第20話

「あ、そういえば、働いてもらうにあたって源氏名を決めたいんだけど、何がいい?」


「え……? 源氏名……ですか?」


「そう、お店で呼ばれる名前。何がいい? なんでもいいんだよ」


 もっと早く言って欲しかった。もうそろそろ開店じゃないか。


 何でもいいとはいえ、実際に店で呼ばれる名前なのだからしっかり考えたかったけど、時間もなさそうだし、とりあえず頭に浮かんだ言葉を言ってみることにした。


「うなぎ……とかですかね?」


「うなぎ……? ……うん、インパクトがあっていいと思う! じゃあ『うなぎちゃん』でいこうよ! ね? いいでしょ?」


「あ……はい、俺は……なんでも……」


「大丈夫。ここでは無理しなくていいから。俺なんて言わなくていいんだよ。『わたし』とかで大丈夫だから。素の自分でいて」


 俺っていうのもちょっと無理してるけど、わたしっていうのはさらに無理することになる……。


 でも、それを凛夏さんに気付かれたらおしまいだ。よし、今日からこの店での僕は『うなぎちゃん』だ。


 咄嗟に高校までの渾名を出してしまったけど、まあいい。その方が馴染みもあるし。

 何しろ、十年以上呼ばれてきた名前だ。


「あ、そういえばまだ話してなかったけど……。うなぎちゃん、週に何回くらい出勤できる? 無茶言って申し訳ないんだけど、可能なら週三以上で出勤してもらえたら凄くありがたくて……」


 凛夏さんが本当に申し訳なさそうにしている。それならば、予想の上をいかなければ。


「週六でいけます!」


 またもや勢いで言ってしまったが、別に悔いはない。

 予想の遥か上をいく軍略でなければ、大勝利など収められないのだ。


 諸葛亮だって、季節による風向きの変化まできっちり読み切るという皆の予想の上をいく離れ業をやったからこそ、かの有名な赤壁せきへきの戦いにて下馬評を覆す大勝利を手にした。


 僕も、凛夏さんからの好感度を勝ち取るという大勝利を手にするためには、中途半端なことはできない。


「週六……? だ、大丈夫……? 大学とかサークルとか……」


「平気です。なんとかします。それより何より、ここで働くと決めたからには、それを最優先にすべきだと思ってるんで」


 もちろんこれは本音だ。


 凛夏さんのためにこの店に身を捧げる。

 そう決めたのだから、必ずやり通してみせる。


「本当にありがとうっ……。何から何まで甘えちゃって……。でも、大学の授業に出れなくなるような無茶はやめてね。留年とかしちゃ駄目だよ」


「問題ないです。俺……じゃなくてわたし、あんまり寝なくても平気な方なんで。仕事終わってから一限目に出るのも余裕です」


 これは完全な嘘。


 七時間以上寝ないと頭がボーっとしてしまうタイプなのだけれど、それを言うと気にしてしまうだろう。


 凛夏さんに嘘をつくのは心苦しいけど、この場合は仕方がない。


「じゃあ……お願いしちゃうね。でも、きつくなったらすぐに言ってね。無理のないペースでいいんだからね」


「はい、ありがとうございます。それではうなぎちゃん、行って参りますっ!」


「あはははっ! よろしくお願いします!」


 いつもの愛くるしい笑顔を見せながら、ペコリと頭を下げてくれた。


 不安渦巻く初出勤を前にして、正直吐き気すらしていたけど、強力のカンフル剤を打ってもらえたことで一気にやる気が出てきた。

 よし、全力でうなぎちゃんを全うしてやる。




 早朝五時、やっと『うなぎちゃん』として出勤した初日が終わった。


 凛夏さんのためなら屁でもない、なんて思っていたけれど、初日にして絶望的に辞めたくなった。


 とにかく、下ネタが凄い。

 別に下ネタが嫌いなわけじゃないけど、会話の九割以上がそれとなると、さすがに辟易へきえきしてくる。


 ニューハーフ用語なのかこの店独特の用語なのかわからないけど、聞いたことのない言葉も頻出するし。


 あまりの別世界ぶりに、一瞬世界線が歪んだのかと思った。


 警戒していたお触りこそほとんどなかったけれど、言葉のお触りが激しくて、これならいっそ太ももくらいなら触ってくれと思ってしまった。それで黙ってくれるなら、って。


 やっと終わった、という安堵感に包まれながら控え室で休んでいると、凛夏さんから耳を疑うような一言を頂戴した。


「今日は本当にお疲れ様。ありがとうね! それにしても、今日のお客さんはソフトな人ばっかりで良かった」


 一瞬クラっときた。

 あれでソフトなのか。あの異次元な下ネタトークが。


 でも、まだ初日だ。こんなところでめげるわけにはいかない。


「で、ですよねぇ。今日はソフトな方なのかなって、わたしも思ってました」


「そう、よかった! それにしても、やっぱり私が睨んだ通り、うなぎちゃんはこの仕事に向いてると思う」


「え?」


「初めてとは思えないくらい、仕草とか立ち居振る舞いが色っぽかったもん。あんなの見せられたら、お客さんはすぐ参っちゃうよ」


「そ、そう言ってもらえて嬉しいです! わたしも、こういう場所にすごく興味があったので」


 僕が普通の男だとバレるわけにはいかない。

 凛夏さんは、僕が女性の心を持っていると思っているんだ。


「それでは、また明日!」


 そばに置いておいた自分のリュックを手に取り、軽く会釈をした後、元気よく店を出た。




 帰り際、ふとこんなことを考えた。


「これって、よく考えたら高校の時と同じようなことを繰り返してるだけなのかな……?」


 女の心を持っているかもしれないということにして仲良くなってから、普通の男に戻ったことにして告白。そんな作戦を実行し、ものの見事に失敗した高一の夏。


 やっていることだけ見たら、あの時とそっくりだ。


 ……いや、でも、本質的な部分ではあの時とは違う。


 今はただ、凛夏さんの傍に居られるだけで、凛夏さんの役に立てるだけで嬉しいのだ。


 その後のことは今は考えなくていい。

 実は普通に男の心を持ってますなんて言えなくてもいい。


 店の経営が苦しいみたいだし、とにかく今は頑張るだけだ。

 あの人が苦しんでいる姿は見たくない。

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