第132話 愛未の進路

 新学期が始まって数日経ったある日の放課後。千颯ちはや愛未あいみは二人で勉強をしていた。


 千颯の部屋でローテーブルを広げて、向かい合って勉強をする。千颯の手元には数学の参考書、愛未の手元には警察官採用試験のテキストがあった。


「愛未が警察官を目指すっていうのは、正直意外だった」

「そうだよね。びっくりするのも無理ないよ」


 千颯が率直な感想を伝えると、愛未は少し恥ずかしそうに笑った。


 以前愛未は、卒業したら就職すると言っていたが、その就職先に警察官を選んだのは予想外だった。ついこの間、愛未からその話を聞かされたばかりで、まだ実感が湧かない。


 驚きを露わにしていると、愛未は警察官を目指すようになった経緯を明かした。


「担任の先生にね、進学じゃなくて就職を希望しているって伝えたら、公務員になったらどうかってアドバイスされたの。公務員だったら長く働けるだろうからって」


「公務員の中でも警察官を選んだのが意外」


「うん。はじめは役所とかも考えたんだけど、警察官になれば警察学校に入れるし、寮も完備されているから、手っ取り早くあの家を出られると思ったんだ。それに……」


「それに?」


 千颯が促すと、愛未は恥ずかしそうに視線を巡らせた後、俯き加減で口を開いた。


「千颯くんが私を助けてくれたように、私も誰かを助けられるような人間になりたいと思ったんだ」


 自分の行動がきっかけになったというのは意外だった。愛未の将来に影響を及ぼすほどの何かをしたとは思っていないが、自分の存在が前に進むきっかけになったのなら、これほどまでに喜ばしいことはない。


「愛未ならきっとなれるよ」

「そうかな?」

「うん。ずっと見てきたから分かる。愛未は強いもん」


 いままで見てきた女の子の中でも、愛未はぶっちぎりに強い。愛未だったら誰かを助けられる強くてカッコいい警察官になれるような気がした。


 尊敬の眼差しを向けていると、愛未はクスっと笑いながら冗談めいた発言をする。


「じゃあさ、もし千颯くんが悪いことをしたら、私が捕まえてあげるね」

「悪いことなんてしないよ」

「どうだろう? 私が警察学校に入っている間に、浮気とかしない?」


 こちらを試すように顔を覗き込んでくる愛未に、思わずドキッとする。


「しないしない!」

「可愛い女の子からアプローチされても?」

「しないって! それに俺、愛未が思っているほどモテないから!」


 咄嗟に否定するも、愛未はやれやれと言わんばかりに両手を仰いだ。


「自覚ないんだ。千颯くん、いろんな場所で女の子を射止めてるんだよ?」


 その言葉で、芽依から告白されたことを思い出す。だけど余計なことを口走って不安にさせたくなかったから話題には触れずにいた。


「とにかく、浮気なんてしないから。愛未が警察学校に入っても、ちゃんと待ってる」


 はっきりとそう告げると、愛未は安堵したような表情を緩めた。


「その言葉が聞けて良かった」


 それから愛未は腰を浮かせて、千颯の隣に移動する。ふわりと花のような甘い香りを漂わせながら、愛未はこてんと千颯の肩に頭を預けた。


 突然距離を詰められたことで緊張が走る。付き合ってから手を繋いだり、キスをしたりすることはあるけど、二人きりの状態でこんなことをされるのは色々マズイ。


 肩に心地よい重みを感じながら千颯は俯く。激しく鼓動する心臓の音が、愛未に聞こえているんじゃないかと気が気じゃなかった。


 そんな千颯の心境を知ってか知らずか、愛未はさらに欲を引き出すような発言をする。


「千颯くん。キスしよっか」


 千颯の肩に頭を預けたまま提案する愛未。その言葉を聞いた瞬間、デートの別れ際にキスをしたことを思い出した。


 あの日の唇の感触を思い出す。たぶん同じことをこの場でしたら歯止めが利かなくなる。


 千颯は恥ずかしさで押しつぶされそうになりながらも、こちらの事情を伝えた。


「そんなことをしたら、キスだけでは収まらなくなっちゃうよ?」


 言葉にした瞬間、発火しそうになった。はっきりとは明言しなくても愛未には伝わったようで、肩に乗せた頭がビクッと震えた。


「それは大変だ」

「でしょう?」


 愛未は千颯の肩から頭を浮かし、潤んだ瞳でこちらを見上げる。


「でもさ、収まらなくなってもいいって言ったらどうする?」


 その質問は反則だ。余計な考えを捨てて、成り行きに身を任せたい気分になったが、そうするわけにはいかない事情も思い出す。


「ダメだって。一階にはなぎもいるし、親だってもうすぐ帰ってくる」


 最中に妹や親が入ってくるなんて事態は絶対に避けたい。至極まっとうな理由で断ると、愛未は残念そうに目を伏せた。


「それなら仕方ないね。今日のところはこれで我慢するよ」


 愛未はもう一度腰を浮かせると、千颯の背後に回る。それからふわりと後ろから抱きしめられた。


 甘い香りが漂う。背中には躊躇いなく胸が押し当てられた。こんなのは妥協でも何でもなかった。

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