第五話 逃走

 騒ぎが静まり返ったその夜、銀司ぎんじは音を立てずにゆっくりとベッドから起き上がった。昼間にかつぎ込まれた怪我人は、銀司の対面に置かれたベッドに寝かされていた。


 銀司は怪我人を起こさぬように、微かに震える脚でそっと窓に近づいた。木製の窓の留め具を外し慎重に開けると、部屋の中へ夜の冷めた空気がスッと入ってきた。外気がいきを浴びた銀司はその寒さに身震みぶるいした。膝がガタガタと震えてきた。銀司は震える脚を手で抑えながら窓枠まどわくを跨いだ。


 銀司の心は限界に達していた。孤独から来る不安と焦り、身の危険を感じるほどの恐怖が銀司を押しつぶしていた。異世界にやってきてから、まともな精神状態でいたことはない。未知の世界をこの状態のまま受け入れられるほど、心は休まってはいなかった。

 重傷者が同じ部屋に担ぎ込まれてから、銀司はかけ布団に包まりながら、ガタガタと震えていた。この時、脱走を決意したのだ。


 部屋は建物の地面から三階ほどの高さだった。石づくりの凹凸おうとつのある外壁が、何とか足場になってくれそうだ。窓の横には、外壁に張ったツタが一本垂れ下がっていた。銀司は外壁を何とか掴もうと、上半身を伸ばし、精一杯腕を伸ばしツタを掴んだ。試しにツタをすってみると、思っていたよりも強度があった。


 銀司はツタを両手で掴み、足を壁にかけて、ツタを離さないよう注意しながら、不格好に降りた。摩擦まさつで植物がつぶれたときの特有とくゆうの匂いが手から臭ってくる。

 下をチラチラ見ながら、足を慎重に壁の突起にかけていく。しかし、地面まであと2~3メートルのところで、持っていたツタが切れてしまった。


 ドスっと鈍い音がした。銀司は着地の際に足で受け止めたが、足の裏から腰まで衝撃が響いた。高圧力の電気を膝に喰らったようだった。その場で尻もちをついて、そのまま痛みの全盛期が過ぎるのを静かに待った。


 夜の世界は恐怖を増幅ぞうふくさせる静けさだった。ひんやりとした夜風よかぜが体の表面の体温をさらう。だが、久しぶりに浴びた外の空気は、銀司にとってこのくらいが丁度良い気がした。


 銀司が降りたのは建物の裏側のようだった。周囲に人影はなく、殆ど役割を果たしていない街灯がうっすらと点滅しているだけで、遠くに見える背の高い建物から明かりがポツポツと見えるだけだ。

 右も左も分からない銀司は建物から逃げるように、まだ痛い足を引き釣りながら歩き始めた。

 

 街中を彷徨さまよっていると、ポツンと灯る松明たいまつを見つけた。近寄ってみると、入り口とみられる扉の横に小さな看板が吊るされていた。何かの店らしい。

 すると、扉の奥から人の話し声が徐々に近づいてくるのが分かった。銀司は急いで扉から離れ、物陰に隠れて様子を窺った。


 店の中から出てきたのは、二人の小太りの男だった。木製の甲冑かっちゅうに、サンタクロースの帽子のような先が垂れ下がった被り物をしていた。二人の会話はハッキリと聞こえないが、今日はいくら負けた、だとか、いくら儲けたとか、金の話をしていた。どうやら、賭けごとの店らしい。


 ギャンブル施設の周辺は、治安があまり良くないという前の世界の経験を元に、その場から立ち去った。銀司は来た道とはまた別の道を進んだ。周辺には店らしき場所がいくつかあった。銀司が元の世界でもあまり訪れないような、ドアを閉め切った閉鎖的な雰囲気の店が並んでいる。


 ふと背後に人の気配がした。銀司はビクッと反射的に振り向くと、暗がりから細身の若い男が出てきた。目が合うとその男が話しかけてきた。


 「なぁ、ちょっといいか」


 銀司は男の方を向きながらも、黙っていた。正確には、ビビッてしまい言葉が上手く出なかったのだ。


 「なぁ、金が欲しんだ。ちょっと貸してくれないか」


 その言葉に、背筋が後ろに引っ張られるような緊張感が、ゾワッと銀司の体の中を通った。


 「いや、ちょっと持っていなくて」


 「嘘はやめろ。いくらか持ってるだろ」


 「持ってませんて」


 「なんだ、一日で全額擦ったっていうのか」


 「いや別に、そうじゃないですけど」


 「じゃあ持ってるはずだ」


 声が震えているのが自分でも分かった。すると、急に後ろからガシッと腕を掴まれた。銀司は、ひぇ! と大きな声を出してしまった。

 銀司を掴んでいるのは、背が高く体格の良い若い男だった。


 「ちょっと、よしてください」


 銀司が腕を解こうとすると、銀司は更に強く羽交い絞めにされた。


 「何ですか。やめてください」


 正面から細身の男が、銀司の着ている服を探り始めた。


 「嘘つくからこういうことになるんだ」


 「やめてください。本当に持っていませんから」


 大声で叫んだ。今度はズボンの中に手を入れられた。細身の男は探っているうちに、眉をひそめ始めた。


 「なんだ……コイツ。本当に金持ってなさそうだぞ」


 「無駄だったじゃねえか。ムカつくな」


 羽交はがめされた状態から、投げ捨てられた銀司は、正面から地面に倒れ込んだ。


 「クソ、せっかく時間かけて挟み撃ちしたのによ」


 「おい、金なしクソ野郎。悪く思うなよ。金が出せなかったお前が悪いんだからな」


 と言いながら体格の良い男は銀司の腹を蹴った。


 ぐはっ!


