第94話 それならいっそ
咄嗟に愛未の唇に視線を向ける。艶のある柔らかそうな唇に自分の唇を這わせたら、と考えると全身が熱くなった。きっと想像を絶するような快楽が味わえるに違いない。
もう余計なことは考えずに、誘いに乗って溺れてしまいたい。愛未とキスをする妄想なんて数えきれないほどしてきた。それがいま、実現しようとしている。
愛未の要求している大人のキスは、多分普通のキスではないだろう。そんなものが自分にできるのかは分からないけど、流れに身を任せればどうにでもなる気がした。
(したい…………けど……)
熱に浮かされた頭の中でも、確かに存在している感情があった。
――愛未に嫌われたくない。
このまま誘いに乗ってキスをしてしまったら、また気持ち悪いと突き放されるような気がした。
愛未の蛙化現象が治っていない状況で、自分の欲望をぶつけるのはあまりに危険すぎる。せっかく再構築できた関係を、こんなところで終わらせるのは避けたかった。
「ごめん。いまはまだ、できない……」
千颯は俯きながら、愛未の誘いを断る。
苦しくてしょうがない。欲しいものが目の前にあるのに、我慢しなければならないのは辛かった。
嫌われたくないから手を出せないなんて、傍から見ればヘタレと罵られるかもしれない。自分でも情けないと分かっている。
だけど、そういう行為は本当に好きになってもらってからしたかった。
正直、待つのは辛い。いつまで待てば報われるという期限すら定められていないのだから尚更だ。
それでも、嫌われるよりはずっとマシだ。
なんとか理性を保てたことに安堵していたが、愛未の反応は千颯の感情を逆撫でするものだった。愛未はにやりと小馬鹿にするように笑う。
「そうだよね。こういうのは、千颯くんにはまだ早いよね」
その言葉を聞いた瞬間、スッと千颯の表情が消える。
「は?」
取り繕う余裕もなく、冷ややかな声が漏れた。
目の前で笑う愛未を見て、千颯は悟った。
(ああ、俺は甘く見られてるんだな……)
愛未はきっと、千颯が子供だから手を出してこないと思っているんだ。何も分からない子供だから、できるわけがないと軽く見ているに違いない。
これまでも愛未には散々誘惑されてきた。路地裏で首筋を撫でられたり、愛未の家で押し倒されたり、布団に忍び込まれそうになったり……。その度に、愛未はこちらの反応を見て楽しんでいた。
思い出すと無性に腹が立ってきた。
(こっちの気も知らないで……。俺がどれだけ我慢してると思ってるんだ……)
愛未は千颯の葛藤なんて知る由もない。それならいっそ、分からせてやりたかった。千颯は愛未の腕を掴んで自分の方に引き寄せる。
「ひゃっ!」
突然の出来事に愛未は目を丸くする。バランスを崩した愛未は、壁に手を突いた。
距離が縮まったところで、千颯は愛未の耳元で囁く。
「早くねーよ」
怒りからいつもより低い声が出る。愛未の身体がビクンと震えたのを感じた。
「え……」
愛未は慌てて身体を離す。先ほどまでの余裕の笑みはすっかり消えていた。
戸惑いを露わにする愛未を見つめながら、千颯は続ける。
「本当にそういうことがしたいなら、俺も我慢しないよ」
「そ、そういうことって……」
「それは愛未が一番分かってるんじゃない?」
そう指摘すると、愛未の頬がみるみるうちに赤く染まっていった。こちらを見上げる瞳は、じんわりと潤んでいる。
もういっそ、本当にキスをしてやろうかとも思った。だけどそれをしたら全部壊れてしまう。寸でのところで何とか理性を保った。
愛未は慌てて千颯の手を振りほどくと、赤くなった頬を抑えながら取り乱したように声を上げた。
「なんで急にそんなこと……。いつもの千颯くんなら、真っ赤になって慌ててるだけなのに……」
「俺だっていつまでもやられっぱなしじゃないよ。そっちが本気なら、俺も本気でいく」
いつになく強気な態度に、愛未は困惑する。いまにも燃え上がりそうな真っ赤な顔をしながら、たどたどしく言葉を絞り出した。
「わ、私、散々千颯くんを誘惑してきたけど、本当は全然そういう経験なくて……だからいざ、そういう雰囲気になると……」
「怖い?」
千颯が尋ねると愛未は小さく頷く。
「ちょっと怖い……。相手が千颯くんだったとしても……」
その言葉を聞いて、愛未が本心からそういう行為を求めているわけではないと理解した。
「だったらさ、なんで際どいことばっかりするの? 俺を揶揄って楽しんでるの?」
揶揄いたいだけなら
だけど愛未の答えは違った。恥ずかしそうに視線を逸らしながら、小さな声で白状した。
「だって、こうでもしないと、千颯くん、私のことなんて見てくれないと思ったから……」
千颯は固まる。愛未の言葉を理解した時、いままでの謎が解けた。
千颯は脱力しながらヨロヨロと階段に座り込む。それから全身の空気が抜けるように、大きく溜息をついた。
「しょうもな……」
項垂れる千颯を見て、愛未は目をぱちぱちとさせている。どうして呆れられているのか、まるで分かっていない様子だ。
何にも分かっていない愛未に、千颯ははっきりと伝えた。
「そんなことしなくたって、俺は愛未を見てるから」
その瞬間、愛未は大きく目を見開いた。息を飲んで千颯を見下ろしている。
その一方で、千颯は愛未の愚かさに呆れていた。
愛未は本当に何も分かっていない。際どい行動なんかとらなくても、千颯の視線の先にはずっと愛未がいたのだから。
中学時代から、千颯はずっと愛未を目で追っていた。
眠たそうな目で授業を受けている姿、友達との会話でくすっと笑う姿、大量の宿題が出されて嫌そうな顔をする姿、目が合ったときにふわりと笑いかけてくれる姿……。そういう些細な仕草が堪らなく好きだった。
わざとらしく気を引く必要なんてない。そんなことしなくたって、こっちはとっくに心惹かれているんだから。
たぶん、そこまで伝えたら気持ち悪いって引かれるだろう。だからそれ以上は、心の奥に仕舞っておいた。全部は伝えられなかったけど、愛未にはちゃんと届いていたらしい。
「そっか」
愛未は俯きながら頷く。口元には笑みがこぼれていた。
それから軽い足取りで階段を降りる。一番下まで降りきったとき、愛未はくるんと振り返った。
「それじゃあ、千颯くんを不用意に誘惑するのはもうやめるね」
晴れ晴れとした笑顔を向けられる。分かってもらえたことに安堵して、千颯も笑った。
「うん。助かるよ」
これでいい。千颯は胸を撫でおろしながら階段から立ち上がった。
廊下を歩いていたところで、愛未がふと立ち止まる。
「そうだ。借りなんだけどさ」
「うん?」
その言葉で、まだ借りを返していないことを思い出した。今度は何を要求されるのかと身構えていると、愛未は小悪魔的な表情で微笑んだ。
「今度は千颯くんからデートに誘って」
あまりに可愛らしいお願いに自然と頬が緩む。そういうお願いなら大歓迎だ。
「分かった。今度は俺から誘う」
千颯が承諾すると、愛未は頬を赤らめながらはにかんだ笑顔を浮かべた。
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