幻想物語

加賀美うつせ

第1話『水槽の世界』

雨宮静雄は不幸な男だった。


貧乏神に憑かれているのではないかと思うほどに彼には運というものがなかった。


しかし、ある日を境に彼は幸福を手に入れるのだった。


仕事から帰宅途中の時、彼は自動車との交通事故にあった。


これも運の悪さが引き起こしたものだと彼は思わずにいられなかった。


あの時、自分は死ぬのだと心のどこかで諦めていた。だが、しかし重症だったが彼は奇跡的に命を繋ぎ止めることができたのだった。


不幸中の幸いというヤツであろう。


彼は心底驚いたものだ。


それから彼は数ヶ月の入院生活を経て退院し、事故の加害者から慰謝料を手に入れた。


平凡な毎日を送る彼は手に入れた巨額の用途に悩んだ。


堅実に貯金するのが一番だと思ったが、彼はふと試してみることにする。


そう運試しだ。


不幸な自分が事故から生還しているのだ。もしかするとツキが回っているのではないか、バカバカしい考えではあったが彼は宝くじを数枚ほど購入し、当選日を期待して待った。


結果から言うと『大当たり』だ。


それも一等の五億円。


彼は驚愕した。


これはいよいよ本物だと確信する。


そして、その確信は莫大な資産へと変わる。


企業への投資、株、経営、博打。なんでも彼は成功した。


いままで不幸だった分、彼は幸せになったのだ。


やがては億万長者になり、美人な嫁をもらい、その生涯を裕福に過ごしていった。


雨宮静雄という不幸な人間は世界一運が強く、幸せな人間になったのだ。


――ああ、幸せだ。


彼は幸福だった。


誰よりも。


誰よりも負けないくらいに幸せだ。


そう幸せなのだ。


オレは幸せだ。


……とても幸せだ。


……と、てもシアワセなんダ。


…………。


—————————————

——————————




ゴウン、ゴウン、と音が響いている。




ここはとある管理施設。機会が発する微細な電気たちが光源。その仄かに薄暗い施設の中央には巨大なスーパーコンピューターが設置されており、そこから数えきれないほどの配線ケーブルが伸びている。


ケーブルの先に数多くのカプセルがあった。薄緑色の液体に満たされたそれらの中には『脳』が保管されている。そして、その脳自体にもケーブルが接続されており、触手のように伸びていた。


そして、それを見守る一人の男がいる。この施設の管理者だ。


「博士、機械の調子はいかがですか?」


「ああ、正常に稼働しておるよ」


管理室に訪れて来た助手の青年に博士は言った。


彼らはモニターに映る不規則に上下する線を見ている。これは脳波の計測を行っているのだ。それぞれの脳にはナンバーがつけられており、現在も体感している感情の波などを彼らは観察している。


「しかしいつ見てもいかがわしい装置ですね」


「ああ、あまりいい光景とは言えんね。ワシも長らくここに勤めているが時々、気分が悪くなるよ」


「そうですね。私もです」


数多の脳が並んでいる光景は確かに不気味である。博士とその助手は口を開けばいつものように言っていた。


「脳死は肉体だけが生きている。だけど脳は死んでしまっているようなものだ。そんな状態が本当に生きている状態と言えるかワシにはわからん。死の定義が曖昧で判断が難しいのは昔から変わらないことだ。時代が進むごとに医療も進歩してきた。不可能なことが少ないほどにな」


博士は長く生き、医療の進化を見て来た。行き過ぎた科学の進歩は魔法とさほど変わらない。脳を本体の体から抜いても活動できる医療処置、そして人の思考や五感、捉える光景を自由に変化できる科学の技術。


その開発に至るまでの背景には戦争による捕虜実験という悪質なものも含まれるだろう。いつだって戦争は『人』という材料を得る都合がつく。医学が発展したのもそういう凄惨な歴史が背景にあるものだ。


そして、いま人は進みゆく歴史のなかで進化し過ぎた。


「人は夢を見せることさえ可能になった。科学の進歩でな。あれらの脳が見ているのは死んだ時と変わらぬ日常、はたまた幸福な生活、または奇想天外な物語。自分が死んだことに気付かず、生きていると錯覚しながら夢の世界で暮らしているのだろうな」


「そうでしょうね。死んだことに気付かない、無理もありませんよ。自分が生きている世界が彼らの『脳には』あるんですからね」


博士は助手が淹れたコーヒーのマグカップの先を装置に向けた。


「いつからだろうな。遺族の人間、権利団体、世論、それらの意見が大きく膨らみ、そして受け入れた結果がこれだ。脳死は明確な死ではない、とね。だからあんな装置が開発され世界中に認可されてしまった。愚行にもほどがあるとワシは思うよ」


「ええ、同意見です」


博士と助手は同時にコーヒーを啜った。


何かと意見が合うのがこの助手の良いところだ。博士は密かに彼のことを気に入っている。


「ところで博士。『水槽の脳』という思考実験は御存じですか?」


「ああ、大体はな」


唐突に助手が切り出した内容に博士は興味が惹かれた。モニターから眼を逸らさず博士は耳を傾ける。


「我々が体験している世界が実は水槽に浮かんでいる脳が見ているものではないかという懐疑主義的な思考実験。脳はすべての五感を司り、景色を見る。たとえ我々が本当の世界を生きていたとしても、その証拠を得ることができない。そしてその逆も然り、水槽脳が見る世界で『偽物の世界を見ている』と伝えられても信じることはできないし、証拠を得ることもできない、というヤツです」


「……だから現実と夢の違いが立証できないということだな」


得心したように博士は頷く。


「あの脳みそに繋がれた電極が夢を見せている。まさに『水槽の脳』の再現というわけだ」


「ええ、まさに。もしかするとですが私たちが見ている世界も、もしかすると『水槽の脳』によるものかもしれませんね」


「ははは、冗談はよしてくれ。あんなもの私はごめんだよ」


博士は笑った。


助手も笑った。


ああ、それにしても本当に不思議なものだ。


博士はマグカップをテーブルの上に置いて、スーパーコンピューターに備え付けられた脳やカプセル、ケーブルらを眺めた。


あの脳は人が作り出した夢を見て生きている。


本当に人間には不可能がなくなったのかもしれない。


無限の可能性が科学に秘められていると知人はよく言っていたがあながち間違いではないのかもしれないな。


そう。


不思議なのだ。


……科学の進歩、医療の進歩は不思議なものだ。


本当に。


不思議だ。


……とても、不思議なモノ、ダ……。


…………。


—————————————

——————————






ゴウン、ゴウン、と音が響いている。






【水槽の世界・完】


『次話予告・少女の視線』

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