛未の強さや優しさは、きっと自分の力で得たものなのだろうから。その点に関しては、白々しい嘘だ。
本音にほんの少しの建前を交えた言葉は、愛未母にちゃんと届いた。
「そんなこと、初めて言われた……」
愛未母は落ち着きなく視線を泳がせる。動揺しているのが見てとれた。
「私はろくでもない母親で、愛未にも八つ当たりばっかりしていたのに、ありがとうって、何なんだよ……。なんでそんなこと言うんだよ……」
その言葉で愛未母の善意がほんの少しだけ見えた気がした。
この人は、自分がダメな親であることを自覚している。身勝手な理屈を正当化して、愛未に冷たくしていたわけではなかった。
ダメな自分に気付いていながらも改善できない。そんな事情が隠れているような気がした。
愛未母に少しでも善意が残っているなら、話し合いの余地はある。雅の言っていた共感を示すためにも、もう一歩歩み寄ってみた。
「もしよければ聞かせてくれませんか? どうして愛未に冷たくしてしまうのか」
「は? 何を急に……」
愛未母は信じられないものを見るかのように千颯を凝視していた。
当然の反応だ。いきなり理由を話してほしいと言われても戸惑うに決まっている。ましては相手は初対面の男子高校生なのだから。
大人は子供になんて悩みを打ち明けない。大人の問題は大人で解決するのが常だ。大人の問題に首を突っ込もうとしたって、適当にあしらわれるのがオチだ。
さすがに理由まで聞き出すのは無理か……と退こうとした時、ある異変に気付く。
愛未母はこちらの様子を窺うようにチラチラと視線を送っていた。それはまるで、悩みを打ち明けるに値する人物か見定めているようだった。
そこで千颯はひとつの可能性に気付く。
自分達はもう、自分で思っているほど子供としては見られていないことに。
そう言えば先日、颯月も話していた。子供がいなければもっと自由に過ごせていたのにと思ってしまう瞬間があると。
少し前だったら、あんな話は絶対にされていない。「いなければ良かったなんて思うはずないでしょ」と優しい嘘をついて微笑んでいたに違いない。
だけどあの時は、正直に明かしてくれた。それはきっと、正直に明かしても話が通じると思われていたからだ。子供としてではなく、一人の人間として本音を明かしてくれたのだとも考えられる。
もし愛未母も、千颯のことをただの子供として見ていないのであれば、話をしてくれる可能性もある。
考えてみれば、愛未母はいまの千颯達の年齢の頃には既に大人として振舞っていた。高校を中退して、愛未を産んで、一人で子育てをしてきたのなら、嫌でも大人にならざるを得ない。
そんな彼女なら、いまの千颯のことも子供扱いはしないはずだ。
愛未母から信用に足る人物だと思ってもらえるように歩み寄る。
「俺には愛未だけでなく、あなたも苦しんでいるように見えます。何を聞かされても引いたりしないんで教えてもらえませんか?」
沈黙が走る。隣に座る愛未も、目を見開きながら二人の出方を窺っていた。
愛未母は音もなく立ち上がる。そのままキッチンへと向かっていった。失敗したかと焦ったが、不意に声をかけられる。
「麦茶でいい?」
ガラスのコップを3つ準備しながら尋ねられる。なぜこのタイミングでお茶を? と面食らったが、すぐに意図に気付いた。
ここに居てもいいと判断されたから、お茶を出す気になったのだろう。
「はい! 大丈夫です!」
少し大きめの声で返事をする。愛未母は「ん」と小さく頷くと、コップに作り置きの麦茶を注いだ。
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