第149話 針のむしろ
翌日。早朝のバイトが入っていた
帰ってきたときに怪しまれないよう、図書館に行く時と同じリュックで東京駅に向かう。念のため新幹線で勉強できるように英語の参考書も入れておいた。
東京駅に辿り着いてから、去年の夏と同じように新幹線に乗り込む。もう引き返すことはできない段階になって、自分がとんでもないことをしていることを自覚した。
罪悪感で押しつぶされそうになるのを紛らわすように、リュックの中を漁って参考書を探す。すると、ギザギザした何かが指に触れた。
正体を確かめようと掴むと、個包装のチョコレート菓子が出てきた。
恐る恐る開けてみると、表面のチョコレートは一度溶けて固まったのか、歪な形をしていた。
自己管理能力のなさに呆れながらも、チョコレートを口に放り込む。形は歪でも味はいつもと変わらなかった。
気を取り直して参考を開いたが、内容がまったく頭に入って来ない。英単語のひとつも覚えられなかった。
終始落ち着かない気分のまま新幹線に揺られ、京都駅に到着した。ホームに降り立った直後も、愛未への後ろめたさでズキっと心が痛んだ。重い足取りのまま、千颯は改札まで向かった。
改札を出ると、すぐに雅を発見した。雅はギンガムチェックのワンピースに麦わら帽子を合わせた夏らしい装いをしていた。半袖から覗く二の腕は、日焼けとは無縁なほどに白い。
千颯の存在に気付くと、雅は呆れたような表情を浮かべた。
「ほんまに来たんやな……」
「来ちゃいました……」
後ろめたさを感じながら返事をしたところで、意外な人物がいることに気付く。
「元彼氏くん、久しぶりー」
雅の隣には
「由紀さん、お久しぶりです。雅と一緒だったんですね」
「うん。今日は雅とランチデートだったからね」
デートの部分が強調されたような気がするが、気付かなかったことにする。
「仲良さそうで何よりです」
「おかげさまで」
サイドの髪を耳にかけながら、女子のハートを射貫くような王子様スマイルを浮かべる。相変わらずこの人はカッコいい。
由紀は笑顔を保ったまま話を続ける。
「それはそうと元彼氏くん、ありがとね」
「何がです?」
そう尋ねるも、由紀はニコニコと笑うばかりで具体的な内容は話してくれなかった。話さなくても言わんとしていることは分かるけど。
千颯が苦笑いを浮かべていると、由紀はさらっと雅から離れた。
「私は帰るね。じゃあね、雅、元彼氏くん」
「ほななぁ」
雅が手を振ると、由紀は颯爽と人混みの中に消えていった。
「何だったんだ、いまの……」
「由紀な、なんでか知らんけど千颯くんにお礼が言いたかったんやって。だから千颯くんが来るまで一緒に待っててくれたん」
「そーなんだ……」
お礼というよりはマウントを取られたように思える。元彼氏くん、元彼氏くんと連呼していたのがその証拠だ。
由紀としては千颯という邪魔者がいなくなったことで、雅に近付きやすくなったのだろう。二人を仲直りさせるきっかけを作ったのは紛れもなく千颯だったが、友達以上に仲良くしているというのは複雑な気分だった。
「一応聞いておくけど、由紀さんと付き合ってるわけじゃないよね?」
そう尋ねると、何言ってんだと言わんばかりに白い目を向けられたので、速攻「なんでもないです」と取り消した。
「それにしても、ほんまに京都まで来たんやなぁ。千颯くん、受験勉強大丈夫なん?」
「一日くらい平気だよ。行き帰りに勉強できるように参考書も持ってきてるし」
実際は持ってきているだけの状態だが、そこまでは伝えずにいた。
「まあええわ。とりあえずうちに行こ。みんな千颯くんに会いたがってるし」
うん、と頷いたところで、雅に続いて歩き出す。……が、すぐにある言葉に引っ掛かり足を止めた。
「みんなって誰?」
一瞬黙り込む雅。そのままこちらに視線を向けることなく答えた。
「みんなはみんなや」
その言葉で京都組の面々が頭に浮かぶ。同時に嫌な予感もした。
「あのさ、みんなには俺たちが別れたことって……」
「もちろん伝えてる」
「俺が愛未と付き合い始めたのは」
「それもみんな知っとる」
その言葉でサーっと青ざめた。
「もしかしなくてもそれ、針のむしろなんじゃ……」
またしても黙り込む雅。こちらを見てくれないのが余計に怖い。
「とりあえず行こかぁ」
「いやあああああああ」
到着して早々、京都に来たことを後悔した。
*・*・*
夏の暑さとは違う意味で汗をかいた千颯は、雅に連れられるがまま相良家本邸にやって来た。相変わらず京の町並みに調和するノスタルジックな邸宅だった。
「遠慮せず上がってー」
「お、お邪魔しまーす」
千颯はか細い声で挨拶をする。ガラガラと音を立てて戸を開けると、中から見知った人物が顔を出した。
「千颯くん、久しぶりやなー」
最初に現れたのは、ラフなTシャツに身を包んだ
宗司は口元は笑っているが、目は一切笑っていない。いつぞや目の当たりにしたお怒りモードだった。
