第143話 良くない夢
黒の下着を身につけた愛未が、
夢の中なのだから好きに振舞えばいいと思ったが、なぜか身体は石のように動かない。もどかしさでいっぱいになりながら、ただ妖艶に微笑む愛未を見上げることしかできなかった。
瞼の奥から陽の光を感じ、少しずつ意識が覚醒してくる。夢での余韻が続いているのか、誰かと抱き合っているような温もりを感じた。
「千颯くん、ちょっと……」
幻聴まで聞こえてきた。目が覚めたと思ったけど、まだ夢の中なのかもしれない。
そんなことを考えながらゆっくりと瞼を開けると、艶やかな黒髪と真っ白なうなじが視界に入った。
驚くべきことにベッドの中で愛未が横たわっていた。振り返った愛未は悩まし気な表情を浮かべている。
「起きた? とりあえず離れてくれると嬉しいな」
そう指摘されて、自分がとんでもない体勢になっていることに気付く。まるで抱き枕を抱えるように、愛未を後ろからホールドしていた。
「なっ……なんで愛未がここに!?」
千颯は跳びはねるようにして愛未から離れる。目が覚めた直後だというのに、心臓はバクバクと暴れまわっていた。
千颯から解放された愛未は、髪を耳にかけながら身体を起こす。その仕草は妙に色っぽく思えた。パニックになりながら千颯は尋ねる。
「これはどういう状況? まさか夜這い?」
「違うよ! 千颯くんがいつまでも起きてこないから起こしに来たんだよ。そしたら突然手を掴まれてベッドに引きずり込まれたからびっくりしたよ」
一切記憶にない。寝ている間にそんなことをしていたなんて、自分で自分が恐ろしくなった。
「そんないかがわしいことをしていたなんて、本当にごめんなさい」
千颯はベッドの上で土下座して、全身全霊で謝った。すると愛未は、困り顔を浮かべながらも首を左右に振る。
「別にそのこと自体はいいんだけど、
その言葉で、抱きついたこと自体は嫌がられているわけではないと気付き安堵した。とはいえ件の禁止令が下っている以上、ベッドに引きずりこんで添い寝するなんて危険行為だ。一歩間違えば、約束を破ってしまうことになる。
とりあえずは下心に打ち勝ったことに安堵していた。早々に離れたのが功を成したようだ。
それから愛未はいつになく狼狽えたような様子でベッドから立ち上がる。そして顔を真っ赤にしながら言いにくそうに告げた。
「颯月さんとの約束は破るつもりはないからさ、その……ソレは自分で処理してね……」
そう告げると、愛未はそそくさと部屋から出て行った。
ソレが何を指しているのかはすぐに理解できた。あれだけ密着していれば気付かれてしまうのも無理はない。千颯はベッドに倒れ込み、枕に顔埋めた。
「……しにたい」
*・*・*
愛未のバイトが休みだったこともあり、今日は一緒に図書館に行って勉強することになった。図書館までの道のりを二人で歩く。
朝のハプニングが尾を引いて気まずさを感じていた千颯だったが、愛未はまるで何もなかったかのようにいつも通りに振舞っていた。気を遣われているのかもしれないが、変に意識されるよりはずっとやりやすかった。
「受験勉強は順調?」
不意に勉強の進捗を聞かれたことに戸惑いつつも、ありのままに答えた。
「まずは基礎を固めているところだよ。基礎ができていない状態だと過去問解いても意味がないって水野から言われたから」
「そっか。千颯くん、勉強はそんなに得意じゃなかったもんね」
「うう……仰る通りで……」
愛未が指摘したように、千颯はあまり勉強が得意ではない。テストでは平均点以下と取ることもザラだった。
普段からろくに勉強をしてこなかったのだから、当然と言えば当然だ。赤点だけは回避するため、テスト一週間前に慌てたように詰め込んでいたが、テストが終わった頃にはすべてを忘却していた。こんなことを繰り返していたのだから勉強ができるはずがない。
そのツケがいま回ってきたというわけだ。受験を乗り切るためには、ここから挽回しなければならない。
