第16話 事件
完全に認められたわけではなかったけど、少しずつ受け入れられている雰囲気に千颯は安堵していた。
この日の朝も、駅のホームで雅を待つ。気まぐれで一本早い電車に乗った千颯は、いつもより長くホームに留まっていた。
千颯は通行の邪魔にならない位置で立ち止まり、スマホでソシャゲをポチポチする。画面に夢中になっていたせいで、前方への意識が疎かになっていた。
突然、ドンっ誰かがぶつかってきた。驚いて顔を上げると、フードを被った男が千颯を睨みつけていた。
「あ……すいません……」
咄嗟に謝る千颯。勝手にぶつかってきたのだから謝る義理はないのだけれど、小心者の千颯には謝る以外の選択肢がなかった。
フードの男は千颯を上から下まで凝視すると、チッと舌打ちをして去っていった。
(こっわ! ぶつかりおじさんか?)
突然悪意をぶつけられて、千颯は頭が真っ白になった。
そのまま呆然としていると、雅がやって来た。いつものようにニコニコと手を振っていた雅だったが、千颯に近付くにつれて表情が険しくなった。
「どしたん? そのシャツ」
「え?」
雅に指摘されて胸元に視線を落とすと、真っ白なシャツに茶色のシミがべっとりついていた。
「うわっ! なにこれ!」
いまのいままで気付かなかった千颯は驚嘆する。慌てふためく千颯の隣で、シャツについたシミを観察した。
「色と匂いからして、コーヒーやろな」
「コーヒー? そんなのいつ?」
記憶を遡っていくと、つい先ほどの出来事が脳裏に浮かんだ。
「ああ! さっき変な男とぶつかったときか!」
あの時は気付かなかったけど、ぶつかった拍子にコーヒーをかけられていたのだろう。勝手にぶつかってきて、コーヒーをかけるなんて、どう考えても嫌がらせだ。
「うっわ、最悪……」
行き場のない怒りに支配され、一気にテンションが下がった。
「これ、落ちるかな?」
「すぐ染み抜きすれば落ちるんやないかなぁ」
「めんどくさいな。でも、このまま学校行くわけにもいかないし、いったん帰って着替えてくるか……」
「それがええなぁ。先生には私から事情話しとくわぁ」
「うん、助かる。あー、でも今日の登校は一人になっちゃうけど大丈夫?」
「かまへん、かまへん。非常事態やし」
「ごめん、今度埋め合わせするから」
雅に謝ってから、千颯はいったん家に戻るため反対側のホームに向かった。
反対側のホームに辿り着いて、深々と溜息をつく。
(まったく散々な朝だ)
そう思った時、事件が起きた。
突如、空気を引き裂くような悲鳴が耳を突きさす。
咄嗟にあたりを見渡すと、向かいのホームにいた雅がフードの男に腕を掴まれていた。雅は怯えたような表情をしながら、男の手を引き剥がそうとする。
「やばっ」
考えるよりも先に身体が動き、千颯はホームの階段を駆け上がった。
(まさか雅が言っていた男って、あのフードの男のことだったのか? ボディーガードを任されていたくせに、肝心な時に守れないなんて……)
千颯は罪悪感に苛まれながら、一秒でも早く雅のもとに向かおうと階段を駆け上った。
雅のもとにやってきた千颯は、男の顔面に一発喰らわして一件落着……なんて展開になることはなく、千颯が到着した頃にはフードの男は周囲にいたサラリーマン達に取り押さえられていた。騒ぎを聞きつけて駅員もやってくる。
千颯が介入するまでもなく、事態はほぼ収束していた。呆気に取られて立ち尽くしていると、雅と目が合った。
両腕を抱えながら真っ青な顔をしていた雅だったが、千颯と視線が合うと緊張の糸が切れたかのように表情を崩した。そのまま引き寄せられるように千颯の胸に飛び込んだ。
「こ、こわっ、かった」
言葉にならない声が漏れる。雅は涙を流しながら震えていた。
突然のことで驚きつつも、千颯は雅の背中をさすった。
「大丈夫、もう大丈夫だから」
何度も何度も大丈夫と繰り返し、震える雅を宥めた。
*・*・*
その後、場所を変えて事情聴取が行われ、フードの男は警察に連れていかれた。雅も警察官からあれこれ聞かれていた。その話の中で、フードの男が雅のストーカーだったことが明らかになった。
千颯もコーヒーをかけられるという被害に遭ったことから、当時の状況を詳しく訊かれた。警察から事情聴取されるなんて異常事態とも言えたが、錯乱している雅の隣にいると自分がしっかりしなければという使命感に駆られた。
一時間以上におよぶ事情聴取の末、千颯と雅は解放された。
解放されてからも雅は青ざめた顔をしていた。このまま学校に行くのはメンタル的に無理そうだ。
「今日はこのまま帰る? 家まで送っていくよ?」
千颯の言葉に、雅は小さく首を振った。
「あかん。いま帰ったら、絶対お母さん心配する」
「でも、このまま学校に行くのは無理なんじゃ……」
「どっかで時間潰してから帰る。千颯くんは気にせんでええよ」
「そうはいかないよ。放っておけない」
雅をこのまま一人にするなんて選択肢はなかった。誰かが傍にいてあげないと、細くて小さな身体が崩れてしまいそうに思えた。
解決策を考えていると、向かいのホームから電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。そこで千颯は、本来の目的を思い出す。
「とりあえず、うち来る?」
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