第93話 随分見せつけてくれたね

「あー……流石にやり過ぎた……」


 劇の練習が終わり、負傷した肩を抑えながら千颯ちはやは更衣室に向かう。その途中で、愛未あいみが腕組みしながら壁に寄りかかっているのを発見した。


 愛未は侍女役の衣装を着ている。雅ほど肌の露出はしていないものの、身体のラインが強調されたアラビアンテイストな衣装だった。


 千颯は軽い足取りで愛未に近付く。


「そんなところでどうしたの? 着替えなくていいの?」


 能天気に声をかけると、愛未はスッと目を細めながら口元を緩める。


「千颯くんに話があって、ここで待っていたの」

「話?」


 なにやらただならぬ気配を感じる。愛未は口元は笑っているが、目はまったく笑っていなかった。


 そこで千颯はひとつの可能性に気付く。


(まさか……みやびとのキス未遂のことで怒ってる?)


 劇の最中は雅の可愛さにのぼせていたせいで、教室に愛未が居たことをすっかり忘れていた。よく考えれば、愛未の前であんな行動を取るなんて無神経にもほどがある。


 きっと愛未は、千颯の軽率な行動に腹を立てているのだろう。これから制裁が始まるような予感がして、千颯は反射的に後退りした。


 しかし逃亡なんて許されない。愛未は千颯の右手を掴みながら、いつもよりやや低い声で囁いた。


「ちょっとこっちに来て」

「はい」


 成すすべなく千颯は愛未に手を引かれるがまま、屋上へ続く階段まで連行された。


 屋上は普段施錠されていることもあり、この場所には滅多に人が通らない。学校の隅っことも言えるこの場所は、良くも悪くも密会するには最適な場所だった。


 階段を登り、屋上の扉の前までやってくると、千颯は壁に追い詰められる。そして掴まれた右手を、荒々しく壁に押し付けられた。


 愛未は目を細めながら、至近距離で千颯の瞳を覗き込む。いつぞや路地裏に連れ込まれた時と同じようなシチュエーションになっていた。


「愛未さん。これは一体……」

「さっきは、随分見せつけてくれたね」


 千颯の言葉を遮るように、愛未は淡々とした口調で責める。怒鳴られているわけではなのに、それ以上の恐怖を感じた。


「さ、さっきっていうのは、劇のことだよね……」

「そうだよ。あんなの見せつけられて、私が何とも思わないと思った?」


 壁に押し付けられた右手に痛みが走る。逃がさないという意志表示なのか、愛未は力を強めていた。


 痛い、と抗議しようとしたところで、もう片方の手が動く。その手は千颯の顔のすぐ傍までやってきた。


 殴られる、と反射的に目を瞑ったが、襲ってきた感触はまったく別のものだった。


 愛未の細くて冷たい指先が、千颯の唇にそっと触れる。形を確かめるように、何度も何度も弄ばれた。


 突然襲われた刺激に、全身がゾワゾワする。千颯はもどかしい指先の感触に耐えながらされるがままになっていた。


「この唇で雅ちゃんにキスをしたんだね」

「あ、あの時は、本当にキスをしたわけじゃなくて、ふり、だから」


 千颯はたどたどしく弁解をする。すると愛未の口元が少しだけ緩んだ。だけど追求は終わらない。


「ふりだったんだ。でも、本当にしようとも思ったんじゃないの?」


 愛未の言葉で視線が泳ぐ。


「そ、そんなことは……」

「私の目を見て言って」


 千颯は恐る恐る愛未と目を合わせる。氷のような冷ややかな瞳の前では、嘘をついた瞬間息の根を止められそうな気がした。


 千颯は正直に白状する。


「一瞬だけ、本当にしてみようかと思いました……」

「ふーん、そう……」


 愛未の声がワントーン低くなるのを感じた。怒りを増長してしまったのは明らかだ。


「本当にすいません。調子に乗り過ぎました」


 愛未の怒りを収めたくて、咄嗟に謝罪の言葉を口にする。だけど愛未は許してくれなかった。


「許さない」

「そんな……それじゃあ、どうすれば……」


 こんなことを愛未に聞くのは筋違いなのかもしれない。それでも許してもらえる手段が知りたくて、咄嗟に縋ってしまった。


 すると愛未は、ひとつの方法を提示する。


「京都駅での借り、いま返して」


 その言葉で夏休みの出来事を思い出す。


 京都から帰ろうとした日、千颯はみんなとは一緒に帰らずに京都に留まりたいと主張した。様子のおかしかった雅と話をするために。


 その勝手を許してもらう代わりに、貸しを取り付けられた。その効力がいま発動しようとしている。


「借りを返すって、どうやって……」


 恐る恐る尋ねると、愛未は静かに告げる。


「いまここで、私にキスして」

「キス!?」


 予想外の展開に千颯は大声をあげて驚く。まさかキスで借りを返せと言われるとは思わなかった。


 愛未は冗談を言っているようには見えない。こちらの出方を伺うように、じっと瞳の奥を覗き込んでいた。


 千颯が固まっていると、愛未がさらに距離を詰める。それから耳元で囁いた。


「雅ちゃんにしようとしたキスじゃないよ。口と口でする、大人のキス」


 ゾクッと全身が粟立つ。耳元に触れる吐息と甘ったるい香りに包まれて、頭がおかしくなりそうだった。

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