美桜と将来の夢(その3) 2017/6/16(Fri)
僕が奏先生と出会ってはや数か月。
研究所に毎週金曜日に通ってレッスンを受ける日々が続いている。
今のところ、休日にはレッスンを入れていない。読モの仕事が入ることも多いので、基本的に週一以外は自主練という形だ。
家ではあまり大きな声を出せないけれど、一軒家なのである程度までなら大丈夫。
ピアノの練習はキーボードにヘッドホンを挿せば問題ない。
水泳をやるようになって体力もついてきた気がする。
声優にも体力は必要ということで、毎日少し早起きしてランニングを始めた。
朝走るのは気持ちがいい。ウェア姿を街の人に見られるものの、どうせほとんど女性だ。あまり気にしても仕方ない。
『むう。美桜がそんなに頑張ってるのを見ると私ももうちょっと、って気になるかも』
と、密かに体重を気にしているらしいお姉ちゃんも参戦。
起きられたり起きられなかったりで時々だけれど一緒に走ってくれている。
一葉こと少年俳優・花菱葉と知り合ったことでいろいろ情報交換もできるようになった。
これはかなり順調なのではないかと思い始めた頃、
「美桜ちゃんは夏休みの予定、決まっているの?」
レッスンを少し早めに切り上げた奏先生が僕にそう尋ねてきた。
僕は頭の中に予定表を浮かべながら「まだです」と答える。
「友達と旅行に行くのと、読モの仕事がいくつか入るのと……あとは水泳とピアノのレッスンくらいです」
「けっこう忙しい気がするけど……そう。それじゃあ、まだ余裕はある?」
「はい」
頷いた僕は先生の意図を察した。
「もしかして、夏休みだけレッスンを増やしてもらえるんですか?」
「美桜ちゃんさえ良ければ、私ももう少し時間を割けるわ」
「ぜひお願いします」
お母さんにも確認と相談はするものの、金曜日の定期レッスンを夏休み中は放課後→日中にして時間を延長、さらに火曜日の日中にもレッスンを追加する方向で進めることに。
あれ、始まったと思った話がもう終わってしまった。
と思ったら、ついでとばかりにさらに話が始まる。
「美桜ちゃんはどのくらい時間をかけてデビューを目指すつもり?」
それはオーディションの結果等々次第だからなんとも言えない……って、そういう当たり前の返答を期待されてるわけじゃないか。
僕は少し考えてから強気に答えることにした。
「早い方がいいです。できるなら今すぐでも」
「野心家ね」
ふっと笑う先生。
「やっぱり、ちゃんと計画を立てるべきですか?」
「立てるに越したことはないけど、計画に縛られる必要はないわ。……私と違って、夢を叶える道が一つというわけではないのだから」
あの音楽学校は多くの女の子たちの夢であり、それだけ難関だ。
調べたら今でも軽く倍率三十倍を超えていた。
ちょっと気の遠くなる数字である。
いくつもの習い事やレッスンを重ねて受験準備をしたうえで運も絡んでくる。しかも何度も挑戦できるものじゃない。
「意中の役のオーディションに受かるには倍率三十倍じゃ利かないわよ?」
「確かにそうですね」
こっちは失敗しても別の作品のオーディションを受けられるから単純に数字では比べられないけど。
「あなたに必要なのは計画自体ではなく計画性かしら」
「できることは今からでも全部やれ、ってことですか?」
「そう。例えばオーディションに応募するとかね」
一般公募のオーディションの中には年齢制限がないものもある。
そういうのなら誰でも応募できるわけで、極論、レッスンを始めて数か月の小学生が合格する可能性だってゼロじゃない。
「わたし、もっと上手くなってからって思ってました」
「オーディションは学校の入試と違って定期開催されるものじゃない。今やっているオーディションは普通、二度と開かれないのだから挑戦しても損はないんじゃない?」
とてもためになるアドバイスだ。
「もちろん、審査内容によっては準備も必要だけど、それ自体が練習になるし経験にもなる。サポートは私でもしてあげられる」
「そこまでしてもらっちゃっていいんでしょうか」
「それが私の仕事であり、やりたいことよ。あなたのお母さんからも十分なお金はもらっているしね」
そう。この研究所に通うのも決してタダじゃない。
一般的な習い事と比べて高いものではないと聞いているけれど、本当のところはわからない。
自分で稼いだお金を充てる、と主張するには僕はまだ幼すぎる。
「早く夢を叶えるのも恩返しになるんですね」
「そうね。私としては『卒業』されると収入が減るわけだけど」
少し冗談めかして言った奏先生はついでとばかりに僕にオーディションについて教えてくれた。
声優のオーディションも最初は書類審査などでふるいにかけることが多いらしい。そこにボイスサンプルを追加で要求されたりする。
サンプルは内容自由だったり先方からのお題があったり。
場合によっては複数回書類やサンプルによる審査が行われたうえで実技審査や面接がある。
「まずは最初の関門を通過しないとなんですね」
「そう。でないと日本中にいるライバルと顔を合わせることすらできない」
応募しては結果を待って「駄目だったかあ……」を繰り返すことになる。
これは早めに慣れておかないと精神的にきつい。
「サンプルの収録ならここを使えばいいわ。本格的なレコーディング設備はないけど、一般家庭よりはずっとマシでしょう?」
「そっか。防音室があれば綺麗な音を収録できますね」
「使えるものは使っていきましょう」
上達に合わせてサンプルの更新も必要だけど、ある程度は使い回しもきく。
夏休みで自由時間が増えるのはこうした準備にもうってつけなのでレッスンと並行して進めていくことになった。
最初は「六月にもう夏休みの話?」と思ったけれど、これは確かに早い方がいい。
「ありがとうございます、奏先生。何から何まで」
「いいえ。私こそ、あなたを急かしすぎているのかも。あなたの夢は高校生や大学生で叶えても決して遅くはないもの」
「でも、思い立ったが吉日だと思います」
善は急げでこれまでもやってきた。
先生は「そうね」と笑って、
「ここは才能とやる気のある子を育てるための施設だもの。あなたが意欲を持ち続ける限りはサポートするわ」
「よろしくお願いしますっ」
夢を叶えるなら早いほうがいい。
僕はいつまで香坂美桜でいられるかはわからないのだから。
◇ ◇ ◇
僕はそれから、他になにか自分にできることはないか考えた。
自主トレは思いつき次第取り入れている。
レッスンは先生にお願いしないと自分だけじゃできないし、暇を見つけていろんな作品を鑑賞して引き出しを作る努力もしている。
となると後は、
「……実績作り?」
お姉ちゃんのつぶやいたーやリンスタを見ていると自撮りの画像なんかが多い。
聞いてみたところ、これはファンを喜ばせるためだけじゃなくて、企業等の目に留まる可能性も考えてのことらしい。
「モデルは可愛いで売ってるわけだからね。可愛いを見せて新しい仕事も呼び込んでいかないと」
「じゃあ、声優だったら声をアップすればいいのかな?」
「いいんじゃない? あんただったら動画でもいいし」
自分のアカウント上で声優志望を公言して短い音声や動画をアップする。
アニメの曲で「歌ってみた」や「踊ってみた」をしてもいいし、あるいは台詞一つ分とかの短いのを定期投稿するのでもいい。
お兄さんに「投稿サイトからデビューする方法がある」と言ったのを思い出した僕は、自分でもその意見を取り入れてみることにした。
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