第127話 甘く溶けていく

※甘々注意報※


 チョコレートをひとつ食べ終えると、愛未あいみは熱を帯びた瞳でじーっと千颯ちはやを見つめていた。


 言葉もなく、ただこちらを見つめるだけの愛未。何を考えているのかまったく読めず、千颯は首を傾げた。


「ん? どうしたの?」


 尋ねてもすぐには言葉が返って来ない。緊張した面持ちで、千颯の顔をじーっと見つめるばかりだった。


 妙な緊張感に包まれる。しばらく経った頃、愛未はどこか緊張を含んだような声色で尋ねた。


「ねえ、千颯くん。私も貰っていいかな?」

「チョコ? それはいいけど……」


 まさか愛未からチョコを強請られるとは思わなかった。ついさっきチョコ作りの練習をしたと話していたから、自作のチョコなんて散々食べているはずなのに。


 戸惑いはあったけど、断るつもりはない。独り占めなんて子供じみた真似をするつもりはなかった。


 千颯がチョコの袋を差し出すと、愛未は小さく首を振る。そのまま袋をベンチの脇に置いた。


「いいよ、こっちから貰うから」


 そう囁くと、愛未は千颯の頬に触れる。寒さですっかり冷えてしまったのか、ヒヤッとした冷たい感触が伝わった。


 指先の温度に気を取られた直後、やわらかな感触が唇に伝わった。


 愛未は千颯にキスをした。


 それは軽く触れ合うだけのキスではなく、唇に残ったチョコレートを味わうようなキスだった。


 ふにふにとした柔らかい唇が下唇を食む。驚き目を見開くと、愛未はそっと目を閉じながら唇の感触を味わっていた。


 下唇をやわやわと食んでいたかと思えば、唇とは少し違う熱いものが触れる。唇に残ったチョコレートをぺろっと掠め取られると、へにゃりと力が抜けてしまった。


 甘くて、柔らかくて、温かくて、チョコレートと一緒に溶けてしまいそうだった。


 互いの唇の感触をじっくり堪能してから、ゆっくりと身体を離す。


 愛未は潤んだ瞳でこちらを見つめていた。頬は興奮を隠しきれないように上気しているが、口元には僅かに笑みが浮かんでいる。


「甘いね」


 愛未は指先で軽く唇を拭いながら囁いた。


 鏡を見なくても、自分が腑抜けた顔を晒しているのがわかる。いまだかつて味わったことがない強烈な快楽を前にしたら、毅然と振舞うことなんてできなかった。


 愛未はクスっと小悪魔的に笑う。


「そんなに良かった? キス」


 あらためて指摘されると途端に恥ずかしくなる。顔がみるみる熱くなるのを感じながら、千颯は叫んだ。


「なっ……なんでそんなに余裕なんだよーー!」


 言い訳がましく抗議する。キスを終えた直後の言葉にしては、あまりに子供じみていた。


 だけどこちらにも言い分はある。この展開はあまりに予想外だった。


 本来だったら、きちんと段階を踏んでからするつもりだった。それなのに段階をすっ飛ばして、いきなりキスをしてくるなんて誰が想像しただろうか。あまりの出来事に感情が追い付いて行かない。