「お久しぶりですー。あの、今日はお仕事は……」
「定休日や。雅から千颯くんが来るって聞いてなぁ、居ても経ってもいられなくなって会いにきたんや」
「そ、そうなんですねー。わざわざありがとうございます」
相手を刺激しないように精一杯笑顔を作る千颯。しかしそんな取り繕った笑顔で場の雰囲気が和むはずもなく、宗司はどす黒いオーラを纏ったままジリジリと千颯に詰め寄った。
そんな中、雅はそそくさと家の中に入る。
「うち、先に部屋に行っとるなぁ」
「ちょっと雅! 俺を置いてかないで!」
助けを求めるも、雅は振り返ることなく姿を消した。
玄関には千颯と宗司だけが取り残される。宗司は相変わらず、肝が冷えるような薄ら笑いを浮かべていた。
「千颯くん、もっとよう顔見して?」
「ひゃい」
壁際に追い詰められると、ドンと大きな音を立てて片手で千颯を囲い込んだ。所謂壁ドンだ。ドキドキではなく、ひゅんとする方の。
恐怖で震えあがる千颯を氷のような瞳で見つめる宗司。そのままどこか余所余所しい口調で話を続けた。
「千颯くんはえらいモテるんやねぇ。雅と別れた直後に、別の女と付き合うなんて流石やなぁ。やっぱり東京の男はやることが違う。俺にはよう真似できひんわぁ」
褒められているような文脈なのに、脅されているように感じる。まるで首元に刃先を突きつけられているような気分だった。
(この人、和菓子職人は表の顔で、裏では殺し屋稼業に勤しんでるんじゃ……)
そんな想像をしてしまうほど迫力があった。
「本当にごめんなさい。雅さんと別れるような事態になってしまって」
なんとか謝罪の言葉を口にするも、宗司は冷ややかに笑うばかり。
「別に謝ってほしいんちゃうで? 俺はただ、がっかりしたんや。雅のことよろしく頼むって言うたのに
「そう、ですよね……ご期待に添えず申し訳ございません」
何とか怒りを鎮めてもらおうと誠心誠意謝罪する。そんな中、意外な人物が仲裁に入ってくれた。
「宗ちゃん、そこらへんでやめにしたって。千颯くん、怯えとるやん」
どこか沈んだ口調で宗司を窘めたのは
窮地を脱した千颯は、おずおずと朔真にお礼を告げた。
「あの、ありがとうございます」
すると朔真からはサッと視線を逸らされる。
「何しに来たんや。もうあんたの顔なんか見たくない」
その言葉で、朔真からも失望されていることに気が付いた。もともと朔真は重度のシスコンだ。大事な妹が傷つけられたとなれば、怒るのも無理はない。
いまさら別れた経緯を詳しく伝えるつもりはないが、せめてもの誠意は伝えたかった。
「朔真さん、裏切ってしまってすいません。でも、いい加減な気持ちで近付いたわけではないんです」
そう告げると、朔真は驚いたようにこちらを見つめる。
「いい加減やないんなら、どんな気持ちで……」
「俺なりに真剣な気持ちで向き合っていました」
もちろん、雅に対してのことだ。それ以外の意味はない。
朔真は驚いたように固まっている。その直後、ぶわっと涙が溢れ出した。
「なんなん? 期待させるだけさせといて飽きたらポイか。こっちは性癖まで捻じ曲げられたのに、どうしてくれるんや!」
朔真はとめどなく溢れる涙を手の甲で拭う。まさか泣かれるとは思っていなかった千颯は、狼狽えていた。
そこまで妹への愛が強いとは驚きだ。性癖が捻じ曲げられたというのは引っかかるが……。
「な、泣かないでください」
慰めようと手を伸ばすも、パシンと跳ね返される。
「触んなボケ! いまさら優しくされたって辛いだけや!」
確かに妹の元彼に慰められても腹が立つだけかもしれない。千颯はおずおずと手を引っ込めた。
やはり雅と別れたことは、相良家の皆さんに多大な影響を与えているらしい。申しわけなさを感じながら、千颯は朔真に頭を下げた。
「幸せにしてあげられなくて申しわけございません。俺が傍にいることはできませんが、幸せになってほしいと願う気持ちは本物です」
別れても雅の幸せを願っていることを告げると、朔真は潤んだ瞳で千颯を睨みつける。
「なんで最後まで優しくするん? そんなんされたら忘れられなくなるやろ!」
涙ながらに睨みつけられると、一瞬だけゾクッとしてしまう。朔真は顔がいいだけあって、泣き顔も綺麗だった。その姿に思わず見惚れてしまう。
呆然と立ち尽くしていると、朔真は涙ながらに家から飛び出した。
「あんたなんか大嫌いやー!」
そう叫ぶ朔真の背中を眺めながら、宗司が面倒臭そうに溜息をつく。
「あーあ、二人目の被害者が……。あっちの方が重症やな……」
宗司は朔真を追いかけるように家から飛び出した。
まるで台風のような二人。そんな彼らを見て、千颯はあらためて感じた。
(妹の恋愛にそこまで感情移入できるなんて、凄いなぁ……)
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