第10話 ハニートラップ

 翌朝も千颯ちはやは駅でみやびを待っていた。


 人でごった返すホームの中から雅を探していると、誰かに見られているような気がした。


 咄嗟にあたりを見渡してみるも正体は分からず。千颯が首を傾げていると、雅が早足で階段から降りてきた。


「おはようさん! 何キョロキョロしとるん?」

「なんか見られてる気がして」

「千颯くんのファン?」

「まさか」

「なら、おばけや!」


 ファンよりはおばけの方が現実味があると思ってしまい、ちょっと切なくなった千颯だった。


 とはいえ、この人混みの中では誰かに見られていたとしても不思議ではない。おおかたホームで突っ立っていた千颯に、邪魔だと圧をかけていたのだろう。千颯はそれ以上考えるのを辞めた。


 それからは昨日と同じように満員電車に乗り込み、周囲の視線を集めながら登校した。


 千颯は休み時間のたびに、クラスの男子から雅との馴れ初めを追求されたが、「雅から口止めされてるから言えない」と都合のいい嘘をついて追及から逃れた。


 放課後。

 昨日と同じように雅と下校すると思いきや、「今日、部活やから先帰ってて」と断られた。


 雅は茶道部に所属している。おしとやかな雅にはぴったりだというのが周囲の反応だったが、つい昨日抹茶が好きだと聞いたばかりの千颯には雅の魂胆が透けて見えた。


 雅から断られ、ちょっぴり残念な気分のまま教室を出ようとした時、不意に誰かからシャツの袖を掴まれた。


 振り返ると、愛未あいみがじっとこちらを見つめていた。


「千颯くん、捕まえた」


 その瞳は獲物を捕らえた肉食獣のように爛々としていた。捕まった千颯は、逃げることもできず、喰われるのを待つだけの草食動物になった。


*・*・*


 緊張した面持ちで愛未の隣を歩く千颯。


 愛未に捕まった後、「一緒に帰ろう」と誘われて、駅まで一緒に行くことになった。


 こんな現場をクラスメイトに見られたらなんて言われるか分からない。リスクが大きいことは分かっていたが、愛未の圧が強すぎて断れなかった。


 小さくなりながら愛未の隣を歩いていると、愛未が本題を切り出した。


「びっくりしたよ。私と別れてからすぐに相良さがらさんと付き合うから」


 愛未は横目で千颯を見つめる。口調は穏やかだったけど、目はまったく笑っていなかった。


「そ、そうだよね。びっくりするのは当然だよねー」


 千颯は引き攣った笑いを浮かべながら共感してみた。会話の選択肢を間違えば、命はない。そんな緊張感すら漂っていた。


 おどける千颯を見て、愛未の口元がピクリを引き攣る。

 次の瞬間、愛未は千颯の腕を掴んだ。


「ちょっ! 愛未、どうしたの?」


 愛未に腕を引っ張られ、カラオケ店と居酒屋の隙間にある狭くて薄暗い路地裏に押し込まれた。そのまま千颯は壁に押さえつけられる。


 殺される……と身構えていた千颯だったが、目の前で起こったのはまったく異なる反応だった。


 愛未は上目遣いをしながら、あざとく微笑んだ。


「千颯くん、私のこと好きじゃなくなっちゃったの?」

「ぬえっ?」


 予想外の質問に千颯は変な声を漏らす。

 動揺のあまり何も答えられずにフリーズしていると、愛未はスッと目を細めた。


 今度こそ殺されると身構えていると、愛未は千颯の首筋に細い指を這わせた。


 羽のような軽いタッチで首筋を撫でられる。突如襲われた快楽に耐えるように千颯はギュッと目を閉じた。


「ちょっ……首、やめて」

「んー? なんで?」

「だって……こんなの……」

「気持ちよくなっちゃう?」


 思わず目を開けると、愛未は千颯の顔を覗きこみながら妖艶に微笑んでいた。その表情を見て、千颯は全身が燃え上がるように熱くなった。


(何この状況? 全然意味分からないんだけど?)