 もちろん嬉しさは大いにある。愛未とキスをする妄想は幾度となくしてきたし、いつかこんな日が来ることを切望していた。


 だけど愛未から仕掛けてくるのは予想外だった。妄想の中では、自分からする展開ばかりを思い浮かべていたから。


 ましてや軽く触れ合うだけのキスではなく、唇の感触を確かめ合うようなキス。そんなのは想像の域を越えていた。


 もっとも嘆かわしいのは、リードするどころか快楽に溺れてされるがままになっていたことだ。


 柔らかな唇の感触はあまりに気持ち良すぎた。相手がずっと想いを寄せていた相手だと考えると尚更。


 だからこそ、こちらからも唇を押し当てるとか、はたまた舌を忍ばせるとか、そういう能動的な行動はとれなかった。考えすら及ばなかったというのが正直なところだ。


 羞恥心と不甲斐なさに襲われて、ちょっと泣きそうになる。そんな千颯の態度を見た愛未は、不服そうに頬を膨らました。


「私だって余裕ないよ」

「嘘だ!」

「嘘じゃないよ、ほら」


 ムッとした愛未は、千颯の手首を掴む。その直後、あろうことか自分の胸に押し当てた。


 制服の上からでも分かる、ふにっとした感触が伝わる。片手にすっぽり収まるジャストサイズのそれは、想像していたよりもずっと柔らかかった。


 あまりの出来事に固まることしかできない。そんな千颯の顔を覗き込みながら、愛未は言葉を続けた。


「ね、ドキドキしてるの分かるでしょ?」


 その言葉に促されて、柔らかさだけでなく鼓動にも意識を向けてみる。


 手のひらからは、ドクン、ドクンと心臓が激しく鼓動する音を感じた。その早さは、千颯のものとそう変わりない。


「……ドキドキしてる」

「でしょう? 私だって緊張してるんだよ。好きな人との初めてのキスだったんだから」


 好きな人との初めてのキス。その言葉を聞いただけで、クラクラするほどの高揚感に包まれた。


 千颯は愛未の胸から手を離し、頭を抱える。


「愛未は、本当にもう……」


 あらゆる感情が飛び交う脳内を、何とか鎮めようと試みる。目を閉じて浅い呼吸を繰り返しても、この興奮は簡単には鎮まりそうになかった。


 熱で浮かされた頭を上げて、隣に視線を向ける。すると愛未が、不安そうに眉を下げているのに気が付いた。


 その瞬間、自分がいますべきことに気付いた。愛未がここまでしてくれたのだから、こちらも覚悟を決めなければならない。


 千颯は真剣な顔を作って、真っすぐ愛未と向き合う。高鳴る鼓動を感じながら、ありのままの気持ちを伝えた。


「愛未、好きだよ」


 口にした直後、また拒まれたらどうしようという不安が過る。この場に及んでも自信を持てない自分が情けなく思えた。


 そんな千颯の不安とは裏腹に、愛未は瞳を潤ませながら穏やかに微笑む。


「うん、私も好きだよ」


 その言葉には、じんわりと全身が痺れていくような甘さが含まれていた。


 だけどまだ足りない。本当に自分を受け入れてくれるのか確かめたくて、いつかとまったく同じ言葉を伝えた。


「愛してる」


 恐る恐る愛未の表情を伺う。重すぎる言葉を伝えたら、またしても蛙化されてしまうのではという不安に駆られた。


 それでも愛未の表情は変わらない。


「私も愛してるよ」


 受け入れてもらえた。それだけでなく、同じ熱量で気持ちを返してくれた。そのことが堪らなく嬉しかった。


「気持ち悪いって思わない?」

「思わないよ」


 愛未は即答する。その瞳はすべてを包み込むような優しい色をしていた。


 優しさに包まれて、気が緩んでしまう。そのせいもあり、気付いた時には不安を包み隠さず打ち明けていた。


「俺さ、中二の時からずっと愛未を見てきた。三年間ずっとだよ。重いって思うでしょう。それに付き合った初日から愛してるとか言っちゃうし」


 付き合った初日、愛おしさが溢れ出して「愛してる」なんてメッセージを送ってしまった。その言葉が、愛未の蛙化現象を起こす引き金になるとは知らずに。


「多分さ、俺って結構重いんだと思う。付き合ったら嫉妬もするだろうし、他の男に愛想振りまかないでとか面倒くさいことも言っちゃうかもしれない。自分は散々他の女の子に囲まれてたくせに、今更何言ってんだよって話だけど」


 一度好きになったら簡単には嫌いになれない。愛未を好きになって、自分がそういう性分だということに気付かされた。


 振り回されて疲弊することもあるけど、それでもやっぱり戻って来てしまう。どうしたって愛未からは逃れられなかった。


 重いことは自覚している。それでも受け入れてもらえるのか確かめたかった。


「それでもいいの? 俺で」


 不安で押しつぶされそうな千颯に、愛未は笑いかける。


「私はこの一年で千颯くんのことをたくさん知った。千颯くんが私を大事に思ってくれていることも伝わった。だからもう、気持ち悪いなんて思わないよ」


 受け入れてもらえた。そう自覚すると、不安が安心へと姿を変えた。


 一番望んでいたのは、これだ。一番の願い事が、いま叶おうとしている。


 嬉しさが溢れかえって、言葉にするよりも先に身体が動く。千颯は手を伸ばし、愛未の後頭部を手のひらで包み込んだ。それからそっと、唇を重ねる。


 触れ合った瞬間、びくんと愛未の肩が震える。薄目を開けて表情を確かめると、驚いたように目を丸くしていた。だけどその瞳は、次第にとろけきった色に変化し、最終的にはそっと目を閉じていた。


 その反応で拒絶されているわけではないと察した。


 先ほどとは違う、触れるだけの軽いキス。だけど心は十分過ぎるほど満たされていた。


 名残り惜しさを残しながらも、ゆっくりと身体を離す。何度か浅い呼吸を繰り返していると、肝心なことをまだ伝えていないことに気付いた。


 恥ずかしそうに眉を顰める愛未を、真っすぐ見据える。気持ちを落ち着かせるように深呼吸した後、千颯は告げた。


「愛未、もう一度ちゃんと付き合おう」


 その瞬間、愛未の瞳に光が宿る。それから安心しきったように口元を緩めた。


「うん」


 小さく頷くと、愛未はコトンと千颯の肩に頭を預ける。その重みは、とても心地よかった。

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