美桜と将来の夢(その2) 2017/2/6(Mon)
明けた月曜日、僕は学校を休んで妹の『塾』に行くことにした。
連絡はもう入れてある。
小学校のほうはわりと融通がきく。そうじゃないと美空も「イベントごとやテストの時だけ登校する」なんてできていない。
クラスメートに連絡を入れたところいくつも悲鳴が上がったものの「放課後の水泳にはちゃんと参加する」と聞いた恋、それからたまに家の用事で欠席する玲奈が味方してくれたのでなんとかなった。
むしろ二人から「後で詳しい話を聞かせて」と言われたことのほうが大変かもしれない。
「えへへ、お姉ちゃんと一緒なんて初めて」
お母さんの運転する車の後部座席で美空は上機嫌である。
登校するつもりがないので僕も妹も私服だ。なんとなく悪いことをしている気分。とはいえ、実際のところは別に遊びに行くわけでもない。
美空がのほほん、としているところから見て怖いところではないはずだけど……。
お姉ちゃんが若干トラウマになっていたのは少し引っかかる。僕は美空と他愛ない会話を交わしながら窓の外の景色を漠然と眺めて、
「そろそろだよ、お姉ちゃん」
美空が言ったのは閑静な住宅街の一角だった。
外からでは研究所的な建物にはまったく見えない。駐車場は複数あるし敷地も広いけれど、外観は「ごく普通の豪邸」っていう感じだ。
ここで言うごく普通は大物芸能人が建てる家くらいのイメージ。普通じゃない豪邸の一例は(僕はまだ行ったことないけど)西園寺家のお屋敷だ。
お母さんは僕たちを預けたらすぐに仕事へ行く、ということで駐車場に一時的に停めさせてもらい、家、もとい研究所の前へ。
『神崎』
表札に書かれているのは普通の苗字だ。
お母さんは慣れた様子でチャイムを押して「香坂です」と名乗る。すると門が開いて敷地内へと通された。
「おはようございます、香坂さん。……そちらが美空さんのお姉さんですか?」
建物の中も普通の家とそう変わりはなかった。
玄関や廊下が広めに作られている程度。後はあまり生活感がなくてお洒落というか無機質というか、そんな印象がある。
僕たちを出迎えてくれたのは白衣を纏ったロングヘアの女性だ。丸形の眼鏡をかけていて、白衣の下にはニットとジーンズ。
なるほどこれはいかにも、
「いかにも研究者っぽい、って思ったでしょう?」
「!?」
思っていることを言い当てられた僕は思わず目を丸くした。
彼女はくすりと笑うと「よく言われるんです」と種明かしをしてくれる。
いかにもな研究者スタイルではあるけれど、理系の冷たさはあまり感じられない。その表情はどちらかというと眠そうで、長毛種の猫みたいなイメージだ。
「初めまして、美桜さん。私が神崎です。この研究所の所長をしています」
「初めまして、香坂美桜です。今日はよろしくお願いします」
深く頭を下げると、神崎さんは「しっかりしたお子さんですね」と目を細めた。
「では、お二人をお預かりします。お帰りはいつも通りの時間でよろしいですか?」
「はい。仕事の都合で多少前後するかもしれませんが……」
「お母さんが遅くなったらお姉ちゃんと帰ります」
「わかりました。それではまた、後ほど」
お母さんは美空の頭を撫でて「またね」と微笑むと、僕にも「頑張りなさいね」と言ってくれた。
玄関で靴を脱ぎ、端に揃えて置く。
既に他にも来客があったようでいくつかの靴が置かれている。スリッパに履き替えた僕たち(美空は自分用のねこさんスリッパだった)を神崎さんが案内してくれる。
「施設内にはいろいろな部屋を用意しています」
広い建物内に多くの部屋があって、それぞれで用途が異なっている。
数々のボードゲーム、テーブルゲームが置かれたプレイルーム。本で埋め尽くされた図書室。かなり本格的な厨房。被服や工作などに使える作業室。裏庭には遊具や運動器具なども置かれている。これらの部屋を利用して子供たちの能力開発を行っているらしい。
各部屋にはだいたい一人ずつ担当者がついていて、他に子供が遊んでいるというか勉強しているというか、なところもあった。
