第6話 傷の晒し方は義務教育で教わらない

敵意を向けて来る『化物』との対峙。


この異常事態に答えなんて何処にも無い。だからこそしょうはシンプルな方法で状況を打開しようとした。


逃走。真奈美まなみの手を取って即座にこの場から走り去るのを思い描いていた。


しかしひんやりした柔らかい手が、翔の手を掴みその行動を阻害する。


「今走ろうとしたでしょ?今度こそ待って。・・・いや絶対行かないで。」


真奈美の声には芯が通っていた。さっきまで狼狽えていたのが嘘の様に。彼女は既に気持ちの切り替えを終えていた。


こういった場面で自分が機能しないと、立て直せなくなるのを彼女はいくつも見て来た。


『私が崩れたら駄目。』その責任感が彼女を再起させた。


「じゃあ他に案でもあるの?」


「ある。」


真奈美は翔の手を引っ張って、化物の脇をすり抜けて保健室に駆け込んだ。


保健室には二人が通った出入口とは別の、グラウンド側に繋がる出入口があった。


翔は自ら『袋のネズミ』になる真奈美の考えが理解できなかったので、意図に気づくと体の緊張が抜けて行った。


「そうか。あそこからグラウンドに逃げるんだね。早く行こ?」


「いや、逃げない。ここに居る。」


再び翔の体に緊張が走る。


「保健室から出ないで。絶対大丈夫だから。」


真奈美は保健室の扉を開けた。翔の顔から血の気が一気に引き、体の熱がどこかに消えた。


「⁉なにを・・・!」


翔が止めようとすると、もう一度扉を閉めてその場に真奈美が崩れた。


「やっぱりそうだ。あれはもう居ない。」


翔も扉を開くと確かにあの化物は存在せず、廊下は再び静寂を取り戻していた。


消えた?逃げる足跡なんてしなかったのに。


「ここは斎藤実知佳さいとうみちかの心象世界。恐らくあの化物は斎藤実知佳のクラスメイト。彼女にはクラスメイトがああやって見えてたんだと思う。」


翔は唐突に話始はなしはじめた真奈美に耳を傾ける。


「ここがどいう場所なのか理解したって言ってたね。その話?」


真奈美が頷く。翔もその場に座り真奈美と視線を合わせる。


「そもそも斎藤実知佳ってだれ?何で雲の上に彼女・・・であってるよな?彼女の・・えっと・・・心象世界?があるの?てか心象世界って何?」


わからない情報を考察で繋ぎ質問する。一度に質問するのは翔の悪い癖だが止まらなかった。真奈美はその事を指摘せず返答を準備する。


「ここに通っていた女子生徒で、有名人でも無い普通の女の子。そんな彼女の心象世界が『どうして雲の上にあるのか』はわからない。ハレは知ってたみたいだけど、今はそれ言ってもしょうがないし。」


