第23話
「あの、今日の閉店後ってお時間ありますでしょうか……」
「え……? どうしたのうなぎちゃん……?」
「ちょっとだけ、ええっと、その……お話が……」
「…………」
この時点で、多分凛夏さんは察知したのだと思う。途端に表情が暗くなり、無言で頷くだけだったから。
店に入って丸二か月が経過。いよいよ、僕の心は断末魔の叫びを上げた。
限界が近いかもと思い始めたものの、まだもうしばらくは大丈夫だと思っていた。
しかし、僕の心はそこまで強く作られていなかったらしく、辞めるかどうか悩み始めてから、わずか一週間程度で限界を迎えてしまった。
僕は入店して以来、一切酒を飲んでいない。
なのにここ一週間、仕事が終わって家に帰ると、必ず吐いてしまうのだ。
最初は疲労が溜まっているだけだと思って、二日間休みをもらってずっと寝ていたのだけれど、吐き気は治らなかった。
熱もないし、喉も痛くないし、咳も出ていないから風邪ではないと思う。
というか、自分の中ではもうなんとなく答えは出ていた。
風邪でもないしその他の病気でもない。
これは、過度のストレスからくる症状だろう。
ストレスの原因はもちろん、店での接客。
身も心も男の僕が、身も心も男のお客さんを、女性として接客する。
屈辱であり、不快であり、情けなく、悔しい。
もう、凛夏さんへの想いやキャストさんたちの支えだけでは、耐えることができなくなってしまっていた。
凛夏さんには本当に申し訳ないのだけれど、僕は今日、店を辞めさせてもらうことにした。
本当の理由を言うことはできないから、接客が向いてなかったとか、そういった理由で辞めさせてもらうつもりだ。
その後凛夏さんとの関係が薄くなってしまうだとか、店の経営のこととか、今はそんなことまで頭が回る状態じゃない。
一刻も早く今の状況から抜け出さないと、もうまともな精神を持った人間ではいられなくなる、そんな感覚だった。
実は、二日間の休みが明けて復帰した日の仕事終わり、依然症状が改善していなかったことにどうしても耐えられず、仕事が終わってからまだ衣装のまま外で一人タバコを吸っていた触尻エリナさんに、すべてを打ち明けてしまった。
エリナさんには特にお世話になっていたし、信頼もしていたので、誰にも言わないで欲しいという条件付きで、僕が普通の男であることや、凛夏さんを好きなこと、そして凛夏さんのためにニューハーフとして振る舞い店で働いていることなどをすべて話した。
するとエリナさんは、吸っていたタバコを深く吸い込んでから、ため息とも決意表明とも取れるような長い息を吐いた後、通り一遍の言葉ではなく、今まで読んできたどんな歴史上の軍師よりも響く言葉で長尺の語りをしてくれた。
「……あのね、うなぎちゃん。嘘も方便、っていうことわざ、あるじゃない? 嘘は悪いことだけど、嘘をつくことで物事が良い方向にいくこともあるから時には必要なんだ、ってね。うなぎちゃんは、まさにそう考えて行動してるわけだよね。話を聞く限り、凛夏と付き合いたいからっていうのもあるんだろうけど、それ以上に凛夏の苦境を救ってあげたいから、嘘までついて無理して女のフリをしてる。その行為自体はすごく美しいと思う。でもね、私、思うの。誰かの為につく嘘っていうのは、自分への
全神経を集中させて話を聞きたかったのに、エリナさんの言葉一つ一つが刺さりすぎて、語りの後半は涙を堪える作業に半分くらい意識を持っていかれる羽目になった。
泣いている姿なんて見せたくなかったから必死で耐えていたのだけれど、結局は眼球の表面張力が限界を迎え、最後は諦めて、ただただ滝のように涙を流した。
下を向いたり目の下を掻くフリをしたりして懸命に誤魔化そうとしている僕を意に介さず、エリナさんはただただタバコを吸っていた。
最後の一吸いを終え、携帯灰皿でタバコの火を消した後、泣いている僕の肩を軽くたたき、
「ま、無理なくいこうよ」
それまでの饒舌さとは打って変わって、その一言だけを残して店の中に戻っていった。
まだ衣装のままだったから、着替えにいったのだろう。
僕はその場でしばらく泣き続けた。
この時のエリナさんの言葉が、今回の決断に大きく寄与していることは言うまでもない。
これが、昨日のことだった。
「済みません、お仕事終わりで疲れているところに」
他のキャストが全員帰宅し、控え室には僕と凛夏さんしかいなかった。
「ううん、全然平気。うなぎちゃんこそ疲れているのに……」
「…………」
「話……っていうのは……?」
「あの、ご、ごめんなさいっ! いきなりで本当に勝手だと思うんですけど、今日でお店を辞めさせていただきたいんです」
「うなぎちゃん……」
「あの、理由は、その……。やっぱり自分は接客業に向いてないと言いますか……辛いと言いますか、その……」
「……」
「あ、あの、こんな勝手な僕をもう見たくないと思いますので、サークルの合同練習にはもう行きません。大学でも、凛夏さんを見かけたら隠れます。だから……だから、その……許してください!」
凛夏さんが小刻みに震えている。
怒りだろうか? 悲しみだろうか? 店の売り上げが下がる恐怖だろうか?
しばらく沈黙が続いた後、凛夏さんが絞り出すように話し出した。
「せ……接客に向いてないって思いながら……こ……ここまで頑張ってくれて……ほん……本当に…………あり…………ありが…………」
そこまで言ったところで、凛夏さんは自分の膝の上に突っ伏して大声で泣き出してしまった。
複雑なんだと思う。
店の経営の事を考えると本当は引き留めたいけど、凛夏さんは優しいから、接客が辛いと言っている僕を引き留めることができない。
色々な気持ちがせめぎ合って、涙が溢れだしたんだと思う。
そんな凛夏さんの優しさが心に突き刺さり、気付けば、僕もその場でボロボロと涙を流していた。
「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……」
凛夏さんは、僕の手を取って号泣し続けた。
僕も凛夏さんの手を握り返しながら、引けを取らないくらい号泣した。
あの凛夏さんに手を握られているのに、陶酔感や幸福感など全くなく、ただただ、今まで味わったことのないような空虚な感覚に支配されていた。
これですべてが終わってしまったのだという自覚から、神経がまともに機能しなくなっているのだと思う。
結局、最後まで、凛夏さんが僕を引き留めることはなかった。
こうして僕は店を辞め、しばらくの間家に引き籠ることになった。
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