第33話 帰りたくない理由

 みやびに促されて千颯ちはや愛未あいみはダイニングテーブルに腰掛ける。いまだ緊張の抜けない二人は背筋を伸ばして固まっていた。


 そんな様子を眺めながら、雅は緑茶とクッキーをダイニングテーブルに並べる。

 お茶とお菓子の準備を済ませた雅は、愛未の正面に座り単刀直入に尋ねた。


「そんで、愛未ちゃんはなんで家に帰られへんの?」


 こんなにストレートに訊かれるとは思っていなかったのか、愛未は驚いたように目を丸くしていた。


 戸惑っていたが、泊めてもらう以上隠しておくわけにはいかないと判断したのか俯きながら答えた。


「家でいろいろあって……」

「そのいろいろっていうのは、うちらが訊いてもええこと?」

「それは……」


 愛未は言葉を詰まらせながら俯く。雅は無理やり聞き出すことはせず、愛未が自分の意思で打ち明けるのを待っているようだった。


 緊張感が漂う中、千颯は出されたお茶に手を伸ばす。二人の様子を伺いながらお茶を啜ったが、口を離すタイミングと湯飲みの傾きを戻すタイミングがずれてお茶が零れた。


「アチッ!」


 お茶は制服のシャツにこぼれてシミを作る。その様子を見た雅が慌てて立ち上がった。


「もう、なにやっとるん!」


 千颯を非難しながらも、テキパキとタオルを用意する雅。あわあわする千颯に駆け寄ると、シャツにこぼれたお茶をトントンと拭き取った。


「平気? 火傷とかしとらん?」

「火傷は大丈夫。ごめん、迷惑かけて」

「気いつけやー」


 そそっかしい千颯に注意しつつテキパキと片付ける。その姿は幼児の世話をする母親のようだった。


 千颯は不甲斐ない自分に恥じながら、されるがままになる。一部始終を見ていた愛未は、緊張の糸が切れたかのようにクスクスと笑っていた。


「緊張感ないなぁ、もう」


*・*・*


 千颯のうっかりで場が和んだところで、愛未はようやく詳しい事情を話す決心がついた。テーブルの下で拳を握りながら、言葉を選ぶように話し始めた。


「実はいま、お母さんの彼氏が来てて……」

「お母さんの彼氏?」


 思いがけない言葉が飛び出して、愛未の言葉を繰り返す千颯。

 てっきり母親と喧嘩したくらいの事情を想像していたが、愛未から語られたのは親子喧嘩よりもずっと根深い問題だった。


 戸惑う千颯に、愛未は詳しく事情を説明した。


「前にも話したけど、うちって父親いないんだよね。だからお母さん、普通に彼氏作って、家に連れてくるの」

「なかなかアグレッシブなお母さんなんやね」

「まあ、お母さんもまだ若いからね。今年で35歳だし」

「「若っ!」」


 衝撃的な事実を聞いて、千颯と雅は思わず声を合わせて叫んだ。いま35歳ということは、18歳のときに愛未を産んだ計算になる。


 愛未は苦笑いを浮かべながら話を続けた。


「彼氏を作ること自体は勝手にしてくださいって話なんだけど、最近付き合いだした男がなかなかのクズなんだ。ヒモだかフリーターだか知らないけど、しょっちゅう家に出入りしているの。お母さんがいようがいまいがお構いなしで」

「うわぁ、それはいややなぁ」


 雅は両腕を抱えながらゾッとしていた。


「それだけでも勘弁してほしいんだけど、最近は私にも手を出そうとしているみたいで。お母さんのいない隙に、ベタベタ触ろうとしてくれんだ。やめてって拒否してもヘラヘラ笑っているだけで全然効果ないの」

「最悪やな、その男」


 雅の意見には千颯も同意だった。嫌がる相手に無理やり迫るなんて、許される行為ではない。男への憤りを感じていると、さらに衝撃的な事実を聞かされた。


「昨日の夜なんてね、お母さんが寝ている隙に私の部屋に忍び込んで来て、無理やりキスしようとしたの」

「は!? キス!?」


 千颯は思わず叫ぶ。男への憤りで全身の血が沸騰しそうになった。


「まあ、全力で拒否して蹴り飛ばしたから、未遂で終わったんだけどね。でも、この先はどうなるか分からない。もしかしたらキス以上のことをされるかもしれないし……」


 愛未の瞳からは光が失われていた。自分の置かれた境遇に絶望しているようだった。


「昨日のことがあったから、家に帰りたくなかったんだ。たぶんあの男は家にいるだろうし」

「そんな危険な男がいる家に帰ったらあかんよ! 何されるか分かったもんやない!」


 雅は男への憤りを浮かべながら、愛未の行動を正当化した。

 しかし愛未の表情は依然として曇っていた。


「だけど、いつまでも帰らないわけにはいかないよね。明日には家に帰らないと」

「うちやったら、いつまででもいてくれてええよ!」

「そういうわけにはいかないよ。雅ちゃんのご両親にだって迷惑かけちゃうし、お金の問題だってある」

「それは……そうやけど……」


 いつまでも愛未を居候させておくことが現実的ではないと気付いた雅は、自分の非力さを悔やむように奥歯を噛み締めた。


 千颯も愛未の助けになってあげたかった。千颯の家に泊めてあげることもできなくはないが、それでは根本的な解決にならないことも分かっている。


 愛未が家を出て一人暮らしできれば一番だけど、稼ぐ能力のない高校生ではほぼ不可能だった。


「どうしたらいいんだろう……」


 解決の糸口が見えずに途方に暮れる千颯。そこでいままで傍観していた朔真さくまが口を開いた。


「そんなのは簡単や。警察に突き出せばええ」


 しんと場が静まり返る。警察という単語が出て、事の深刻さが増した。

 千颯たちが反応できずにいると、朔真は言葉を続けた。


「成人男性が未成年の女の子に同意なしで肉体関係を迫るのは、れっきとした犯罪や。警察に突き出せば一発で勝てる」

「警察ってお兄ちゃん、そんな大袈裟な……」

「大袈裟やない。警察に突き出されても文句言えないことをしとるんやで、その男は」

「せやけどなぁ」


 雅はチラッと愛未の様子を伺う。愛未は表情を曇らせたまま俯いていた。


 朔真の言うことは正しいのだろう。家庭内で起きたこととはいえ、男のしていることは立派な犯罪だ。被害に遭ったら警察に訴えるのが正しい対処法なのかもしれない。


 しかし愛未は首を縦には振らなかった。


「警察はちょっと……」


 愛未は遠慮がちに言葉を続けた。


「あの男を警察に突き出したら、お母さんとの関係までギクシャクする。そうなったら、余計に家に居づらくなるし、最悪学校も行けなくなる」


 愛未の懸念は、部外者である千颯でも理解できた。


 男を警察に突き出せば、母親を敵に回すことにもなりかねない。そうなれば、愛未の立場はより一層悪くなるだろう。


 男との問題が解決しても、母親との関係はこの先も続いていく。ここで波風を立てることは、愛未の今後にも影響する。それは愛未にとって一番避けたいことだろう。


「そもそもの話だけど、お母さんに相談することはできないの? 娘が危ない目に遭っていたら助けてくれるのが普通じゃない?」


 一縷の望みをかけて千颯が尋ねるも、愛未は力なく首を振った。


「うちは普通じゃないから。そんな話をしたら、彼氏を横取りしてってキレられるかもしれないし」

「そっか……」


 考えが甘かった。そもそも母親に相談して解決する問題だったら、千颯達に助けを求めてこない。


 愛未につらい現状を説明させる形になってしまったことに後悔した。

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