「心象世界は彼女が持ってる心の世界の事。つまり彼女には学校とクラスメイトがこう見えてるって事。冷静になって考えてみたら本の描写と化物の姿が同じだった。」


「本って・・図書室の滅茶苦茶な本の事か。」


「あの本に『保健室は私の唯一の癒しの場』って書いてあったから試してみたの。イチかバチかだったけどうまく行って良かったわ。」


翔は図書室の本が全く関係無い可能性も考えていたがその線は薄そうだと思った。現に化物は保健室に入って来なかった。


簡単に人を刺す狂暴性を持っている化物が、逃げる獲物を見逃す理由が無い。


本来ならドアを蹴破ってでも追いかけて来るだろう。つまり保健室に居る間二人は安全と言う事だ。


「ここを出たら斉藤実知佳にあって話をする。彼女が発端なのだから全てを知っていると思う。」


「この学校の何処かに居るの?その・・・実知佳ちゃんが。」


「正確にはわからない。居ないかもしれない。でも『もしいるなら』って仮定したら『ここに彼女は居る』って断言できる場所がある。そこに行きたい。」


真奈美の聡明さで形の無かった目的が明確になる。


「その場所って言うのは?」


「まだ言わない。」


真奈美にそう言われ翔は梯子はしごを外された気分になった。


この流れは今から協力して、目的地に行って決着をつける展開だと思ったから。


真奈美が翔の右腕に視線を移す。


「それよりまず傷!応急処置しないと。」


真奈美が立ち上がって翔の手首を掴んで、ベッドに向かって歩いて行く。


「え・・・・。いやいいよ。今更じゃない?次行こうよ。」


「その傷はほっといたら、ばい菌入って取り返しつかなくなるよ。いいから座りなさい。」


真奈美が無理矢理翔をベッドの上に座らせて、備え付けの救急箱を持って翔の目の前に座った。


「大げさだよ。別にこんな傷。」


「はいはい。いいから服脱いで。」


女の子にそう言われ翔は一瞬、頭が真っ白になる。


そういう意味じゃないのはわかってるんだけど・・・。


言われたまま無心で服を脱いで、ひんやりした柔らかい手が翔の右腕に触れる。


「平均体温低いの?」


「・・・・今は低いかも。」


「そりゃそうか。肝を冷す出来事の直後だしね。」


真奈美は血の汚れを濡れタオルで拭きとっていく。


「私の事庇ってくれてありがとね。私を守ったせいでできた傷だから処置は私がしたかった。」


「いいよ。そもそもあんな怪しい人影に近づこうって無理矢理連れてった俺が悪いよ。」


真奈美は立ち上がって目の前の蛇口を捻る。


周りに水が飛び散らない様に調整された細い水の線でタオルを洗う。


排水溝に血と水の混じった赤い液体が流れて行った。


「ねぇ。」


控えめな声量で真奈美が訪ねる。


「引島君はどうしてここに来たの?」


タオルを絞って流れる水滴がパタパタと落ちる。


「私は引島君が優秀で頼りになると思ってる。けど男子生徒に近づこうと意見した時はちょっと変だったから気になった。私の勘だけど此処に来る理由か何かが刺激されて冷静な判断ができなくなったのかなって。」


再び前に座る真奈美とは目を合わせない。逃げるようにそらした視線の先は地面で、タイルの溝の数を数えていた。


「別に話したく無かったら良いよ。治療はまだかかるから時間潰しに話したかっただけ。」


一生懸命傷を処置してくれる真奈美に翔は視線を移す。


額に汗が浮かんでいて、陽ざしを受け輝いているのが少し綺麗に見えた。


それでもやっぱり雲の上の日差しは熱くて真奈美は快く思ってないかもしれない。


『ちょっとごめん』と言って翔はカーテンを閉じた。


そんなに直ぐに変わる訳が無いのに部屋の温度が少し下がった気がした。


元の位置に翔は座った。


「俺さ、引きこもりなんだよ。一年間学校に行ってない。」


「え⁉そうなの⁉」


驚く真奈美を側に話を続ける。


「母さんはそんな俺を攻める事はしなかった。自分のペースで良いからいつか学校に行けるようになったらいいね。いつも、いつも笑顔でそう言ってくれた。」


「良い母親だね。」


ガーゼの上に消毒液を垂らしながら真奈美が答える。薄いシミがガーゼにじわじわ広がる。


「おばあちゃんもずっと俺の心配してくれてさ。気を使って『遊びにおいで』っていつも言ってくれた。でも不登校になってからこんな自分を見せたくなくて、いつも忙しいって嘘ついてた。時間なんて有り余ってるはずなのに。」


傷口にガーゼをあてて黙って真奈美は話を聞く。包帯を使う分だけ伸ばし『パチン』という断ちバサミの音が保健室に響いた。


「自分がしっかりしてあの時の不登校を笑い話にできるようになったら、さらっと会いに行こうって考えてたらおばあちゃん待ちくたびれて死んじゃった。」


「前置きが長くなったね。俺が外に出たかった理由はそれ。少しでも二人を安心させるために外に出る練習がしたかったんだ。」


翔の腕に包帯が巻かれて行く。ゆっくり、ゆっくり。締め付けない様に。


「・・・・・でもちょっとわかんなくなっちゃって。引きこもりっていう間違った生き方を一年も続けてると、自分に自信がなくなってきて生きる気力も無くなってきた。だから俺は罰を受けたかった。間違いだらけの俺を誰かに裁いて欲しかったんだ。あの化物を初見で見た時絶対にヤバいと思った。だから近づいたんだ。俺に罰を与えてくれるんじゃないかって。」