 もしも愛未と付き合っている状態でこんな行為をされたら、きっと千颯は手放しに浮かれて快楽に身を任せていただろう。


 だけどいまはそうじゃない。既に愛未とは別れているのだから、こんな至近距離で首筋を撫でられるなんてどう考えてもおかしい。


「どうしちゃったの? 愛未」

「私ね、おかしくなっちゃったみたい」

「おかしくなったって、どういう……」

「千颯くんと相良さんが一緒にいるところを見るとね、嫉妬している自分がいるの。なんでだろうね?」

「嫉妬?」


 その言葉で、千颯はハッとする。


(愛未は嫉妬している。これって作戦成功なんじゃ……)


 もともと愛未を見返すために、雅に偽彼女を演じてもらった。愛未が嫉妬したということは、作戦が成功したことを意味している。


 これは喜ぶべき現象だったけど、その先のことはまったく考えていなかった。愛未を嫉妬させた後は、どうすればいいんだ?


 千颯がパニックになっていると、愛未は首筋を触りながら言葉を続けた。


「千颯くんさ、相良さんとどこまでシたの?」

「ど、どこまでって?」

「もうキスはした?」

「そんなのっ」


 するわけがない。付き合ってまだ一日しか経っていないし、そもそも雅は本当の彼女ではないんだから、キスなんてできるはずがない。


 千颯の反応から、まだ何もしていないと判断したのか、愛未はにやりと意地悪く笑った。


「じゃあさ、私とシてみる? キスも、それ以上のことも」

「何言って……」


 愛未は何を言っているんだ。こんな誘うような発言をして。

 そもそも愛未は、こんな際どいことをするタイプだっけ?


 千颯の知っている愛未は、知的で、落ち着きがあって、時々カッコいい、清楚な女の子だった。間違っても男を誘惑するタイプではない。


 まさか嫉妬の力が愛未を狂わせたとでも言うのか? 千颯は愛未のことが余計に分からなくなった。


 だけど愛未の誘いにホイホイ乗るわけにはいかない。千颯は動揺する心を隠しながら、言葉を絞り出した。


「そ、そんなこと言って、またすぐに冷めるんじゃないの?」


 千颯はうっすら感じていた。どうせまた、すぐに冷められると。


 放課後のたった数時間で冷められたのだ。愛未の誘いに乗って、キスやそれ以上のことをしたとしても、どこかで地雷を踏んで冷められるに決まっている。


 その段階まで進んでから、気持ち悪いと拒絶されたら千颯はきっと耐えられない。


 千颯の懸念していることを正直に伝えると、愛未はフフっと小さく笑った。それから千颯と距離を詰め、耳元でそっと囁いた。


「それは、千颯くんの頑張り次第なんじゃないの?」


 クラクラするような甘い香りに包まれて、頭がショートしそうになる。

 パニックになる一方で、遠回しな愛未の言葉をちゃんと理解している自分もいた。


 否定はしない。つまり、そういうことだ。


 愛未の身勝手さに気付いてからは、興奮の熱が少しずつ冷めていった。千颯は愛未の肩を掴み、突き放す。


「思わせぶりなこと言うなよ」


 その言葉だけを絞り出すと、千颯は逃げるように愛未のもとを離れた。


*・*・*


 一人路地裏に取り残された愛未は、舌打ちを打つ。


「なんでよ」


 愛未は普段周囲には見せないような冷徹な表情を浮かべていた。


 愛未の予想では、あそこで千颯がほだされて、雅とは別れると踏んでいた。

 だけど以外にも千颯は自制心を保っていて、誘いには乗って来なかった。愛未にとっては計算外だった。


「まあいいや、じっくりと壊していくから」


 口元に笑みを浮かべながら路地裏から抜け出して、千颯が去っていった方向を見つめていた。

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