第152話 決戦前夜
「ほなな、
あんなに近付いていたのに、心はもう手の届かないところに行ってしまったような気がした。
「駅まで見送ってくれるわけじゃないんだね」
拗ねたように言ってみると、雅はにっこり笑った。
「暑いからやだ」
何とも正直な理由だ。とはいえ雅が嫌がるのも理解できる。この蒸し暑い中、駅まで同行させられるのは迷惑な話だ。
仕方ないと諦めつつも、千颯別れを告げる。
「じゃあね、雅。今日はありがとう」
「あの程度の話やったら電話で事足りたやろ。わざわざ交通費と時間をかけて来るなんてほんまにアホやわぁ」
「それは俺も薄々分かっていたことだけどさ」
千颯は言葉を濁す。雅に会いたかったからという本音は、口が裂けても言えない。その代わりに精一杯の感謝を伝えた。
「直接話せたからこそ気付けたこともあったよ。今日は時間を作ってくれて本当にありがとう」
「言っとくけど、今日会ったのは愛未ちゃんのためやから。千颯くんから個人的な理由で会いたいって言われても、うちは会われへんよ。千颯くんの浮気に加担したくないし」
最後の一言は、実に雅らしいと思った。やっぱりこの子は優しい。
そんな優しい女の子を悪者にしたくない。優しい彼女を優しいままで居させてあげるためにも、これ以上は関わり合いになるべきではないのかもしれない。
心の奥底にしまいこんだ感情には厳重に鍵をかけて、千颯は努めて明るく笑った。
「じゃあね、雅。全部終わったら報告するよ」
放課後の帰り際と同じように、サラッと別れの言葉を告げる。雅は小さく手を振りながら千颯を見送ると、すぐにぴしゃんと戸を閉めた。
ふう、と息をついてから駅に向かおうとする。ちょうどその時、先方から着物姿の女性が歩いてくるのを見かけた。
雅母だ。彼女は相変わらず背筋をしゃんと伸ばした美しい佇まいをしている。その姿に目を奪われながらも、千颯はすぐさまお辞儀をした。
「お久しぶりです」
雅と別れたいま、雅母に会うのは気まずい。
警戒する千颯とは対照的に、雅母は相変わらず感情の読み取りにくい表情でお辞儀した。
「千颯くん、久しぶりやなぁ」
「突然お邪魔してしまってすいません」
「いいえ、何のお構いもできず」
「そんなそんな」
千颯が首を振って遠慮をすると、妙な沈黙が流れる。気まずさに耐えかねた千颯はその場から去ろうとした。
「それじゃあ、俺はこれで」
「千颯くん」
よく通る声で呼び止められる。何を言われるのかと身構えていると、雅母は固く閉ざされた口元をふっと緩め、控えめな笑顔を見せた。
「雅と仲良くしてくれて、おおきに」
それは建前なんかじゃなくて、心からの感謝の言葉に聞こえた。
*・*・*
相良家を後にしてから、千颯は新幹線に乗って東京に戻る。京都にいた時間が短かったこともあり、普段図書館から帰宅するのと同じ時間に家についた。
いつも通りを装いながら、千颯はリビングに入る。
「ただいまー」
「あ、千颯くん、おかえりー」
愛未はダイニングテーブルで頬杖を突きながら分厚い冊子をめくっていた。ひとまずは帰宅早々に怪しまれる事態にならずにホッとする。
「何見てんの?」
「千颯くんの子供の頃のアルバム」
「え?」
思いもよらない代物が愛未の手に渡っていて驚きを隠せない。
「なんでそんなものを愛未が……」
「昨日の夜、千颯くんが出掛けている間に、
「余計なことを……」
颯月が面白半分で愛未にアルバムを見せた光景が想像できる。本当に余計なことをしてくれる。
「これは没収です」
愛未の手元からひょいっとアルバムを奪い取って背中に隠す。すると愛未は不服そうに頬を膨らました。
「えー、子供の頃の可愛い千颯くん、もっと見たかったのにー」
「やだよ、恥ずかしい」
自分の子供時代を見られるのは恥ずかしい。アルバムの中には、文字通り恥ずかしい写真も紛れているからだ。
「とにかくこれ以上はダメです」
「ざーんねん」
千颯が本気で嫌がっているのを察してくれたのか、愛未はあっさり引き下がってくれた。それから話題は少し変わった方向に行く。
「アルバムを見せてもらったときにね、颯月さんから千颯くんの名前の由来も聞かせてもらったんだ。千颯くんは知ってる?」
「知ってるよ。千はたくさんを表わしていて、颯は疾風を表わしている。向かい風に打たれるような困難に直面しても逞しく進んでほしい。そして追い風を背に前へ前へ進んでほしい。そんな意味でしょ」
「ちゃんと知ってたんだ。素敵な意味だよね」
「そうかな? 追い風を背に~っていうのはまだいいけどさ、向かい風なんて困難を暗示するようなことを名前に込めるのはどうかと思ったよ。波風立てずに生きていけた方が楽だったのに」
拗ねた子供のように文句を言うと、愛未はクスクスと笑った。
「その気持ちも分かるけどさ、何もなかったら成長もできないよ? きっと千颯くんのご両親は、困難も含めてたくさんのことを経験して、強く逞しく育ってほしいと思ったんじゃないかな?」
諭すように指摘されると何も言えなくなる。黙り込んでいると、愛未はどこか寂し気にふうと溜息をついた。
「この家に来て分かったけどさ、千颯くんは本当に愛されて育ってきたんだよね。私とは全然違う」
愛未の心の闇が垣間見えた気がした。落ち込んだように背中を丸める姿は、まるで一人ぼっちの捨て猫のように見えた。
「私もさ、愛されてた瞬間ってあったのかな?」
眉を下げながら力なく笑う愛未を見て、胸がぎゅっと締め付けられた。その寂しさを少しでも埋めてあげたくて、千颯はぎゅっと後ろから抱きしめた。
びくんと愛未の肩が跳ねる。その肩に寄り添いながら、千颯は決意を固めた。
「明日、愛未のお母さんとちゃんと話そう」
母親との溝が埋まらない限り、愛未の根本的な闇は解消されない。自分がどれだけ愛しても、きっとその愛は別の器に入っていて、本当に満たしたい器は空っぽなままな気がした。代わりなんてないんだ、きっと。
明日の話し合いで少しでも母親からの愛を感じられれば、空っぽの器も埋まるのかもしれない。ほんの少しだけだったとしても、まったくないよりはずっとマシだ。
話し合いが上手く行く展開を望みながら、千颯は愛未の華奢な背中を抱きしめた。
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