「終わったよ。」


右腕は綺麗に処置されていた。包帯もしっかり巻かれているのにキツイと感じず、何故か痛みすら無くなった気がした。


「ありがとう。あと巻き込んでごめん。」


「良いよ。結果的に先に進んだんだし。でも・・・・。」


言いかけて真奈美が立ち上がる。暗くなった翔をほぐす様に微笑んで続ける。


「もうやめてよ。貴方の母親もおばあちゃんもそんな事絶対望んでないし、私だって結構頼りにしてるからここから帰るまでは雲を払う事だけ考えてね。」


翔は少しだけ重荷が降りた気がした。真奈美の励まし方が良かったからだと思う。


酷く同情されたら少しやりづらくなってしまう。


翔も気持ちを切り替えた。


「そうだよ。図書室の本全部読んでこの世界を解明したのも、保健室が安全な場所だってわかったのも全部俺のおかげなんだから、真奈美さんも頼むよ。」


「そういう決まった反応を相手に求めるボケ好きじゃないから二度と私に言わないでね。」


「辛辣すぎだろ。そんな事言われたら二度と喋れなくなっちゃうよ。真奈美さんを笑わせようとした男子達大勢いたと思うけど、一体何人に消えない傷追わせてきたんだ?」


「私記憶力良いから全部覚えてるよ。聞きたい?」


「聞きたくないからこの話終わりで。」


真奈美がフフと笑った。


「冗談よ。私結構優しいから仲が良くない男の子には辛辣な事言わないで丁寧な対応してるわよ。」


翔は顔を緩めながらため息をついた。


女子はこういう事を呼吸するように言うから男子が勘違いするんだよ。


「そう言う事サラっというなよ。全く。」


翔は自分の事を喋るのが嫌いだった。それなのにどうして真奈美には喋る気になったのかわかった。死地で協力関係を築いているというのもあるが、単純に楽しかったのだ。

一年ぶりの他愛無い会話というものが。


「ところで真奈美さんはどうして雲の上に来たの?」


「一人暮らししたいからお金が欲しい。それだけ。」


「嘘ぉ⁉それでこんな危ない場所来てるの?両親は何て言ってるの?」


「良いって言ってくれると思う。それに答えがある問題を考えるなら、私はそこら辺の大人より役に立つと思うから大丈夫だよ。」


「事後報告かい。」


真奈美は『話変わるけどさ』と翔に問いかける。


「少し寝ても良い?三十分位。昨日あんまり眠れなくて。」


「いいよ。ここなら安全だと思うし少し休もうか。」


そう言って真奈美はベッドに倒れた。まだ翔がベットの上に座って居るにも関わらずに寝息を立て始めた。


信用されてるな。俺。それとも眼中にないのか。どっちでも良いけど。


翔は立ち上がってベットから離れた。入り口付近にあった黒い長椅子に横になって眠り始めた。


眠い訳では無かったが少しでも体力は回復しておきたかった。


眠りから覚めて時刻を確認する。六時四十五分。


外の天気模様は変わって無いので恐らくここも空と時間が歪んだ場所なのだろうと翔は思った。


いや、待て。そんな呑気なこと考えてる場合か?


翔が寝た時刻は六時だった。つまり、十五分の寝坊だった。


時間の概念が無い引きこもりが時間を守れるはずも無く、無様に寝坊した。


「やっば!」


翔は飛び起きて真奈美が寝ているベットに走る。ベット周りのカーテンを掴み勢いよく開いた。


「ごめん!寝坊し・・・」


翔は言いかけて即座にカーテンを閉めて彼女に背を向けた。


一番最初に目に入ったのはベットに投げ捨てられた長袖の黒いセーラー服、大人用の黒いブラジャー、明るい水色の毛糸のマフラー。


次に翔の視線から体を隠そうとする上裸の真奈美だった。


汗拭きシートで体を拭いている最中だったようで見事に体の全体が見えてしまった。


翔は息が止まりそうだった。胸が苦しくて、心臓が高速で動きはじめた。保健室内は静かで鼓動の音が良く聞こえた。


見てしまったから。真奈美の中学生離れした大きな胸・・・・・・・・




などでは無く、もっと衝撃的な物。


なんだよ・・・・・。あの傷・・・・・。


首元には何か棒状のもので叩かれた長い痣がついていた。腕は内出血が酷く、白くて綺麗な肌がかすむ程存在感があった。


翔はずっと疑問に思っていた。


ここは太陽が出ていて普通の夏場と変わらない暑さだった。


それなのに真奈美はずっと毛糸のマフラーに長袖のセーラー服を着ていた。


脱げない理由があったのだ。


カラカラとカーテンが開く音が聞こえる。


真奈美が何事もなかったかのように毛糸のマフラーと黒い長袖のセーラー服を着て現れた。


翔を横切り平然と扉に向かって歩く。翔は黙ったままその場に立ち尽くしていた。


「何してるの?早く行くよ。」


真奈美が扉の前で呟く。そう言われて翔も行動の方針を決めた。


「わかった。行こう。」


二人は保健室を出て二階に向かった。二人の間に会話は無く、夏のまとわりつく湿った空気が二人を取り囲み、呼吸をする度内側が濡れて行く感じがした。


『一人暮らしがしたい。』彼女が此処へ来たその理由をまっすぐ受け止められ無くなった。


二人は仲良くなりかけていた。それなのに今は初対面の時以上によそよそしい雰囲気ができあがっていた。


そうだよな。あの傷は目に見えるよりもっと深い所に刻まれていて人に気安く見せれる物じゃないんだ。


翔は考える。


隠そうとするなら俺は見ないフリをする。俺がそういう事に首を突っ込んで救う事ができるハズが無い・・・いやできなかった。


翔は階段を登る。一段、一段登っているハズなのに登っている感覚が無かった。


だから誰かにあの傷を相談するべきだと思う。それしか方法は無いと思から。


そうして自分の浅い提案に唾を吐き、自嘲する。


どうやってだよ。どうやって人に相談すんだよ。わかんねぇよ。誰か教えてくれよ。傷の晒し方を。学校に行ってたら教えてくれたのかな。・・・・そんな訳ないか。


心に負った深い傷を他者に晒すのは簡単じゃない。俺だってそうさ。

真奈美さんに話した『此処に来た理由』だって本当の事を言ってない。


階段を上がる度常に誰かに見られてる感じがした。翔はこの視線に何も感じない。


だってそうだろ。眺めてるだけで人がちゃんと見えるハズが無いんだから。


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