「俺、本当にダメだよね。こんなんで志望校に受かるのかな……」
先のことを考えると、どんどん憂鬱になっていく。そんな千颯を鼓舞するかのように、愛未はポンと背中を軽く叩いた。
「とりあえず、いまは目の前のことをやるしかないんじゃない?」
もっとも過ぎる言葉に頷くほかない。これ以上、先のことを考えて憂鬱になりたくなかったから、咄嗟に話題の矛先を変えた。
「そういう愛未は、勉強は順調?」
「教養試験の問題集は一通り解き終わったし、夏休み前には進路指導の先生に面接対策もしてもらったよ。あとは体力検査に備えて勉強の合間に筋トレしてる」
「体力検査なんてあるんだ」
「うん。基礎的な体力が備わっているか見るみたい。そこまでハードルが高いものでもないから、運動部じゃなくても基準はクリアできると思うけど、準備をしておくに越したことはないからね」
「なるほどね」
愛未も順調そうで安心した。目標を定めたら計画的に対策する姿勢は流石だった。千颯が感心していると、愛未は意外な提案をする。
「そうだ! せっかくだし、今日の夜、一緒に走ろうか。千颯くんちに来てからトレーニングサボりがちになっていたし」
「走るって俺も?」
「いや?」
首を傾げながら顔を覗き込まれると、断れない雰囲気になる。
「いやじゃないです」
承諾すると愛未は満足そうに微笑んだ。
「約束ね」
笑顔で小指を差し出す愛未。その細い小指に自分の指を絡めた。
指きりげんまん。そんな子供じみた行為にすらドキドキしてしまうのだから、相当重症だと思う。
図書館に到着すると、愛未はサラッと千颯から離れる。
「じゃあ、集中できるように別々の席に座るね」
「あう」
てっきり隣に座って勉強するものだと思っていたから、拍子抜けしてしまった。
名残惜しさから手を伸ばしたが、愛未は気まぐれな猫のようにサラッと離れて行くばかりで振り返ることもない。千颯はガックリ肩を落としながら空いた席に座った。
一部始終を見ていた
愛未の行動は正しい。隣で勉強していたら愛未のことが気になって集中できなくなるだろうから。
自分のためを思っての行動だということは分かっていたが、寂しいものは寂しかった。
*・*・*
最初は寂しさが渦巻いていたものの、数学の問題集を開いて解き始めると勉強モードに切り替わった。集中してサクサク問題を解いていると、あっという間にお昼になり、愛未、水野、
コンビニでおにぎりとパンを買ってから、図書館に隣接する公園に移動して4人で昼飯を食べる。ベンチは女性陣に譲って、千颯と水野は芝生の上に腰を下ろした。
初めは勉強の進捗について話していたが、話の流れから愛未が藤間家に居候していることをうっかり話してしまった。当然のことながら、水野と羽菜は驚いた表情を浮かべる。
「え? 木崎さん、千颯の家にいるの? なんだかとんでもないことになっているんだね」
「彼氏と同居なんてドキドキの展開ですね。ちょっと羨ましいですけど」
羨ましいという羽菜の言葉を聞いた水野が、一瞬だけ目をギラつかせて雄の顔になっていたけど、気付かなかったふりをした。普段はあまり感じさせないが、菩薩様にも性欲はあるらしい。
そんな二人の前で、愛未は何でもないことのように話す。
「同居って言っても二人きりじゃないから割と健全だよ。色々制限も掛けられているから、ね」
ね、のところでこちらに視線を向けられたが、あまり大袈裟な反応をしないように努めた。ここであたふたしていたら、勘のいい水野に詳細がバレてしまう。
しかし千颯が反応しようがしまいが水野は何かを察していたようで、慰めるようにポンと千颯の肩を叩いた。
「頑張れ、千颯」
その頑張れが何を指すのかは、羽菜以外は察していたようだった。
「頑張ります……」
千颯は俯きながら小さく意気込みを語った。
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