第2話

 扉を開けた。室を出た。

家の中からは完全に晴れたように見えた。今のこの鋭さのない針がさらさら降るような雨は、人によっては雨とは呼ばれないだろう。まだ家を出て一も歩んでいない癖に傘を取りに戻るのすら面倒になってしまった私は、曲がった腰を伸ばすようにして天を見た。これを雨と判断しないことにして、鍵もせずに家を去った。こんな田舎では人とすれ違うことすら珍しい。はたまた其れが若ければ若いほど稀である。散歩に出かけるのですら勇気のいる年齢になってしまった私は、いつぶりかの外歩きでもう既に疲れているようだった。

 去年、その前の年か忘れてしまったが家から少しした所処に君臨する山へ家内と共に散歩に赴いたことがある。家内と出かけるのは大抵必要の買い物のみだったが、爺婆と呼ばれる歳になってから必須の他で外出するのは久しぶりで、今でも思い出せる記憶になっている。私はその時に出会った若い衆を思い返した。彼は私たちを見るやいなや、ずかずか近づいてきて大きな声で挨拶をしてきた。彼の話によると彼はキャンプが趣味で、いつも違う所処で其れを行っているらしかった。家内はその話をいかにも楽しそうに聞いていた。その時私は決心した。いつか家内をキャンプに連れて行ってやろう。

 私がまだ免許を持っていた頃、家内を連れて車で買い物をしていた日の帰りのことである。光線のような西日が容赦なく助手席の家内を照らす。意味もなく開けていた窓から申し訳程度にかかる風でなびく家内の髪は、私の目に美しく見えた。何気ない日々に家内が、あなたと結婚して良かったわ。と呼びかけた。こちらこそとでも返せばよかったのか、急すぎるドラマチックな台詞に迎え打つ即興性のなかった私が返事を探していると、そういう可愛らしい所処も好き。あたしより先に死んじゃいやよ。と追い打ちをかけてきた。漢の私よりも強く見える家内への好意を再確認し、私は決意した。この人が死ぬまでそばにいてやろう。

 私が現役で職をこなしていた頃、私と家内はついに結ばれた。餓鬼だった私に安心感と喜びを与えてくれた彼女は、他の誰よりも美人に見えた。そんな彼女が一生のうちで一番に綺麗だと見えたのは、結婚式である。真っ白で身を固めた私の女は神をも見惚れさせるほどの美しさだと形容できるものだった。すべての儀式を終えて2人きり、華やかな式にかつてない幸福を感じた私達はしばらく抱き合っていた。それまでの彼女との思い出が思い返され、私は無敵であったように感ぜられた。私は彼女の前で宣言した。御前を一生愛してやろう。

 そんな私は今、たった1人で山に向かっている。さっきまで降っているのかそうでないのか不明瞭であった雨は誰もが認める大晴れとなった。あの女を一生愛し、一生をあの女に捧げると決意した私には、其れがいなくなったときのことを一つも考えていなかった。私を山に向かわせるのは家内が死んだ喪失感からではない。いや、遠い所処に喪失感があって私の山へ向かう理由へと細い糸で繋がっている可能性はあるが、直接的な関係はない。理由は簡単で、人生という大きな題名に期待感が生まれなくなってしまったためである。あの時キャンプに連れて行ってやろうと決心した山につき、重い足を頑張って持ち上げて上へ上へと向かう。人気の少なすぎるほどの森で、使用感の豊富な黄土色の縄を木の隆々とした首へくくり、強く縛った。片方の輪っかを弱々しい細い首へ通し、私はついに地面を目指した。最後にキャンプくらいへは連れて行きたかった。


 

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扉を開けた。室を出た。 名戯 @YuQuI

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