扉を開けた。室を出た。

名戯

第1話

 扉を開けた。室を出た。

その日はいつもより遅くまで学校にいた。

はっきりと聞こえる己の足音からは、その人気の少なさが感ぜられた。叫んでしまいたいほどの静けさと心地よい初夏の薄暗さが、私にささやかな安心を与えてくれた。室から出る時、しっかりと鍵を閉めただろうか。先生どもはもう帰った時間であり、校舎の健康は鍵を持っていた私に任されていた。もし鍵を閉めていなかったら...。全ての責任は私に向けられてしまうだろう。そう考えると恐ろしい。まあ、その時はその時である。今の私はそんな細かいことなど考えたくもないのだ。私は今、疲れているのだ。

 かろやかに校門をこえた私は、いつもの帰り道と違う道を行った。いつもは左に曲がる所処を右に曲がってみたり、いつもは直線に行く道を無視してみたりした。世は増増暗くなる。その度気持ちが軽くなる。家から学校まではほど近く、皆電車で行くする所処を私はこの足で行っていた。家が見えるようになり、意識のしないうちに早歩きになっていた。無骨な形のアパートメントに取って付けたような鉄骨の外階段は、場違いなパステルカラーを塗られていた。タン、タンと夜に響く私の音に少々申し訳なさを感じた。薄暗く照らされたドアの前にはよくカナブンが停まっている。こんなに星は広いのによくいつもこんな地っぽけな四角に寄ってくるな、とつくづく思う。

 扉を開けた。室に入った。

玄関に入る前に、足の裏のど真ん中にいるぐちゃぐちゃになってしまったカナブンだったものを払ってやっと靴を脱いだ。小刻みに踵をすり合わせ器用に裸足になったところで、母に挨拶をする。一般にただいまの返事はおかえりが定石なのだが、そんなことより母はいつも一日の感想を聞いてくる。学校には幼馴染が在り、彼とは家族間で交流があった。今日に限って母はその日は幼馴染は元気にしてるかとか聞いてきた。私はわざと大袈裟にリュックサックを下ろし、聞こえなかった振りをした。母の諦めは早かった。実を言うとその日、幼馴染とは喧嘩をしてしまったのだ。私が彼に借りたちょいとばかしの金を、それまたちょいとばかし滞納していたがために生まれた彼の私に対する愚痴が、私を逆上させたのだ。そんな小さなことが、しまいには大きくなる。喧嘩というものは大体こうである。引き金はやあ小さいもので、その小さいものに過去の怒りが、その時分は指摘に値しなかった小さな恨みの蓄積された爆弾が、ひょこひょこついてくるのだ。

 普段面倒臭くてすることのない手洗いは、指がふやけるほど入念に洗った。其の手から汚れが無くなったのを目では確認していても、脳の片隅ではどれだけ洗っても落ちない穢れを認識していた。こんな自分を母の前に曝け出す勇気が出なくて、生気を最小限にして自分の室へ真直ぐ入った。その日はもう寝た。風呂や飯などはする気にならなかった。私から活動力を根こそぎ奪い去ったのは、帰宅してから右肩上がりで顔を出してきた罪悪感の仕業だろう。顔を出すどころか、土足で踏み込みそのまま私の名を呼んで挨拶をしてきたくらいに、罪悪感は私の中に存在感を示した。

幼馴染は今も学校の一室で野倒れていることだろう。天国へ行ったのだろうか、地獄に行ったのだろうか。ただ一つわかるのは私は間違いなく地獄へ行くことになるということだ。

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