第65話 深夜のお部屋訪問

 午後もなんとか仕事をこなし、無事にバイト初日を終えた。途中、言葉遣いや立ち居振る舞いで雅母に注意されるシーンはあったけど、トラブルを起こすこはなかった。


 立ち仕事による肉体的疲労と、気を張っていた精神的疲労から、千颯ちはやはボロボロになっている。


 それは他のメンバーも同じだったようで、バイト終了後は自然と口数が減っていた。あのなぎでさえ、大人しくなっているのだから相当疲労が溜まっているのが伺える。


 家に帰ったら、さっさとご飯を食べて眠りたい。それなのに夕食と風呂を済ませて、布団に入っても千颯はなかなか寝付けずにいた。


 頭の中では、みやび宗司そうじが楽しそうに会話する姿が何度も蘇る。その度に頭を掻きむしりたくなった。


(なんでこんなに気にしてんだよ……)


 二人のことばかり気にしている自分に嫌気が指した。


 同時にバイト中に盗み見た、宗司の姿も鮮明に蘇ってくる。真剣な表情で手先を動かす宗司の横顔は、男から見てもカッコ良かった。思わず手を止めて、見入ってしまうくらいだ。


(あれは雅が惚れるのも納得だな)


 そう結論づける傍らで、どこか焦りを感じていた。正体の分からない感情に支配され、どんどん眠気が遠ざかっていく。


 このままでは埒が明かないと感じて、布団から起き上がる。喉の渇きも少し感じていたこともあり、キッチンで水を頂くことにした。


 時刻は深夜1時を回っている。みんなを起こさないように、そーっと襖をあけて忍び足で廊下を歩いた。


 喉を潤してから部屋に戻ろうとした時、千颯と同じくそろりそろりと廊下を歩く影を見つけた。


芽依めいちゃん……」


 声を潜ませながら名前を呼ぶ。すると芽依はびくっと身体を跳ね上がらせてから、こちらを向いた。


「お、お兄さん……!」


 目を丸くしながら驚く芽依。そのまま足音を立てないように注意しながら、千颯のもとに駆け寄ってきた。


 胸元にリボンの付いたネグリジェをまとう芽依は、いつも以上に女の子らしい。まるでお姫様のようだった。


「芽依ちゃん、どうしたの? こんな夜中に」

「そ、その……お手洗いに……」

「そっか。だったら引き留めちゃってごめんね」

「いえ、もう部屋に戻るところだったので。お兄さんこそ、どうしたんですか?」

「俺? なんか色々考えてたら眠れなくなって……」


 正直に打ち明けると、芽依は心配するように眉を下げた。


 すると、真横の部屋からこほんと咳払いが聞こえた。たしかここは雅母の部屋だ。

 千颯と芽依は慌てて口を押えた。二人は息を潜めながらその場で固まる。


 部屋の奥から物音が聞こえなくなったのを確認すると、二人はほっと胸を撫でおろした。


 それから芽依が千颯に近付く。何事かと思って固まっていると、芽依は千颯の耳元に顔を寄せた。


「少しお話ししませんか? お兄さんのお部屋で……」


 は? と叫びそうになるのを何とか堪える。芽依は上目遣いで千颯を見つめていた。


*・*・*


「お邪魔します……」


 芽依は緊張した面持ちで部屋に入る。そのまま布団の上にちょこんと正座した。

 一方千颯は、女の子と深夜に部屋で二人きりという状況にパニックになっていた。


(俺はバカか! どうして断らなかったんだ!)


 可愛くお願いする芽依に屈して、思わず頷いてしまった自分を猛烈に悔いた。


 とはいえ、芽依は話をしに来ただけだ。それ以上のことをしなければ、何ら問題はない。何とかこの状況を正当化させながら、千颯は部屋の隅で体育座りをした。


「あの……どうしてそんな離れた場所にいるんですか?」

「お気になさらず。俺は隅っこが好きなので」

「そ、そうですか……」


 芽依は苦笑いしながらも、それ以上突っ込んでくることはなかった。


 ここで物理的に距離を詰めるのはマズい。相手が愛未ではないから、うっかり間違いが起きるなんてことはないだろうけど、近付いたら色々言い訳できない状況になりそうな気がした。


 豆電球だけが付いた薄暗い部屋で、二人はじっと見つめ合う。窓の外から聞こえる蛙の声が、沈黙を破るかのように響いていた。


 芽依は手元にあった枕をぎゅうっと抱き寄せる。すると何かに気付いたかのように、ポツリと呟いた。


「お兄さんの匂いがします……」

「へ?」


 突然の言葉に驚きを隠せない。そこは先ほどまで千颯が寝ていた場所だから、当然と言えば当然だった。だけどあらためて指摘をされると妙に恥ずかしくなった。


 それから芽依は、もう一度枕をぎゅっと抱きかかえる。そして恥ずかしそうに小さく呟いた。


「私は好きですよ。お兄さんの匂い……」


 その言葉は、もろに心臓に突き刺さった。自分の匂いが好きなんて言われたのは初めてだ。


 脳が沸騰しそうになる。千颯は思わず膝に顔を埋めた。


「そういうことをさ、二人きりの状況で言うのはダメだよ……」


 こんなのはあまりに無防備すぎる。深夜に男の部屋にやってくること自体危険なのに、その上こちらの欲求を引き出すようなことを言ってくるなんて危険極まりない。


 千颯の言葉にピンと来ていない芽依は、不思議そうに首を傾げる。


「ダメとはどういう意味でしょう?」


 その言葉を聞いて。芽依が無意識にやっていることを確信した。


 あまり直接的なことは言いたくないが、今後のためにもこの状況の危険さ知ってもらった方がいい。千颯は恥ずかしさを噛み殺しながら尋ねた。


「襲われるかもとは思わないの?」


 ちらっと芽依の反応を伺うと、目を大きく見開いて固まっていた。まるでその可能性は微塵も考えていなかったかのように。


「私、そんなつもりは……。それにお兄さんは、絶対にそんなことしないですよね?」

「それは買いかぶり過ぎだよ」

「だってお兄さん言ってたじゃないですか? そういうのはノリでするものじゃないって……」


 その言葉で、芽依とゲームセンターに行った日のことを思い出した。二人でプリクラを撮った時、撮影の流れでハグを促されたが、結局千颯はしなかった。


 その一件があったから、芽依は千颯に信頼を寄せていたのだろう。だけどそんなのは甘いとしか言えない。


「芽依ちゃんが信頼してくれてるのは嬉しいけど、絶対なんて言いきれない。俺だって男なんだし……」


 これは蛙化されるかもしれない。反射的にそう感じた。ゲームセンターでされたように、冷ややかな目を向けられるかもしれないと覚悟していた。


 芽依の顔を見られずに視線を落としていると、震えるような声が聞こえた。


「ごめんなさい……私、そこまで考えてなくて……」


 芽依は引いていなかった。両手で抱えていた枕を手放し、姿勢を正した。


「あの、お話が終わったらすぐに出て行きます。だから、その……」


 芽依は視線を泳がせる。それから俯き加減で呟いた。


「襲わないでください……」


 千颯は思わず吹き出した。自分から襲わないでくださいと言うのは、なんだか妙だ。


 当然、襲うつもりなんてさらさらない。だけどそう言えば、また油断させてしまうだろう。千颯はあえて曖昧な返事をした。


「うん、気を付ける」

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