第19話

 翌日。


 大学の授業を終えて帰宅し、部屋着に着替えてからベッドの上に身を投げ、ゴロリと仰向けになって天井を見つめる。

 今日から僕は、ニューハーフのフリをしなければならない時間ができる。


 凛夏さんからのとんでもない依頼に対し、その場の勢いで今日から出勤すると言ってしまった。

 とんでもないスピードで対応してこそ、より感激してもらえると思ったから。


 でも今は、少しだけ後悔している。

 もう少し覚悟を決める時間が欲しかった、と。


 男の自分が、ニューハーフを演じて男性客をもてなす……そんなことができるのだろうか。


 不安と闘っているうちに、気付けば午後七時前になっていた。


 店は午後九時から。

 初出勤だし、化粧などの時間もあるからそろそろ家を出ないといけない。


 重い腰を上げ、身支度を整えた後、玄関に向かう。


 外へ出ると、今日も例の大型犬のものと思われるフンと遭遇した。


 午前九時前後と午後七時前後はヤツとの遭遇率が高い。


 それにしてもこの飼い主は、我が家の前を何だと心得ているのか。




 家から一時間ほどかけて、新宿にあるニューハーフスナック『輝』に到着した。この一字で『かがやき』と読む。十人のキャストを要する、この業界では中堅クラスの規模の店らしい。


 凛夏さん曰く、「性に彷徨う人間が放つ輝きで、お客様の心を照らしたい」という意味が込められているんだとか。


 性に彷徨ったつもりはなかったが、結果的には僕もその一員なのかもしれない。

 大好きな人のために、男の心を捨てる時間を作ることに決めたのだから。


 でも、真意は違うとのこと。


「ホントは、彷徨うなんて言葉は使いたくなかったんだけどね。だってキャストたちは、彷徨ってないから。ちゃんと自分を持って、生き方を決めてるから。でも、キャッチーな響きがある方がお客様受けが良くなりそうでしょ? 結局客商売だしね。キャストのみんなもちゃんとわかってくれてる。まあ、これも政治ってやつね。ホンネとタテマエは別っていう」


 そんな凛夏さんの言葉を思い出しながら、覚悟を決めて店の扉を開け、中へと入っていった。


 すると、すぐに明るい声が飛んできた。


「春夏冬君! 本当に今日から来てくれたんだ!」


「もちろんです! 約束したので! 約束は守ります」


 薄暗い店内で、一人ソファに座りながら書類と向き合っていた凛夏さんが、笑顔で迎え入れてくれた。


 凛夏さんの顔は完全に経営者のそれとなっているように見えた。

 大学の時の顔と全然違う。


 そうか、いつも合同練習の後の飲み会に来ない理由がわかった。


 店が午後九時からなのに、午後六時とか七時に始まるサークルの飲み会になんて参加できるわけがない。

 六時とか七時なんて、もう開店準備を始めないといけない時間だろう。


「あと一時間で開店だから、一緒に控え室に来てもらっていい?」


「あ、はい」


 二十人くらいで詰め詰めになってしまいそうな、あまり広いとは言えない店内。


 その奥にある扉を開けると、そこには店内をさらに半分くらいの狭さにした部屋があった。

 ここが控え室らしい。


 中には、七人の男性……いや、女性……、とにかく、人がいた。


「こちらの方がメイク兼スタイリストの滝原たきはらさん。それでこちらの六人がキャストさん。今日は春夏冬君も含めて七人での営業になります」


 仕事モードに入ったのか、急に凛夏さんが僕に対して敬語になった。


「皆さん、こちらが今日から入ってくれる春夏冬君です。この仕事が初めてなので、皆さんでフォローをよろしくお願いします。それでは滝原さん、春夏冬君のメイクをお願いしますね」


「了解ー! うーん、この子は随分とメイクのやり甲斐がある顔してるねぇ。地味な女顔だから、こりゃ化けるわよ!」


「ですよね! やっぱり滝原さんもそう思います?」


 性別不詳な滝原さんから、お褒めの言葉をいただいた。

 そして、凛夏さんもその意見に乗っかっている。


 なるほど、やっぱり僕はそう見られていたわけか。凛夏さんが僕の顔をじっと見つめてくることが多かった理由がわかった。


 それから三十分ほどかけて、滝原さんは丁寧にメイクをしてくれた。


「思った通り、化粧映えするわねぇ」


「あははは……」


 褒めてくれているつもりなのだろうけど、僕にとってはなんの自慢にもならないことなので、ただただ苦笑いを浮かべるしかなかった。


 男の僕が、化粧をされたり女の衣装を着せられたりするのは正直屈辱的だ。


 でも、後悔はない。これで凛夏さんが喜んでくれるなら。


 凛夏さんとの繋がりが断ち切られてしまうという、僕の中で一番避けたいことを避けられるのならば、これくらいの苦労は屁でもない。


 そう覚悟を決めていた時に、店内にいた凛夏さんが控え室に戻ってきた。


「やっぱり思った通り! 春夏冬君、すごい可愛いよ! 嫉妬しちゃうくらい!」


「あははは……」


 興奮気味に褒めてくれたのはいいが、こればっかりは、いくら凛夏さんからの誉め言葉でもあまり喜べなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る