子供たちは僕を物珍しげに見てきたり怪訝そうにしたりするものの、目が合うと「こんにちは」と挨拶してくれる。ここにいる以上は何かしらの才能がある子なんだろうけど、だからと言って能力一辺倒じゃなくて礼儀作法はしっかり教えられているようだ。
美空が言っていた通り高学年や中学生くらいの子もいる。
「それから、こちらが防音室です」
他よりも厚くしっかりとしたドアの部屋。
中に入るとそこはまるで別世界だった。中は広く、壁の一面が鏡張りになっている。部屋の隅のほうには大きなピアノが置かれ、他にもバイオリンやギターなどいくつもの楽器が棚に並べられている。音響機器も一通り揃っているようだ。
お姉ちゃんはここを見てミラールームに憧れたのかもしれない、と思う。
「美桜さんにはここで見学、というか体験をしていただこうと思います」
部屋の中には一人、四十代後半くらいの女性がいた。
女性にしては背が高い。髪は肩にかかるくらい。きりっとした感じと女性の柔らかさが同居した雰囲気。彼女は僕に気づくと「こんにちは」と微笑んでくれる。
頭を下げて名乗り、「初めまして」と挨拶。
「香坂美桜です。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
「初めまして。私は音楽担当の
「頑張ってね、お姉ちゃんっ」
「ありがとう。美空はプレイルームでチェスをするの」
「うん、そうだよ。あ、時間があったら一局指そうね?」
「美空さん、美桜さんをいじめすぎて『もうやりたくない』って言われないように。それから、適度に休憩を入れてもいいですよ。お姉さんの練習ぶりを見学してください」
「ありがとうございます、先生!」
神崎さんは思ったよりも放任主義というか優しい人らしい。
美空と一緒に部屋を出ていく姿を見ても特に警戒心は湧かなかった。まあ、お母さんが信頼してる人だし、お姉ちゃんも「人」への不満は言っていなかったんだから当たり前といえば当たり前か。
ドアが閉じると本当に世界が切り離されたみたいに感じる。
外の音が遮られているからだ。他のことには煩わされることのない空間。
「あの、目代先生ってお呼びすればいいですか?」
「あまり畏まらなくても大丈夫。あと、できれば目代じゃなくて奏って呼んでくれる?」
「わかりました、奏先生」
奏先生はにっこり笑って「まずは少しお話しましょうか」と言った。
「美桜ちゃんは声楽に興味があるの?」
「はい。わたし、声優になりたいんです。だから、歌い方や声の出し方を本格的に学びたくて」
「なるほどね。でも、どうして声優に?」
「声優にはわたしの好きなことが全部詰まっているからです」
マンガやラノベの楽しさ。声を出すこと。ダンスをする機会だってあるかもしれない。みんなから注目されて憧れられる職業でもある。
「歌やダンスもやりたいのね?」
「そうですね。事務所の方針とかもあると思いますし、できるかどうかはわかりませんけど、できれば」
「そう」
深く頷く奏先生。
「そう言うことなら私が教えてあげられることも多いと思う」
「本当ですか?」
「私もそれなりに色んな経験をしてきたからね」
彼女はあの有名な音楽学校の出身者らしい。
ミュージカルのイメージが強いけど、学校では日舞やダンス、バレエなどなど幅広い教育が施されるそうで、つまり、そこの卒業生ともなれば音楽や演劇関係はかなり幅広く経験があると思っていい。
歌劇団を卒業後も舞台演劇をやったりテレビに出たり。
「有名な方なんですね。すみません、わたし、知らなくて……」
「気にしないで。もちろん、知っているに越したことはないけれど、それはただ知識を得るためじゃなくて、色んなものを見て芸の肥やしにするためにね」
「はいっ」
確かにその通りだ。記憶喪失、というか入れ替わりのせいでこっちの事情に疎い僕はこれからそういうところも頑張らないといけない。
「残念ながら声優は専門外だけど、教えられることは多いと思う。どう? 時間いっぱい、私のレッスンを受けてみる?」
「はい。よろしくお願いします」
「よし。それじゃあ、始めましょうか」
こうして、奏先生による体験レッスンが始まった。
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