第106話 愛未の家庭環境

 夕日の差し込む教室で、千颯ちはやは机に突っ伏しながら愛未あいみを待つ。頭の中では愛未の事ばかり考えていた。


(愛未はあの家でどんな風に過ごしているんだろう)


 いままでは愛未の家庭環境には、あまり触れないようにしていた。勝手に踏み込んだところで、自分には対処できないと思ったからだ。余所の家庭の親子関係を修復させるなんて、そう簡単にできるはずがない。


 もちろん、相談されれば力になりたいとは思っている。愛未の母親の交際相手に狙われていた時のように、自分のできる範囲では力になるつもりだ。


 だけど根本的な解決は、千颯にはできない。たとえ愛未の母親と直接会って説得したところで、余計に関係がこじれるだけだろう


(愛未が苦しんでいるのに、何もできないなんてな……)


 無力な自分が情けなくなった。


*・*・*


 しばらくすると、教室のドアが開き愛未が戻ってきた。


「お待たせ、千颯くん。面談終わったよ」


 教室に入ってきた愛未は、どこか無理して明るく振舞っているように見えた。千颯は椅子から立ち上がる。


「うん。じゃあ行こうか」


 そのまま二人は学校を出た。


 やって来たのは駅前の公園。もっと気の利いたところに行けばよかったのかもしれないが、急だったことだったのもあり、真っ先に思い浮かんだのがここだった。


「ごめん。デート場所が公園で」


 ベンチに腰掛けながら、千颯は決まりの悪そうに謝る。すると愛未は、首を左右に振りながら微笑んだ。


「気にしないで。私は千颯くんと一緒ならどこでも嬉しいから」


 その言葉で舞い上がってしまう自分がいる。だけど愛未の境遇を思い返すと、手放しに浮かれることはできなかった。


 何から話そうと考えていると、不自然な沈黙が生まれた。その間、愛未はベンチから投げ出した足をブラブラさせながら、千颯が話を切り出すのを待っていた。


 余所の家庭に安易に踏み込んではいけない。そんな思いから、少し外した質問をした。


「愛未はさ、進路どうするの?」

「私は高校卒業したら就職するつもりだよ。面談でもそう伝えた」

「そう、なんだ……」


 その話は初めて聞いた。てっきり愛未も大学進学するものだと思っていた。


 千颯たちの高校ではほとんどの生徒が大学に進学する。高校卒業後に就職というのは稀なケースだった。


 自分だって当たり前のように大学進学を希望している。だけど愛未の家庭環境を思い浮かべると、決して当たり前のことではないと気付いた。


「私の家、大学に行けるほど裕福じゃないから。奨学金借りてまで勉強したいこともないし」


 きっと愛未は自分の置かれた状況を客観視して、進むべき道を見定めているのだろう。自分なんかよりもずっと将来のことを考えているような気がした。


「それに早く自分で稼げるようになって、あの家を出て行きたいしね……」


 家を出て行きたい。その言葉から、家庭環境がいまだ厳しいことが伺えた。

 過度に踏み込んではいけないと思いながらも、愛未の身を案じて尋ねる。


「大丈夫なの? あの家にいて……」


 あの家で愛未が傷つけられていないか心配だった。千颯の意図を察した愛未は、力なく笑いながら答える。


「大丈夫だよ。殴られているわけではないから安心して。あの人も昔よりは精神的に落ち着いたから、理不尽にキレられることもないし。ただ、お互い衝突しないようになるべく顔を合わせないようにしているだけ」

「そっか……」


 ひとまずは危ぶまれる状況ではないことに安堵した。だけどお互い顔を合わせないようにしているというのは好ましい状況とは言えない。愛未は目を伏せながら自虐的に笑った。


「邪魔に思われているのは、いまも昔も変わらないけどね」


 その言葉は千颯の胸に重々しく圧し掛かった。


 寂しそうに俯く愛未になんと声をかけていいのか分からない。「そんなはずないよ。親子なんだから」なんて綺麗ごとはきっと通用しないだろう。


 愛未にかける言葉を探していると、愛未の方が先に口を開いた。


「あの人もさ、可愛そうな人なんだよ。親の反対を押し切って駆け落ちしたけど、あっさり男に逃げられて。誰にも頼れない状況だったから一人で私を育てて来たんだよ」


 母親の置かれた状況を冷静に分析しながら語る。サラッと話す愛未だったが、その背景には想像を絶するような苦労があるように思えた。


「この年になると、あの人が私を嫌う理由も分かるんだ。自分を裏切った男の血が混ざっている子供なんて愛せるはずがないし、やりたいことを諦めて子供を育てないといけなかったんだから。あの人にとっては、私なんて邪魔もの以外のなにものでもないんだよ」


 愛未は小さく息を吐きながら言葉を続ける。


「私は誰かから愛されるような人間じゃない。だからこれからも一人で生きていけなければならないんだ……」


 そう話す愛未の瞳からは、光が消えていた。


 千颯が想像していた以上に、愛未と母親の間には深い溝があった。やはりこの問題は、自分がどうこうできるレベルではない。


 だけど、何もできないからと突き放したくない。愛未はいまも苦しんでいるのだから。


 その苦しみから救ってあげられたらどれだけいいだろうか。そう思いながらも、いまの自分にできることはあまりに少ないことに気がついた。


 もし自分に愛未を養えるほどの経済力があれば、一緒に暮らそうと提案することもできる。母親のいない場所に隔離してあげることもできた。


 だけど高校生の分際でそんなことができるはずもない。自分だって親に養われている身なのだから。


(早く大人になりたい……)


 いまほどそう感じたことはなかった。

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