空へ行く船

市野花音

第1話

 背中を襲った衝撃で、の腕から香炉こうろが滑り落ちた。艶やかな木の床にぶつかった香炉は鈍い音を立ててひびが入った。

 青ざめる間もなく、侍女頭の平手打ちが飛んできた。

 「またお前かおせん!お館様の娘だからって調子に乗るな、お前はただの侍女なんだよ!」

 お船は、壁に背中を打ちつけ、頬を強く痛めた。お船の背中を押した侍女は、何食わぬ顔で嫁入り道具を持って大広間へと入っていく。

 「あら、また化け物が粗相したの」

 自室から高価な打掛を身に包んだ姉が出てきた。見掛けは美しいが、目の奥は冷やか。

 「申し訳ございません、姫様。ほら、お前もぬかずけ」

 侍女頭の手によって、お船の額は冷たい板に打ち付けられた。

 「申し訳ありません」

 「ふん、役立たずの化け物が」

 姉の手に持つ扇によって、お船の頰を再度叩かれた。

 (……痛い)

 叩かれるのは常の事。しかし二度はさすがにこたえる。

 「ああ、これから光宗みつむね様と対面するというのに、全くこの化け物は……、下がっていなさい」

 扇を閉じると姉は姫らしく静々と歩いて大広間に戻る。慌てて香炉を拾い、箱に戻す。と、侍女頭に乱暴に箱を奪われた。

 「触るんじゃない、化け物」

 (だったら、乱暴に扱わないでよ……)

 言っても聞いてもらえない。だから口には出さない。いつからだろうが、本心を口に出さなくなったのは。



 城の外で冷たい井戸水につけた手巾しゅきんで、赤く染まった頬を冷やす。気持ちは良いが、頰は痛い。

 お船は大名の娘。しかしながら、姉の侍女だった。政略結婚によって権力を保つこの世の中で、道具お船道具に使い潰されているのは、姉を父が可愛がっているのと、お船が化け物だから。

 「どうしたんだい、君?」

 間近で声がした。慌てて振り返ると、一人の青年がすぐ近くに立っていた。慌てて着物の袖で顔を隠す。

 「ああ、驚かしてしまってすまない。……手巾、落ちたよ」

 慌てて拾おうとすると、それより先に青年が手巾を拾った。

 「怪我をしたのかい?医者に見せようか?」

 手巾を差し出してきた青年が、心配そうに尋ねてくる。

 「い、いいえ!そのように手を煩わせるわけにはー」

 青年の着ている羽織には、この城の大名の家紋が記されていた。それなりの身分であることは間違いない。

 ここは戦国の世、姉がこちらの城に祝言をあげに来てからまだ三日、信頼されていないのは明らかだ。ここで粗相をすれば、お船の命の保証は無い。

 「本当にいいのかい?」

 「はい」

 「……なぜ顔を隠すんだい?」

 お船は言葉に詰る。逆光で、青年にはお船の顔がよく見えないのだろう。

 「……顔にあばたが……あるので……」

 お船は幼い頃、疱瘡ほうそうかかった。生き残った時、顔は醜くなり、肉親は冷たくなった。

 「それは、すまない……お詫びに」

 ふわり、頰を柔らかいものが撫でた。

 思わず目を瞑り身を硬くする。しばらくしたのち感触が消え、目を開けると青年の姿はなかった。

 小首をかしげるが、頬の痛みが退いていることに気がついた。青年のおかげだろうか。この城の人は、妖しげな術を使うと聞く。

 「……ありがとうございます」

 誰もいない空間に、お船は頭を下げた。



 この城の大名の長男である光宗ー姉の夫となる人が冷たく睨む。姉が光宗の後ろで不安げにしているが、口の端が楽しげに歪んでいた。

 「聞こえなかったのか?お前がやったのか、と聞いているんだ」

 「光宗様!私は見たのです、この者が、着物に墨をかけるところを!」

 お船は姉の自室に帰ってきた途端、姉の打掛を汚した罪を着せられた。あの青年がいればお船が井戸に行っていたことを証明できたかもしれないが、おそらく青年はお船の味方はできないだろう。

 (これは、駄目かもしれないな……)

 ではせめて、苦しまずにいけるように。反論はしない、本心は語らない。そうやって、お船はなんとか生きてきた。化け物の烙印を押されたあの日から。

 「私がー」

 やりました、という直前、いきなり襖が開いた。部屋の姉、光宗、侍女たちの視線がそちらに向いた。

 そこに、先程の青年が居た。先程はよく見なかったのでわからなかったが、凛とした面差しが美しかった。どことなく、光宗に似ている気がする。

 「どうした、照宗てるむね

 「兄上、この者は先ほどまで私と共におりました。それに管狐くだぎつねは、咎人をしかと見ていたようですよ」

 青年の方に、尻尾を巻く管のような細長い白い狐が現れた。姉と侍女たちは悲鳴をあげたが、お船はすっきりとしていた。先程、自分の頰を癒してくれたのはこの狐だろう。

 「ほう、誰だ?」

 「この姫が侍女頭にやらせていました」

 「そんな、言いがかりです!侍女頭が勝手にやったのです!」

 姉が声を張り上げる。侍女頭の顔が歪む。お船としては、そうだろうな、としか思いようがない。

 「そうか。たが弟の管狐は物知りで、俺は照宗を信じているんだ。ー偽りを告げるような奴を、俺は嫁にはしない。実家に戻れ」

 お船は目を見開いて驚いた。光宗は、青年ー照宗をよほど信頼しているようだったから。

 「お待ちください、光宗様!もう、同じようなことはしませ」

 「今までも罪なき侍女を叩いてきたのに?」

 照宗の冷たい声音が響く。

 「出て行け」

 光宗の指示で、周りにいたこの城の家臣たちが無理やり姉らを追い出した。姉は美しさを殴り捨て叫んでいたが、兄弟の態度は変わらなかった。部屋には三人きりになる。

 「悪かったな、疑って」

 光宗はそう言って部屋を出ていく。はて、謝られたのはいつぶりか。

 「ごめんね、すぐに助けられなくて」

 「……何故、貴方様が謝られるのですか?私を助けてくれたのは、貴方様でしょう?」

 「そうだけど、君は嫌だっただろう?」

 ああ、感情を尋ねられたのはいつぶりか。

 「嫌、というより、痛かったですね」

 「……そうか。また管狐で痛みを取って」

 「そこまでしていただかなくて結構です。ただでさえ、お手を煩わせていますので」

 お船はキッパリと断りを入れる。

 「……じゃあ、僕から一つ。君は、あの姫の妹だろう」

 「管狐、様で見たのですね」

 「その通りだよ、その上で言うね」

 何だろう。と思っているうちに、輝宗が運命の言葉を紡ぐ。


 「僕の妻として、ここで暮らさないかい?」


 蒼き空に映える白い城は今日も陽を浴び輝く。お船の門出を祝う様に。

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空へ行く船 市野花音 @yuuzirou

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