 痛みに増して強い衝撃が腹に伝わり、一瞬で気分が悪くなった。そして、何回か同じところに蹴りを入れられた。

 道端で喧嘩に遭うのは生まれて初めてだった。腹を蹴られるのは、思った以上に痛く苦しかった。

 銀司は腹を抱えながら何とか立ち上がり、体格の良い男に掴みかかった。


 「おい、何だ!やるのかお前」


 再び男に掴まれそうになったが、銀司は掴まれる前に男の肛門を思い切り蹴り上げた。


 うっっ


 男は股間を抑えながらもだえ始めた。これは真芯に当たったに違いない。

 しかし、すぐに一人の細身の男が近づいてきて銀司の顔面を殴った。銀司はふらつきながら手で顔を抑えた。顔の半分が燃えるように熱い。


 銀司は反撃するために、細身の男へ向かってゆく。しかし、細身の男に手が届く前に、股間に蹴りを入れたハズの小太りの男が前に割り込んできたと思えば、銀司の顔の真ん中をめがけて拳が伸びてきた———。




   —————————————————————————————————




 荒い目の布が肌に触れた。銀司はゆっくりと目を開けた。体を動かすと、ゴワゴワと音がする。手を動かすと、布のざらざらとした感触が全身に伝わってきた。銀司が横を向くと、ベージュ色の大きな物体がすぐ視界に入った。


 銀司は麻袋あさぶくろの山積みに捨てられたのだった。起き上がろうとすると、強い痛みが腹部に走った。頭も痛い。顔は今にも爆発しそうなほど熱かった。


 路上でからまれたんだっけ……


 銀司はただ、ぼーっと空を見つめる。過剰かと思えるほど月がはっきりと輝いていた。着ていた服はビリビリに破かれ、肛門を隠すためだけの布になり果てていた。


 おれが一体何をしたっていうんだよ……


 足元で小さな何かが動いた。体がにぶっている銀司は驚く余裕すらなく、ただそれを見ていた。銀司が足を少し動かすと、その小さな何かは走って行ってしまった。

 ちょうど街灯が当たる場所でそいつは止まった。正体は灰色のネズミだった。薄い毛の細い体に大きな耳がピンと立っている。ミミズのような尻尾を引きずって、くりっとした目で銀司を見ていた。


 「お前は異世界こっちにもいるんだな。しぶといやつだ」


 そう銀司が呟くと、ネズミは暗闇に消えて行ってしまった。

 銀司は麻袋に埋もれたまま動く気がしなかった。もうすでに気力は底をつき、自分の身の危険すらも曖昧に感じる。この世界に来てから災難なことばかりだ。夜空に光る月を見つめて銀司は頭を使うことを辞めた。


「よう。また死にかけてんのか」


 それから少し経って、どこからとなく声が聞こえた。銀司はハッとして、周りを見渡したが誰もいない。

 すると、目線の先にある建物の屋上に、月と被って人影が見えた。そして、その影は銀司の足元に向かって飛び降りてきた。


 「探したぞ。大丈夫か」


 力強さがまさった若くして覇気のある声。現れたのは金髪の青年、バレットだった。


 「……見つかっちまったか」


 「見つけないと、俺が若に殺されるからな」


 バレットは笑いながらそう言って近づいてきた。

 銀司の眼には自然と涙があふれた。不思議とこの青年の登場で、緊張の糸がほぐれたのだ。


 何度死ぬと思ったことか。危機を脱した安心感と、何もできない不甲斐ふがいなさ、そして、抗うことの出来ない運命に、色々な感情が交差するが、ただ、この瞬間は、助かった安心感だけが涙として溢れ出した。


 「また助けられちまった……」


 今度は笑えてきた。


 「こりゃ派手にやられたな」


 バレットは銀司の有様ありさまを見て言った。


 「夜にこの街を歩くのは危ないぞ」


 「……ごめん」


 「ほら、向こう」


 バレットはさっきネズミが逃げて行った暗がりを指さした。銀司は涙を拭きとって、目を凝らしてみると、そこにはうっすら複数の人影を確認することができた。


 「お前をやった奴ら。シメといたぞ」


 それは、銀司を襲ってきたあの二人だった。口から泡を吹き、気を失った状態で二人とも座らされていた。銀司に見せた高圧的な態度は、見る影もなくなっていた。体がダランと伸びて、銀司よりも酷くやられていた。銀司はこの時、ハッとした。


 「まさか、見ていたのか」


 バレットが二人をシメということは、銀司が襲われた一部始終を知っているということだ。


 「まあ、途中からな」


 何故、止めに入ってきてくれなかったのか、一瞬、この男に対して憎しみが湧いたが、あそこで気を失って倒れている姿を見ると、すぐにどうでもよくなった。


 「立てるか?」


 バレットが出した手につかまって、痛みを堪えながら立ち上がった。


 「一体何者なんだ。アンタたちは」


 銀司の疑問にバレットは少々驚いた様子だった。


 「なんだ。聞いてないのか。アリーナから言われてんのかと思ってたぜ」


 バレットはさらに、こう言った。


 「なに、だよ」

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